声を聞くだけで胸が高鳴る
授業中の回廊は今日も静かで、私は足音を立てないように歩いていた。集中している生徒の邪魔にならないようにしているからか、教室から聞こえるのは教師陣の声とペンを走らせる音。
(あら?)
ある教室を通り過ぎる時、聞き覚えのある声がする。
(ウールドリッジ先生ね)
学業へ真摯な彼の授業は得るものが多く人気と聞いた。信頼関係を築く前なら不思議に思っただろうが、今ではその理由が分かる。
(先生も集中しているのね)
私は足を止めてそっと彼の声に耳を傾けた。低く良く通るその声は静かな中でも聞き取りやすく、素晴らしい音楽のように一定の抑揚を保っている。心地よくて胸がじんわりと温かくなるのに、その中には高鳴りも宿っていて。ずっと耳を傾けていたのに、聞いていると心臓が持ちそうにない。
(矛盾してるわ……)
声を聞くだけで、その姿が想像できて。その姿を想像すると声が聞こえて。細胞が彼を覚えているかのように、私はウールドリッジでいっぱいだ。
(さあ、早く行きましょ)
このまま彼の声に引き込まれて続けていたら、いつまで経っても用事は終わらない。……本当はずっと聞いていたのだけど。
私は小さく肺を大きくすると、空気を吐き出す。気分を切り替えて、その場を後にしようとした時――。
カーン、カーン。
授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
ハッとして、あわあわと慌てる。このままではウールドリッジと鉢合わせてしまう。
自分の気持ちに気付いた夜から、彼とは顔を合わせていないのだ。今会ってしまえば、どう接したら良いかわからない。
(は、はやく離れなきゃ!)
しかし教室からドヤドヤと出てきた生徒に道を阻まれて上手く先へ進めない。しかも、私に気付いた生徒たちが挨拶に寄ってくる。
「寮母さんなにしてんの?」
「もうお昼よ?」
男女問わず親しみを持ってくれるのは嬉しいけど、今はそれが弊害になっている。早くここから離れたいのに、無下にも出来ない私はなんて甘いのだろう。
「――何をしている?」
頭上から落ちてきた声に、私の肩がビクつく。先程まで耳を側当てていた声だ。恐る恐る見上げれば、そこには教材を手にして扉に寄りかかっているウールドリッジがいた。
「早くランチへ行ってこい。次は実習だろう」
「あ! そうでした!」
時間に気付いた生徒たちは慌ただしく回廊を去り、残されたのは私とウールドリッジだけで。
「そ、それでは私も……」
「待て」
そそくさとその場を去ろうとした私を呼び止めたウールドリッジの言葉を振り切ってしまいたいのに、頭と体が相反する反応を起こして地面に足が縫い付けられたように動けない。
「なにか用だったか?」
「い、いえ……その……」
「なぜこちらを見ない?」
私は今きっと表情が混乱している。顔が赤くなったり青くなったり。だって、この間気付いたばかりの恋心に、まだ折り合いがついていないのに、もうその相手を前にしなければいけないなんて。
「あの、」
恐る恐る振り返れば、こちらを見るウールドリッジは目尻を和らげて、いつも憎まれ口を叩く唇は柔和な笑みを浮かべていた。途端、ドキッと一際大きく心臓が動いて、私は顔を俯かせた。そして、計画にないことを口走る。
「……い、一緒にお昼を食べませんか……?」
震える両手を握り込んだ。震えていた声は誤魔化せていただろうか。私は彼の返答を待ちながら、ウールドリッジを見上げた。
「あぁ、俺も誘おうと思っていた」
(さ、誘うとしてくれてたんだ……)
耳殻が熱くなるほど体温が上がり、嬉しさと恥ずかしさで目が回る。最近のウールドリッジはおかしい。いつから、私を優しげに見つめてくるようになったのだろう。
(……ずるい)
その表情だけで、言葉だけで、私の気持ちを掻き乱していく。
「どうした?」
「いえ、なんでもないです……」
「ん、」
「え?」
彼の手が伸びてきたと思ったら、私の顔の近くに垂れていた一房の髪に触れて。
「え、あ?」
「髪が乱れていた」
「ありがとうございます……」
尻すぼみになっていく言葉。お礼すら上手く言えなくて印象が悪くなっていないか不安になっていくが、それをすくい上げてくれたのは他でもないウールドリッジだった。
「仕事が忙しかったか?」
「ちょっとだけ。さっきまで動きっぱなしだったので」
「そうか。ならランチはゆっくりするか」
ウールドリッジは「ふむ」と一考して、目を細めた。
「あそこにしよう」
あそこだけで悟ってしまう私は、彼と重ねた時間を感じ取ってときめきとは違う感情が溢れた。それは安心であったり、優越感であったり、期待もあった。
(この人に、好きになって欲しい)
そんな欲張りなことを考えてしまうくらいに、私は彼に対して真っ直ぐで面倒くさい欲張りな気持ちを抱いてしまった。
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