「其の四」
旧校舎の美術室で、和弥はジッと合わせ鏡を見つめていた。
合わせ鏡に映っているのは和弥ではない、一人の少女だ。和弥は悲しげな表情のまま、ただジッと少女のことを見つめ続けている。
少し癖っ毛気味の、ショートカットの強気そうな少女だ。目鼻立ちは和弥に似ており、すぐに和弥と少女が兄妹だと思えてしまうくらいだ。しかしそのちょっと強気そうな双眸も、今は悲しみを湛えている。
鏡に写っているその少女こそが新藤桜、和弥の亡くなった妹だった。
「勤の、言う通りだ……俺はずっと、お前を引きずってる」
夜の旧校舎、この美術室の合わせ鏡には死者が映る。例の少女にそう言われて以来、和弥は毎日のようにこの場所に通い続けていた。来る日も来る日もここに訪れ、こうしてジッと桜を見つめる。そんなことをしたって何の意味もないことはわかっていたけど、それでも和弥は毎日のように桜を見つめ続けた。
きっとあの時、桜の手を掴めなかったあの瞬間から和弥の時は止まってしまっている。あの屋上から一歩も動けないまま、和弥はずっと立ち止まっている。何もない場所に手を伸ばし続けて、ひたすら空を掴んでいる。
「気は、すんだ?」
不意に現れ、背後から問いかける少女に、和弥は答えないままそっと鏡に手を触れる。
ひんやりと冷たい感触が手のひらに伝わるばかりで、目の前にいるハズの桜には少しも届かない。
「その鏡には、映るだけ。あなたとは、触れ合えない」
わかっていた。そんなことは最初からわかっているハズだった。だけれども、こうして目の前に映れば思わず手を伸ばしてしまうのが人間だった。もういない者が見えれば、そこにまたいるんだと錯覚してしまう。
「死んで、いるから……」
震える唇で紡いだ和弥の言葉に、少女は静かに頷く。
「そう」
触れ合うことは出来ない。もう死んでいるから、もうそこにはいないから。
「もしあの時俺が傍にいてやれたら、俺はきっとあの手を掴めたハズなんだ……」
もっとちゃんと傍にいれば、桜の苦しみに気づいてやることが出来れば、何度も何度もそう思った。せめてもう少しだけでも早く駆けつけられたら、桜が落ちる前にその手を掴めたハズだった。
「でももう、ない手は掴めない」
「……わかってる」
少女の言う通りだった。和弥の掴みたい手はもう、どこにもない。どこの誰を助けたってそれは絶対に変わりはしない。もう和弥には、いない桜を助けることなんて出来はしない。
「勤にも言われたよ、いつまでも桜を引きずる君に、生きた人間の話をしたって仕方がないだろって」
――――助けられなかったものは、何を助けたってもう助からないんだ。
勤の言葉が脳裏を過る。結局和弥が助けたいのはどこまでも桜で、他の誰を助けたってそれはなし得ない。和弥の時間は、そんなことをしたって決して動きはしないのだ。
「もう何をしたって、桜は還っちゃ来ねえんだ」
悟ったようにそう呟いて、和弥は合わせ鏡から目を逸らす。
「もしあなたが誰かの手を掴むとしたら、それはもう、その子じゃない」
「……そうだよな、もう、いねえんだもんな」
噛みしめるようにそう言って、和弥は鏡から手を離してそっと空を掴む。握った拳は冷たかったけれど、冷たい鏡に触っているよりは余程マシだった。
「気付いて、ずっと近くであなたに手を伸ばしている人がいることを」
「雫……」
思わず口にした名前は、雫だった。そうだ、今苦しんでいるのは雫だ。勤の言う通り、和弥はもういない桜のことばかり考えて、目の前にいる雫をずっと見落としたままだった。今辛いのは雫で、きっと手を差し伸べて欲しいのも雫だ。
どれだけの時間、見ないフリをし続けていただろう。桜がいなくなってからずっと、和弥は目をそむけ続けていた。助けたい、放っておけない、そんな言葉ばかり口にしておいて、結局和弥は一番近くで手を伸ばしている雫の手を掴もうともしていなかった。
勤の言う通り、死人にばかり目を向けている和弥には、生きている者の話をしたって意味がない。だから見落とす、だから気づかない。大切な人がいなくなってしまったとしても、だからと言って全てがなくなるわけじゃない。大切なものを失って、それに囚われるばかりでまだそこにある大切なものを見失ってしまえば、きっと和弥の手は今度も空を掴むだろう。
桜の手は掴めた、掴めたハズだった。それでも間に合わなかった、気づくことが出来なかった。それを悔やんで、なんとか出来たと思うのならそれを悔やみ続けるよりも一歩先に進むべきだった。繰り返さないために、今度は手遅れになる前に。
「行ってあげて」
そう言って、少女が指さしたのは上だった。
「行くって……まさか屋上に雫が来てるのか!?」
「一人で、行ってしまったから」
その言葉を聞いてすぐ和弥は屋上へ向かおうとしたが、思わず惜しむようにして合わせ鏡へ目を向けてしまう。そこに映る桜はあまりにも悲しげで、どこか心配そうな様子で和弥を見ていた。
「俺は……俺は……」
込み上げてくるものがあって、それが止められなかった。勢いのままに今度は強く拳を握り締めると、和弥は手が傷つくのも恐れないで合わせ鏡を思い切り殴りつける。
音を立てて鏡が割れて、桜の映っていた鏡が粉々に砕けていく。気づけば、和弥は泣きながら叫び声を上げていた。
「うわああああああああああああああああッ!」
振り切るようにして鏡の破片に背を向け、和弥は袖で涙を拭う。
「桜は……桜は死んだ……!」
「そう。あなたは辛かった……。だけどあなたが振り切らないと、その子もきっと安心出来ないから」
たった一人の妹だった。助けたかった、生きていて欲しかった。けれどもう、彼女は還らない。それを自覚するのが恐ろしくて、和弥はずっとその事実から逃げ続けていた。
逃げるように部活に行かなくなり、思い出から逃げるように実家を離れた。それで何が変わった? 少しでも前に進めたのか? 何も変わらない、ただあの屋上で時間が止まったまま、和弥は延々と立ち尽くすだけだった。
もういい加減、歩き始める時だ。
「俺、行かなきゃ」
「どこへ?」
少女が問うてから、少しだけ間があった。しかしハッキリと、和弥はこう答える。
「雫の所だ」
走り出した和弥の背中を見つめながら、少女は薄く微笑んだ。
屋上へと走りながら、和弥はすぐに勤の携帯に電話をかける。数コールとしない内に電話に出た勤の声音はえらく不機嫌そうで、嫌そうな表情が電話越しに思い浮かぶ程だった。
「何の用かな。出来ればしばらく君とは話したくない」
「雫が一人で旧校舎の屋上に行ってるみたいなんだ! 今すぐ来い!」
「何……!? わかった、すぐに行く」
電話の向こうで、ガタリと勤が立ち上がる音が聞こえる。それから一拍置いた後、和弥は再び口を開いた。
「こないだは……その、悪かった。言い過ぎたし、殴り過ぎた……」
ややバツが悪そうに言った和弥の言葉が意外だったのか、勤はすぐには答えなかった。しかし数瞬後に、勤が小さく溜息を吐くのが電話越しに聞こえた。
「……お互い様だ。俺も悪かったな」
勤のその言葉を聞いて、和弥は小さく微笑む。電話の向こうで勤がどんな表情をしているのかなんてわかりようがなかったけれど、なんとなく微笑んでいるような気がした。
屋上へ和弥が向かうと、雫は屋上の隅で呆然と立ち尽くしていた。雫は段差の上に立っており、一歩足を踏み外せばそのまま真っ逆さまに地面へ落ちてしまうような立ち位置だ。慌てて和弥が駈け出すと、雫はそのまま前に一歩踏み出そうとしてしまう。
「雫ッ!」
落ちて行く桜の姿が脳裏を過る。今度は雫が、和弥の目の前でいなくなろうとしていた。
「間に……合えッ……!」
もう二度と、あんなことは繰り返したくない。目の前で誰かが、大切な誰かが死ぬのはもう沢山だった。
「ふざけんなァァァッ!」
叫び声と共に飛び込むようにして手を伸ばし、落ちそうになっていた雫の手を間一髪の所で何とか掴む。右手を通じて雫の温もりが伝わってきて、和弥は一度安堵の溜息を吐いた。
「和弥君……?」
「何やってんだよ!」
必死に和弥は雫を引っ張り上げようとするが、雫はそれを拒否するかのように和弥から目をそらす。
「放して……和弥君は私のことなんて、どうとも思ってないんでしょ……!?」
「ンなわけねえだろ!」
「いいから放して! 放してよ!」
ここで放せば、雫も桜の二の舞いだ。折角掴んだ手を、もう和弥は放すわけには行かなかった。
「ざけんな……折角掴んだんだ……絶対ェ放さねェ!」
「私を助けたって……もう桜ちゃんは助からない!」
そうだ。もう桜は助からない。そんなことは、とっくの昔にわかっていたことだった。
だから、だからこそ――――
「だから今、生きてるお前を助けるんだろうが!」
今和弥が助けたいのは、他の誰でもない雫だ。もういない桜でも、桜の代わりの不特定多数の誰かでもない、雫だ。
やっと、やっとのことで和弥の目は真っ直ぐに雫をとらえた。絶対に助ける、そんな必死な思いが伝わったのか、雫はその場でボロボロと涙をこぼし始めた。
「死ぬな……!」
必死に両手で桜を引っ張り上げようとするが、和弥は腕力のある方ではない。既に疲労しているのか腕は震えているし、それに重力とは別に雫を引っ張る何かがあるように感じられる。おまけに雫は片腕を骨折してしまっておりどこにも掴まることが出来ないためよじ登ることが出来なかった。
「クソッ……!」
見れば、雫の周りには紫色のもやもやした霧状の何かが漂っている。それが屋上の怪異なのだろうか、もやもやの中では様々な顔が浮かび上がっては消えて行き、そのどれもが恨めしそうな表情を浮かべている。恐らくこれが、あの少女の言う負のエネルギーの吹き溜まり、その集合体だろう。
その紫色のもやもやの中から、二本の手が伸びている。雫を下へ引きずり降ろそうと引っ張るその二本の手が、雫を上へ引っ張り上げようとする和弥を邪魔していた。
もうかなり限界も近い。絶対に放さないと決め込んでいたって、限界が来れば和弥の腕にはもう力が入らなくなる。
既に雫は諦めかけている。何とか引っ張り上げようとする和弥の表情にも陰りが差し始めた――そんな時だった。
「だらしがないな君は……女の子一人持ちあげられないのか」
皮肉めいたことを言いながら、雫の手を勤が掴んだのは。
「遅ェんだよお前は!」
悪態を吐きながらも、和弥は再び両手に力を入れながら笑みを浮かべる。勤と二人なら、雫を引っ張りあげられる気がした。
「二人共っ……!」
「すまなかった。俺が見ていたのは、君じゃなくて姉さんだった。だが今俺が助けたいのは、他でもない君だ、雫」
グイッと力強く雫が引っ張りあげられる。雫を引きずり降ろそうとしたもやもやを引き剥がすようにして、和弥と勤は一気に雫を引っ張りあげた。
「……ありがとう二人共……本当にごめんね……」
「怪異に飲まれてんじゃねえよ」
そう言って微笑みながら、和弥はへたり込んだ雫に手を伸ばす。雫はその手を取って立ち上がると、もう一度二人に礼を告げた。
屋上の上空では、雫を引きずり降ろそうとしていた紫色のもやもやが漂っている。それを憎々しげに睨んだ後、和弥はポケットから札の切れ端を取り出した。
「おい勤、今ならいけそうか?」
「さあな、君達次第だ」
言いつつ札の切れ端を取り出して、勤は微笑む。
「私は……大丈夫……!」
三人が同時に、紫色のもやもやを、怪異を見つめる。同じ思いで、同じものを見つめていた。
今やっと、超常現象研究会の三人が本当の意味で揃っていた。
「……行くぞ」
和弥の言葉と共に、三枚の切れ端が三人の手で一つに合わさる。三人が同時に強く思いを込めると、一つに合わさった札は輝きを放ち始める。
怪異は地鳴りのような呻き声をしばらく上げていたが、やがて札の中に吸い込まれるようにして消えて行く。完全に紫色のもやもやが消滅する頃には、曇っていた空が晴れ始めていた。
屋上全体を覆っていた厭な空気も消え、ただ月明かりだけが三人を照らす。
「終わった……のか?」
「……そうらしいな」
そこでどっと疲れがきたのか、思わず三人はその場に座り込む。三人共疲れきってはいたけれど、その表情はいつになく穏やかだった。




