「其の二」
雫は基本的に学校を休まない。体調を崩すこともあまりなく、転校してきて以来雫が学校を休んだのは今回が初めてだった。いじめを受けている、という事情を知っている勤は勿論、和弥も雫のことが心配になり、やや険悪なムードのままではあったが和弥と勤は二人で雫の家までお見舞いへ向かった。
「雫それ……大丈夫かよ!」
「う、うん……大丈夫、ちょっと転んだだけだから……」
どうやら骨折しているらしく、ギプスの着けられた右腕を見せながら雫は苦笑する。口では大丈夫と言っているものの表情は浮かない。
「……本当に転んだだけか?」
鋭い視線を向けて勤がそう問うと、雫は少しだけ視線を泳がせた後小さく頷いて見せる。
「うん、ちょっと打ちどころが悪かっただけだから……すぐ治るし、大丈夫だから」
あまり大丈夫そうに見える様子ではなかったが、雫はあまり詮索されたくなさそうに顔をうつむかせてしまったため、和弥も勤もこれ以上怪我のことには触れようとしなくなってしまう。
「あ、そうだ。大したことねえけど、これ勤と買ってきたんだ」
和弥が差し出したのは、近所のケーキ屋のケーキが箱詰めされた袋だった。折角見舞いに行くのに手土産もなし、というのはどうかということで二人で半分ずつお金を出して購入したものだ。しかし雫はそれをしばらく見つめた後、小さくかぶりを振った。
「そんなに気を使わなくて良いのに……。ごめんね、あまり食欲ないから……」
「……そうか。ならこれは俺と和弥で食べよう。とにかく今は無理せず休んだ方が良いかも知れないな」
薄く微笑んでそう言って、勤は和弥から袋を取り上げる。和弥はやや不服そうな表情こそ浮かべていたものの、雫を休ませたい気持ちは同じだったのかそれ以上何も言わなかった。
雫の見舞いの帰り道、和弥と勤は二人で河川敷を歩いていた。お互い特に言葉はなく、気まずい空気のまま黙々と歩を進めていく。部室でもめた昨日の今日だったため、そもそも一緒に行動していること自体不思議なくらいである。
「……和弥」
そんな重い沈黙の中、口を開いたのは勤だった。
和弥は言葉では答えなかったものの、地面と前ばかり見ていた目を勤に向ける。
「雫は、いじめにあっている」
「……!?」
勤のその言葉を聞いた途端、和弥の目の色が変わる。まるで勤へ食って掛かるように迫ると、すぐさま怒号を飛ばした。
「何で言わなかった!?」
「君に言って解決するのか?」
「そういう問題じゃねえだろうが!」
「いつまでも桜を引きずる君に、生きた人間の話をしたって仕方がないだろう!?」
「こないだからテメエは桜桜と……ッ!」
次の瞬間、和弥の拳が勤の頬に叩き込まれる。突然のことに反応出来ずにのけぞる勤だったが、すぐに態勢を立て直して和弥を殴り返した。
「事実だろう! 現に君は、雫の好意に気づこうともしない! それとも、気づいていながら無視しているのか!」
勤のその言葉に、和弥は一瞬だけ押し黙る。拳を震わせたまま、和弥は少しだけその場で硬直していたが、やがてキッと勤を睨みつけて思い切り殴り返した。
「だったら……だったらテメエが振り向いてもらえねえのは俺のせいか!? ふざけんなッ!」
そのままお互いに息を荒げながら睨み合う。どちらも完全に頭に血が上っており、顔を真っ赤にして激情を露わにしていた。
「もういない人間を求めたって意味がない! お前自身がよくわかっているハズだ!」
「違う、そうじゃない……俺はッ……!」
言葉を続けることが出来ず、和弥は言い淀む。その先に何を言おうとしていたのか和弥自身にもわからなかった。
「桜はもういない……認めろッ! もういない者は助からん、いい加減理解しろ!」
「ンなこと……テメエに一々言われなくたって最初からわかってんだよ!」
再び、和弥の拳が勤の顔面に叩き込まれる。そのままお互いに激しく殴り合い、掴み合いになった二人は足をもつれさせ、河川敷をごろごろと転がって川の中へと転がり落ちていく。
雫の受け取らなかったケーキの袋は、殴り合いの中で取り落とされて道路に落とされたまま放置されている。きっとその中身は、原型を留めない程にグチャグチャだった。
和弥と勤が帰った後、雫はすぐに自室に戻ると飛び込むようにしてベッドへと倒れ込む。二人が見舞いに来てくれたことは嬉しかったが、とても素直にはしゃげるような気分ではなかったし、ケーキを食べたいと思えるような気分でもなかった。
ギプスでガチガチに固められた右腕を見ていると、自然と目頭が熱くなってくる。何もかもがうまくいかないような気がして、暗い気持ちが心にのしかかってきた。
「何で……こうなっちゃうんだろうね……」
顔を上げて雫は、デスクに直接貼り付けられたいつかのプリクラに目を向ける。和弥と、勤と、香織と雫、そして和弥の妹の桜。五人が楽しそうな笑顔で、狭いプリクラ写真の中に収まっている姿を見ると泣き出しそうになる。桜が亡くなって、超常現象研究会がその活動のほとんどを休止した状態になる前はあんなにも楽しかった日々が、今はこんなに暗くて重苦しいのかと思うとやり切れない。どうしてこんなことになってしまったのか、どこでこんなに違ってしまったのか、雫には見当もつかなかった。
雫が骨折した原因は、香織だ。
学校での雫に対する嫌がらせが始まって以来、香織と喋る機会はかなり減ってしまっていたが、昨日は放課後久しぶりに香織と話をすることが出来ていた。最初こそ他愛もない話題だったが、教室を出て下駄箱に向かいながら階段を降り始めた辺りで雫が最近受けている嫌がらせについて話し始めた時、香織の態度が不意に変わった。
「アンタってホント鈍感よね」
呆れたようにそう言った香織に、雫は何が何だかわからずに言葉を返すことが出来なかった。
「犬飼君がどんな気持ちだかわかる?」
「香織……?」
香織がそこまで言ったところで、やっと雫は香織の態度の意味を悟ることが出来た。
香織が勤に好意を寄せていて、振られてしまったことは雫も知っている。香織本人から聞いた話だ。その勤が雫に好意を向けていて、雫がそれを拒否している……その状況下で香織がどんな感情を抱くのか、雫が今それに気がついたところで既に遅い。香織の中で膨れ上がった嫉妬は、雫が今まで考えもしなかった方向性へ向かってしまっていたのだ。
「ねえ何で……? 犬飼君はあんなにアンタが好きなのに、何で!?」
違う、そうじゃない。香織が言いたいことはきっとそうじゃない。わかっていたけれど、雫は反論出来ないまま香織の言葉と両手で揺さぶられ続けた。
嫌がらせも香織が主犯格なのかも知れない。確証は今のところなかったが、何となくわかってしまう。
「何とか答えなさいよ!」
その場で強く押し飛ばされ、雫は受け身も取れないまま階段から転がり落ちていく。激痛に呻く雫と、階段の上で怯え切った表情を浮かべる香織の周囲に生徒が集まり始めると、香織は慌ててその場から逃げ出してしまった。
打ちどころが悪ければ死んでいたかも知れない。骨折ですんだのは幸いだったし、それ程複雑な折れ方ではなかったらしく、医者によれば治りも早いらしい。
しかしそれでも、心に受けた傷は骨折以上に重く、痛い。
「何が間違っちゃったんだろうね……」
一人呟いたところで、答えは出ない。プリクラは過去で、この痛みだけが今だ。
和弥を好きになってしまったことがいけなかったのだろうか。誰かを好きになることが間違いだなんて思いたくはなかったけれど、考え方によっては雫が和弥を好きにならなければこうはならなかったのかも知れないとさえ思えてくる。かと言って、雫が勤を受け入れればそれですむような話でもない。何か、どこかを少し変えたくらいじゃどうにもならない。もっと本質的で、根本的な変化が今の状況には必要なのかも知れない。勿論そんなことを促す力は雫にはなかったし、そもそも何が変われば良いのかも判然としない。おまけに怪異のことだって雫一人ではどうにも出来ないと来ているのだから、自分があまりにも矮小で大したことのない存在だと思い知らされる。自分には、何も出来ない。
そう考えると、段々と全てが自分の責任であるかのような気がしてきて、雫は布団に顔をうずめて静かに涙した。
涙は布団が吸ってくれても、嫌な思いや痛みはずっと残り続けた。
和弥と勤が落下した川は溺れる程深くなく、立ち上がると下半身が浸かる程度だ。二人は立ち上がると、再び互いの感情と拳をぶつけ合い始めた。
「テメエの方こそ、いつまで姉の面影を追い続けてンだ!」
「姉さんは俺のことを見てくれた唯一の人だ!」
「それは雫には関係ねェ!」
言葉と共に勢い良く殴り倒され、勤はその場に沈む。肩で呼吸をしながら和弥がジッと水面を見つめていると、すぐに勤は起き上がって和弥へ視線を向けた。
「だったら……だったら俺は……」
一瞬睨みつけているようにも見えたが、勤はまるですがるような目で和弥を見つめている。和弥がそれを訝しむよりも早く、勤はしがみつくようにして和弥の両肩を掴んだ。和弥はすぐに殴り飛ばそうとしたが、その両手が震えていることに気がついて躊躇った。
「俺はどうすれば良い!? 俺には姉さんしかいなかった……雫は、雫は俺にとっての姉さんになってくれるかも知れないんだ……ッ!」
まるで、捨てられた子犬のような表情だった。頬を伝う水が川の水なのか涙なのか、和弥には判別出来なかったが、勤はひどく寂しそうな顔で和弥を見つめている。
いくら勤が救いを求めようと、和弥には何も出来ない。ただ雫に執着しているだけのようでいて、その実ただ寂しかっただけなのかと思うと悲しくなってくる。
勤の辛さが、寂しさがわからないような和弥ではない。大切な妹を失った和弥と、大切な姉を失った勤の寂しさの何が違うというのだろうか。本当はもっと分かり合って、手を取り合っていけたのではないだろうか。いなくなってしまった者、そうして生まれた穴は決して埋めることは出来ないけれど、せめて互いに寂しさを紛らわせていく道だってあったハズだった。こんな形でなくたって、互いの思いをハッキリと伝えることだって出来たハズだった。どうしてこんなことになってしまったのか、何故傷つけ合わなければならなくなったのか、和弥にも勤にもわからなかった。お互いの手が冷え切っている以上、握り合っても温まることは出来なかったのかも知れない。
勤は哀れだった。それは勤から見た和弥も同じだ。しかしそれでも、昂ぶり過ぎた感情は止められない。和弥は、今の勤に何か言葉をかけてやれるような冷静さも、気持ちの余裕も持ちあわせてはいなかった。
「ンなこと……俺が知るかよ!」
容赦なく和弥が殴りつけると、勤は一度のけぞった後すぐに和弥を殴り返す。
「俺はお前が許せない……雫の気持ちに答えるどころか、見向きもしないお前のことが!」
勤のその言葉に、和弥は何も答えない。殴り返そうともせず、ただ黙ったまま勤を見つめるだけだった。
本当はわかっている。雫がずっと和弥を見ていて、好意を寄せていることなんか前からわかっていた。互いに踏み出せないでいる内に桜がいなくなって、桜のことばかり考えるようになって、気づけば和弥は雫の気持ちを考えなくなっていた、考えないようにしていた。もう雫のことを考えられるような余裕は和弥にはなくて、ただただ心に吹く隙間風に震えるばかりだった。桜のいた場所には、雫はいられない。雫は桜ではないから、和弥の中に空いた穴は埋められない。
勤だって同じハズだ。雫は姉じゃない、姉のいた場所に雫はいられない。けれども勤はどうしてもその穴を埋めたかったのだろう。雫がそこにいれば、きっと穴は埋まるんだと信じ続けている。そう信じなければ、その可能性にすがらなければどうにかなってしまうのかも知れない。勤が今どんな状況に置かれているのかなんて和弥にはわからなかったけれど、きっと気持ちはそれ程変わらない。
二人共、どうしようもなく迷子だった。
「答えろ……答えろ和弥! どうしてお前まで俺に応えない!?」
何も言わないで黙っている和弥の態度に業を煮やしたのか、勤は再び和弥を殴りつけた。
「何故だ……何故だ!」
「君達! そこで何やってるんだ!」
そんな殴り合いを続けている内に、河川敷を通りがかった警官に呼び止められた二人は、そのまま交番まで連れて行かれ、厳重注意を受けた後それぞれの帰路に着いた。
互いに言葉はない。わだかまりも残ったままだったけれど、思いをぶつけ合ったせいかどこか今までよりはスッキリとした気分でいられるような気がした。




