第3話
大人になって、たまに実家に帰ると、冷蔵庫にビールと一緒にコーラが並んでいる。
誰かが「帰る」と連絡しただけで、勝手に冷えている。
買い置きの仕方が、いかにも実家だった。
銘柄はだいたい同じで、量は少し多い。
「足りるかどうか」を基準にしている。
母は相変わらずコカ・コーラを飲まない。
あれだけ「砂糖の塊や」と言っていた人だ。
いまでも言う。
言うのに、冷蔵庫にはある。
ぼくが帰るとわかっている日。
あるいは、孫が来るとわかっている日。
黒い液体は、きちんと冷えている。
父は、昔は厳格だった。
子どもの頃の父は、家の中に“線”を引く人だった。
声を荒らげなくても、そこにいるだけで空気が固まることがあった。
でも、初孫が女の子だった。
息子しか育てていない両親にとって、待望の女の子だったのだと思う。
実家は大喜びで、家の空気が少し変わった。
父の威厳は、驚くほど軽くなった。
今では、孫の執事みたいなことをしている。
スリッパを揃えたり、上着を受け取ったり、椅子を引いたり。
嬉しそうに動く。
昔の父を知っているぼくは、たまに笑ってしまう。
あの人が、こんな顔をするんだ、と。
子どもたちもコーラを好きだと知ってからは、帰省のたびに、
大きなペットボトルのコカ・コーラが用意されるようになった。
誰かが頼んだわけじゃない。
「買うてきといたで」と言うだけで、理由も説明もない。
母は、相変わらず飲まない。
父は、孫のコップに氷を入れてやる。
中学二年の娘は、もう黙って冷蔵庫を開ける。
小学五年の息子は、炭酸の勢いに少しだけ負けて顔をしかめる。
それでも、もう一口飲む。
父はその様子を見て、嬉しそうに笑う。
ぼくは、冷蔵庫の前に立って、ふと思う。
祖母は「内緒やで」と言って、ぼくに小さな飴をくれた。
母は「砂糖の塊や」と言いながら、冷蔵庫にコーラを入れておいてくれた。
父は無言で、孫のために大きいペットボトルを買っておく。
誰も、コカ・コーラを“正しい”とは言っていない。
でも、そこにはいつも、「おまえが来るなら」という気配がある。
歓迎というのは、派手な言葉じゃなく、冷蔵庫の中に入るのかもしれない。
黒い液体が、ただ冷えている。
それだけで、帰ってきたことがわかる。
そしてぼくは、栓を開ける音や、氷の鳴る音を聞きながら、
商店街の先の喫茶店を思い出す。
赤いベルベットの椅子。
背の高い足つきのタンブラー。
輪切りレモン。
あのとき飲みきれなかったコーラの続きが、
いまは、家族の人数分だけ、静かに増えている気がした。




