聖女への手がかり
街から帰宅した夜に部屋の扉を叩く音がして、私はドアを開けた。
「吉乃さんこんばんわ!」
そこにはパジャマ姿の真帆が立っていて、私は彼女を自室に招き入れる。真帆は私の部屋を見て「わあ」と明るく声を上げた。
「可愛い! あたしの部屋とは違うんだね」
「そうね。寮生の部屋より小さく出来てるみたい。それでも家具やソファまで揃ってるんだから、十分な広さね」
水色生地にスミレがあしらわれた花がらの壁紙に、小さな暖炉。クローゼットや机も誂えられて、天井には小さく華奢なシャンデリアが下がって部屋を明るくしている。そして三つの出窓の向こうには街の灯りが見えた。
「なんだかロマンチックな部屋」
「ありがとう。少し少女っぽいかなとは思うんだけど」
フランスのアパルトメントの一室みたいな部屋は女の子の夢が詰まったような部屋で、とても素敵なのだけど少し恥ずかしさもある。けれど、私の気恥ずかしさを打ち破るように、真帆は「そんなことない!」と否定してきた。
「吉乃さんのイメージぴったり! 可愛くてキレイで素敵!」
(真帆ちゃんにとって私はこういうロマンチックな部屋が似合う人間なのね)
先程よりも恥ずかしさでむず痒くなりながら湧き上がる小さな喜び。素敵な部屋だからこそ、似合うと言われるのは悪い気がしなかった。
「あ! これが言ってた本?」
机に出しておいた絵本を真帆が見つけて私に振り向く。色褪せたピンク色の絵本を今夜読むことに決めていた私は、主人公の女の子が聖女ということで真帆と一緒にその表紙を開くことにしたのだ。
「どんな内容なのかな……?」
「緊張するわね」
到底、これから絵本を読む人間の表情ではない私たちは、そっとソファに腰をかける。絵本を持った私は、古い表紙を前に一つ息を吐くと、ゆっくりと開いた。
【聖女アリスとおともだち】
【むかしむかし アリスというおんなのこが いました。
アリスには とても なかのいい おともだちが いました。
しかし アリスとおともだちは おわれするときがきます。
アリスが おひっこしすることになったのです。
ないているアリスに おともだちはいいました。
「アリスなかないで。アリスのえがおが ボクはだいすきなんだ」
「でも とてもさみしいの」
アリスは なみだが とまりません。
「それならアリス。えがおになるおまじないを おしえてあげる」
「おまじない?」
おともだちは ゆびでクルリと えんをえがきました。
「おそらのなみだよ にじにかがやけ だいちのおはなよ にじにとどけ。
――ルミノーサ・サンクタ・■■■」
おともだちが アリスに となえました。
「ふしぎな じゅもんね」
「えがおになる おまじないだよ。ほら、アリスのなみだも とまった」
おともだちのいうとおり アリスのなみだは とまりました。
「ありがとう おともだち」
「またあおうね アリス」
こうして アリスとおともだちは おわかれしました。
なきむしアリス。 なみだをながすときは いつもおまじないをかけます。
そうすると えがおになるのです。】
絵本を読み終えると、私はパタリと本を閉じる。
「可愛いお話だったね」
「そうね。子供が喜びそうな物語だったわ」
私は元の世界で子供たちに読み聞かせた時を思い出し、この本を皆の前で読んだらどんな反応をするのか想像した。
(あぁ、いけないいけない)
うっかり感傷に浸りそうになって頭を振る。今は想像している場合ではない。
「でも、手がかりにはならないかも」
真帆が残念そうに呟く。確かに、この絵本の中に元の世界に帰れるヒントはなさそうだけど、気になったことがあった。
「ねえ、この部分どう思う?」
私が指さした箇所は、おともだちのウサギが唱えている呪文だ。最後の呪文のところだけインクが掠れて滲んでいる。古い本なので、劣化している部分もあるのは理解できるが、どうにも気になった。
「う〜ん確かに……? 最後の言葉はなんだろう?」
真帆は指でなぞりながらインクが滲んだ部分を見つめるが、でも結局読み取れはしなかった。
それに、気になる点はもう一つある。この本が元の世界での話なのか、この世界に来た時の話なのか分からない。おともだちのウサギが、本当は元の世界での人間の友だちだった可能性も否定出来ない。そもそもこれがアリスの実の話とも限らない。ただのモチーフという可能性のほうが大きい。
「考えてみても分からないわね」
「そうだね、この絵本にヒントはないみたい」
私と真帆は深い溜息を吐いた。今日の疲れもあってこれ以上の逡巡は時間の無駄だと判断した私たちは、互いに眠ることにする。
「それじゃあ吉乃さん、また明日ね」
「えぇ。よく眠るのよ」
「はーい! おやすみ吉乃さん」
「おやすみ真帆ちゃん」
扉が閉まり、部屋はシンと静まる。私はもう一度に触れた。
(なにかが変わると思ったのに……)
たかが絵本だと理解していたけど、期待もあった。でも今は追い風が向かい風に急に変わったように気持ちが少し沈んでいる。
(もどかしいわね)
いつ元の世界へ帰れるかもわからない。そもそもこの世界がどれほどの瘴気に侵されているのかもわからず、私たちは出口のないトンネルをずっと歩いているだけ。途方もない道の先に光が迎えに来てくれる光景なんて想像できなかった。
「……元の世界、か……」
帰りたい。そう願っているのに胸がつかえるのは何故だろうか。
(いけないわ。もう寝ましょう)
疲労で余計なことを考えてしまいそうになり、私は絵本から手を離した。灯りを落とし、出窓のカーテンを閉ざそうとすると、部屋にふわりと青い光がやってくる。
(あら? どうして……)
蝶の形をしたそれは、もう見慣れた魔法だ。
「ウールドリッジ先生?」
ひらひらと飛び回る青い蝶は私の元へやってくると、魔法の粒子を手紙に変えた。
『今晩、植物園へ』
浮かんだ文字は簡潔で、私は疑問に思う。こんな時間に呼び出されることは初めてだ。
「突然ね」
呆れながら、私は綺麗な文字を指でなぞる。ふわっと光の粒になってまた文字へ戻る不思議な魔法に、私の気落ちしていた心が、何故か回復していく。
(相変わらず、とてもキレイ)
魔力の粒子がペンの形になり、私は手に取った。感触があるようなないような、そんな感覚にも慣れたくらいに、この文通は良く行われている。それに――。
「さあ、行きましょうか」
飛んでいった蝶を見送りながら、私のそばで羽ばたく一匹の青い蝶に呼びかける。
(そろそろウールドリッジ先生の元へ返したいのだけど……)
この蝶は、秘密基地へ誘った蝶だった。気に入られたのか、気付いたらよく私の周りを飛んでいる。まるでお付みたいだ。
「そんなに急がないで? ちゃんと行くわ」
扉へ飛んでいく蝶は、まるで早く早くと急いでいるようだ。クスクス笑いながら、私はカーディガンを肩に掛けて寮をそっと出た。




