「其の三」
翌日、雫はいつも通り登校した。既に香織が雫を骨折させたことについて生徒の間で広まっているようで、その日はそれ程嫌がらせを受けなかった。
香織と話す機会はなかったし、雫自身も香織と何か話そうという気にもなれなかった。相変わらずやや孤立したままではあったが、嫌がらせがない分あまり不快な思いもせずにすんでいた。
放課後、雫は部室に向かったが、和弥も勤もそこにはいなかった。例の白い少女が隅でボーッとしているくらいで、部室の中は閑散としている。
少し二人を待とうと思い、雫は静かに椅子へ座り込む。昔はあんなに騒がしかった部室がこんなに静かになっているだなんて、昔の雫は想像も出来なかっただろう。
和弥を茶化して逃げる桜と、それを追いかける和弥、そんな二人を見て微笑む勤、一人で部室にいるとそんな光景ばかり思い返してしまう。
桜が亡くなって、和弥は一度塞ぎ込んだ。誰とも口を聞こうとしなくなったし、部室にもほとんど現れなくなった。和弥が部室に来なくなって、雫と二人きりで部室にいることが多くなった勤は雫に対するアプローチを次第にエスカレートさせていった。
そして雫も部室に来なくなり、久しぶりに集まったかと思えばこの様である。もう一度集まればきっと……そんな風に期待していた自分が恥ずかしくなってしまうくらいに、現実はうまくいかなかった。
「ねえ、どうして私達に怪異の封印なんて頼んだの……? 他の、もっと仲の良い人達の方が簡単だったハズだよ……?」
「偶然、あなた達に出会ったから。あなた達の仲が良いかどうかなんて、わからなかったから……ごめんなさい」
小さく謝罪の言葉を告げて、少女は少しだけしゅんとした様子を見せる。普段感情がなさそうな振る舞いをする彼女だが、勤が怪異達を妖怪扱いした時に少し怒って見せたり、こうして謝ったりといった様子を見るに、感情がないわけではないらしい。
「そっか……そうだよね、私こそごめんね……」
悲しげにそう言って、雫は顔をうつむかせる。いくら待っても二人が来ないことはある程度察してはいたけれど、もう少しだけ待ってみようと思った。
勤と派手に殴り合った翌日の放課後、和弥は部活に顔を出さないで実家へと戻っていた。バスで通わなければならないとは言え、それ程学校と実家は離れていない。学校の後真っ直ぐに実家へ戻ってきた和弥を見て、和弥の母は玄関で出迎えながら目を丸くして驚いた。
「和弥……アンタ連絡もよこさないで……」
「悪い、ちょっと……な」
曖昧に言葉を濁して和弥は、母から気まずそうに目をそらす。急に一人暮らしがしたいと言い出した和弥を渋々ながらも送り出し、生活費や小遣い、食べ物や日用品を毎月渡してくれる両親にはあまり口にはしなかったものの心底感謝している。そしてその分迷惑をかけてしまっている、という自覚があるせいで和弥は両親にどこか気まずい感覚を持ってしまっていた。
「……いつでも帰ってきなさいよ」
「ああ……ありがとう」
小さく礼を告げて、和弥は玄関を後にして自室のある二階へと向かう。
久しぶりに実家の自室に入ると、何とも言えない懐かしさと心地良さが込み上げてくる。置きっぱなしの漫画やゲーム機を手に取り、少しだけ積もった埃を払いながら和弥は小さく溜息を吐く。
デスクを見ると、最初に目に入ったのは机に直接貼られたプリクラだった。雫とその友人の香織、勤と和弥、そして桜が今では考えられないような笑顔を浮かべて写っている。貼り付いてしまった埃を指でなぞると、当時のことが鮮明に思い出される。
「そんなに昔じゃねえんだけどな……なんか遠いや」
このプリクラを撮った日から、まだ一年も経っていない。だというのに、もう随分と昔のことであるかのようにさえ思えてしまう。いつもの三人がいて、香織がいて、そして桜がいて、それが当たり前だった毎日が随分遠い。本当にもうそれは過去の写真の中にしか存在していなくて、今はもうどこにもない。
そのまま部屋を後にして、和弥は桜の部屋を訪れる。桜の部屋はほとんど生前のままになっており、デスクもベッドも桜が亡くなる直前のままだ。
デスクの上には本や鞄が投げ出されており、ベッドの布団も乱れたままになっている。まるで今にも桜が帰ってきて「勝手に入らないで」だなんて呆れた顔で和弥に言うのかも知れない。そんな風に思えてしまうけれど、デスクに薄っすらと積もった埃をなぞればそれが妄想に過ぎないと気づけてしまう。
いつからこのままなのかわからないが時計は止まったままで、この部屋の時間そのものがまるで止まってしまっているかのようだった。
デスクには和弥のデスクに貼っているものと同じプリクラが貼り付けられており、嫌でも和弥の視界に飛び込んで来る。
もうここにあるものは全て過去のもので、少しも時は流れていない。持ち主のない部屋は、時が流れないまま置き去りにされていた。
それはきっと、和弥の部屋も変わらなかった。桜がいなくなってから、家の至る所に桜の思い出が潜んでいることを知った。ソファに座るだけで隣にいた桜を思い出すし、階段を上るだけで桜の部屋から漏れていた音楽を思い出す。食卓の食器はいつだって一人分足りないし、もう和弥の部屋に来て授業やその課題について聞きに来る者は誰もいない。それがどうしても耐えられなくて、和弥は桜の思い出のない場所へ逃げ込んだ。なるべく遠ざけたくて、なるべく思い出したくなくて、和弥は自分の心を守りたくて逃げることを選んでいた。
それでも、ほんの片時も忘れられなかった。ずっと桜のことばかり思い出して、それでも外面ばかり強がって、結局和弥は満足に逃げることさえ出来なかった。
――――もういない人間を求めたって意味がない! お前自身がよくわかっているハズだ!
勤の言葉が今更刺さる。いない桜をどれだけ求めたところで、桜は還らない。例えどんな手を握ったって、もうそこに桜の温もりは存在しない。
そう考えるとたまらずに涙が溢れてきて、和弥はそこに立ち尽くしたまま涙を流す。
「止まっ……てん、だ……俺……」
きっとあれからずっと、立ち尽くしていた。
和弥が実家に帰っている頃、勤は香織に屋上へ呼び出されていた。約束の時間よりやや早めについた勤が屋上で待っていると、神妙な面持ちで香織は現れた。
「……君の顔はもう二度と見たくないと言ったハズだが」
刺のある言い方ではあったが、少しだけ柔らかい調子で勤がそう言うと、香織は泣きそうな表情を浮かべて真っ直ぐに勤を見つめた。
「お願い犬飼君……雫にならって思ってたけど、やっぱり無理なの! どうしても好きなの……!」
まるで、すがるような表情だった。彼女が勤の何を見て、何を感じて勤を好きになったのか勤にはわからない。それでも、彼女が必死で訴えていることだけはわかる。言葉を遮らず、勤はただ香織の言葉に耳を傾けた。
「どうしても……どうしても雫じゃないとダメなの……?」
――――何故和弥の方を見る? 何故和弥なんだ?
不意に思い出したのは、かつて勤自身が雫に対して投げかけた問いだった。
何故和弥なのか、何故自分じゃダメなのか、ずっとそう思っていた。勤にとって雫は姉で、一人ぼっちの自分を支えてくれる唯一の人だと、そう思っていた。
そんなものが恋愛感情とはかけ離れているということに、今まで気づきもしないで。
「どうして、どうして雫なの……?」
似ているな、と素直に感じる。勤が雫に求めていたものと、香織が勤に求めているものはまるで違うけれど、自分自身に置き換えれば香織が必死なのは痛い程理解出来た。
「そうだ、そう……思っていた。だけど今は……わからない」
「それじゃあ……!」
しかし勤は、首を左右に振って見せる。
「それとこれとは……話が違う。君を急に好きになることは、出来ない」
勤がそう答えた瞬間、香織は少しだけ涙した後すぐに屋上のフェンスへ飛びついた。
「わ、私が……私がここで死ぬって言っても!? それでも犬飼君は付きあわない!?」
必死の形相で叫ぶ香織に、勤は答えない。いや、答えることが出来ない。ハッキリと言うわけにも、曖昧な言葉を投げかけるわけにもいかず、勤は口をつぐんだままだった。
すると、香織は思いつめたような表情でフェンスをよじ登り始める。フェンスの最上部は有刺鉄線になっており、落ちても落ちなくても必ず怪我をすることになるだろう。すぐに勤は香織をフェンスから引き剥がさんとして駆け寄って掴んだが、香織は頑としてフェンスから離れなかった。
「放してよ! 友達も裏切って、犬飼君に見てもらえなくて私どうしたら良いの!?」
――――俺はどうすれば良い!? 俺には姉さんしかいなかった……雫は、雫は俺の姉さんになってくれるかも知れないんだ……ッ!
思わず、香織の姿が勤自身と重なる。思いつめて思いつめて、もうどうしたら良いのかわからなくて、何もかもが思うようにいかなくて。
香織のやり方は間違っている。雫をいじめることも、こうして無茶苦茶な行動をすることも間違っている。
きっとそれくらい必死で、どうしようもないのかも知れない。香織が勤の事情を知らないように、勤だって香織の事情を知らない。だからこそ、彼女を知りたいと思えた。ずっと勤を見ていた彼女が何を想い、どんな気持ちで勤を好きになったのか、勤はそれが知りたくなった。
「いいから降りろ!」
泣き叫ぶ香織を強引に引きずり下ろすと、香織はそのまま地べたで泣きじゃくり始める。まるで迷子の子供だ。
勤と、変わらない。
「もう一度言う。俺は、君を急に好きになることは出来ない」
香織は泣きじゃくるばかりで、勤の言葉を聞いているかどうかさえわからない。それでも勤は、そのまま言葉を続けた。
「俺は今まで、姉さんの面影を追い続けていた。雫は顔だけじゃない、物腰や仕草も姉さんによく似ていた……いや、そう思おうとしていた。雫が姉さんそのものだと、俺は思いたかったんだ」
家族は、自分の居場所を保証してくれる場所だ。それを失ったままでいる勤にとって、居場所とは未だに姉のことだった。もういない姉の面影を雫に重ねることで、自分の居場所を保証しようとしていたに過ぎなかった。
ただただ一人ぼっちで寂しかった、迷子の子供だった。
「俺が好きだったのは雫としての雫じゃない、姉さんとしての雫だったんだ」
――――死人を引きずってんのはテメエの方だ!
和弥に桜がどうだと何度も言っておきながら、その実死人を引きずり続けていたのは誰よりも勤だった。死んだ姉のことを引きずり続けて、雫を見てなどいなかった。
勤が埋めたかった穴は姉のいた場所で、そこはどうしようもなく姉だけの場所だ。他の誰も代われないし、その穴を埋められるのは未来永劫姉の美月だけだ。そんな場所に無理矢理雫を置こうとして、自分のエゴで雫を強引に手に入れようとしていた。それも雫としての雫じゃない、姉としての雫だ。それがどれだけ雫を傷つけたか考えると、今になって胸が痛い。取り返しのつかないことをしようとしてきたことに、今更になってやっと気がついた。
「君のことは好きじゃないが、別に嫌いなわけじゃない。だから……最初から始めないか?」
「……最初から?」
いつの間にか少し落ち着いて、勤の言葉を繰り返した香織に、勤は静かに頷く。
「俺は、俺は君を好きになりたい。もういない姉さんよりも、和弥のことばかり見ている雫よりも……俺のことを今まで一番見てくれていた、君を」
その瞬間、折角止まっていた香織の涙がまた溢れ始める。たまらなくなって、泣き顔のまま香織は勤の胸に飛び込んだ。
それを優しく受け止めて、勤はそっと肩に手を回す。姉としてではなく、居場所を保証するものとしてでもなく、ただ純粋に愛おしいと思えた。
「それはもう……“好き”っていうの……」
涙混じりの香織の声が、涙と一緒に胸に染み込んでいく。もう少しだけ、このままこうしていたいと思った。もし時が止められたなら、きっと止めていた。
その日の夜、雫は旧校舎の屋上へと向かった。札の切れ端では封じることが出来ず、雫一人では何も出来ないことは自分でもわかっていたが、せめて屋上がどういう状態になっているかだけでも把握したかった。状態がわかれば和弥や勤と共に封じる時、何か役に立つかも知れない。そう考えて雫は旧校舎屋上へと向かっていた。
そんな下見に意味はない。むしろ危険なばかりでメリットはあまりない。勤がいれば間違いなく雫に行くなと止めていただろう。
それでも雫は、“今”何かがしたかった。心の中で沈殿する暗い、淀んだ気持ちをとにかく誤魔化したくて、ジッとしていればいる程悪い方向にばかり考えてしまうような気がして。とにかく今の気持ちを有耶無耶にしたかった。
屋上のドアは老朽化しているせいかノブをひねった時点で鍵が壊れてしまい、簡単に屋上へ上がることが出来た。恐る恐る足を踏み入れた途端、雫の全身を怖気が走る。
「――っ!」
漠然とした感覚ではあるが、屋上全体に厭な空気が張り詰めているように感じる。こんな時に限って月は雲で隠れていて大した明かりもなく、薄暗いのが余計に恐怖心を煽る。用意しておいた懐中電灯の電源をすぐに入れたが心許ない。
古い校舎なせいかフェンスはなく、桜の一件以来学校の屋上にはフェンスが取り付けられているため、フェンスのない屋上は怖く感じられた。ここから落ちればすぐに死んでしまうのかと思うと、特別高所恐怖症というわけではなくても少し身震いしてしまう。
空気が重い。濁った空気を肺に吸い込むと、それがどんどん身体中に広がっていって余計に気分も重くなるような気がした。
屋上全体を見回してみても、怪異らしきものは確認出来ない。最初のマスク女や、トイレの少女のような存在は屋上にはいないようだったし、あるとすればこの厭な雰囲気くらいだろうか。
そうしてしばらく屋上をウロウロした後、雫は小さく溜息を吐いて入り口のドアへと歩いて行く。ただただ気分が悪いばかりで何の進展もないのなら、ここにいるだけ無意味だった。
少しでも気が紛れるかとも思ったが、余計に気が重くなるだけで雫にとっては何の意味もない。何がしたかったのか自分でもわからなくなって、もう一度雫は溜息を吐く。
そんな雫の行く手に、突如人影が現れる。まるで通せんぼするようにドアの前に立つその人影に懐中電灯を向けると、そこに立っているのが香織だということがわかった。
「香織……!?」
驚いて声を上げる雫だったが、香織はそれには答えずに薄く笑みを浮かべる。
「アンタってホント鈍感よね」
「香織? 何言って――」
「人の気持ちがわからないのよアンタは。だから平気で傷つける、アンタみたいなの死んじゃえば良いのに」
それは勤のことだったか。
勤の気持ちは、歪んでこそいるものの表面上は雫へ向けられたものだ。姉の美月を見ているとは言え、勤は必死で雫に想いを伝えようとしていた。当然、そんなことは雫にだってわかっている。だけれども、雫はそんな思いには一度も応えようとはしなかった。いつだって曖昧に言葉を返して、ハッキリしないまま有耶無耶にし続けた。
和弥が好きなら好きでハッキリと伝えれば良い。それをしないで曖昧なままただ勤の思いを拒絶して。それで勤がどれだけ傷ついたかなんて、雫は今まで考えようともしていなかった。
「い、いや……」
震える声でそう言いながら後ずさると、背中から誰かにぶつかる。振り向くと、そこにいたのは勤だった。
「つ、勤君……?」
勤の表情はひどく悲しそうで、その瞳はどこか虚ろだ。
「どうして君は答えてくれない……俺は、俺はこんなにも君だけを見ているのに……」
瞳に色が宿る。黒い、純粋な黒ではない濁った黒い憎悪が勤の瞳を汚す。その瞳が、ジットリと雫をとらえた。
「俺の傍にいないのなら……もう死んでくれ」
「そん……な……っ」
勤は決してそんなことを言うような人間ではない。わかってはいても、辛くて泣き出しそうになる。既に状況を冷静に判断するような余裕はなく、雫はただ震えながら涙をこらえるばかりだった。
そんな雫の肩に、背後からそっと手が乗せられる。すぐに振り返ると、そこには和弥が立っていた。
「――和弥君っ……!」
一瞬雫は表情をほころばせたが、すぐにそれは絶望に染まる。
和弥の目は、まるでゴミか何かでも見るように冷たかった。
「もうお前、生きてたって全然楽しくねえだろ?」
そう言って口元だけで微笑んで、和弥はもう一度雫の肩を叩く。
「悪いけど、俺、お前のことなんかどうとも思っちゃいねえんだわ」
「え……?」
その瞬間、思わず雫は膝から崩れ落ちる。わけもわからないままボロボロと涙を流し、見下ろす和弥の冷たい視線を感じながらその場でしゃくり上げた。
そんな様子を見下ろして、和弥達はクスクスと笑い始める。そんな笑い声が聞きたくなくて両手で耳を塞いだが、まるでその手を通り抜けるかのように笑い声は雫の鼓膜を刺激した。
「しーね、しーね、しーね、しーね」
唐突に、手を叩きながらリズムに合わせて和弥がそんなことを言い始めた。それは徐々に勢いを増していき、気がつけばその場にいる雫以外の三人全員が同じように手を叩きながら「しね」を繰り返し始めていた。
「「しーね、しーね、しーね、しーね、しーね、しーね、しーね、しーね」」
「やめてっ……やめて……っ!」
どれだけ耳を塞いでも、まるで頭の中に直接聞こえてくるかのようにしねコールは鳴り止まない。泣き叫んでかき消そうとしたって、ほんの少しも弱まりはしなかった。
和弥達のこんな子どもじみた行為が、嫌という程雫に突き刺さる。いっそのこと本当に死んでしまった方が楽なんじゃないかとさえ思えてしまう。
「「しーね、しーね、しーね、しーね、しーね、しーね、しーね、しーね」」
もう雫は、そこにある全てが怪異によるものだということに気づけない。和弥も勤も香織も、全て幻影に過ぎないということに気づくことが出来ない。既に、屋上の怪異に飲み込まれてしまっている証拠だ。
ふらりと立ち上がった雫は、ゆっくりと歩を進めて行く。絶え間なく続くしねコールに背中を押されながら、ゆっくりと雫はフェンスのない屋上の端へと歩いて行った。




