25.リッシュとフレス-②
症状が出たのは最初に飲んでから九時間後。何か調子がおかしい、と感じた直後、内臓を絞られるような激烈な痛みが襲い掛かってきた。
「うぐっ」
うめき声をあげて腹を抱えるも、痛みは激しくなるばかり。顔をしかめて、歯を食いしばっても全く抗えない。戦場では矢に射られても耳を裂かれても平気で戦いを続けられるのに、体の中からくる痛みは別次元だった。
めまいがする。立っていられない。
その上、急激な便意が尻の出口を猛烈に叩く。トイレに駆け込もうとしても、足が動かない。
そのままリッシュは拠点の通路で座り込み、下半身に冷たい感覚が伝っていくのを感じながらうずくまってしまった。結局耐えられずに漏らしたのだ。もう座っていることさえできなかった。自分ではもうどういう状況なのかもわからない。痛む腹をおさえて、一刻も早くこの苦しみが終わることを祈ることしかできなかった。涙さえも滲んだ。
まるで生まれたての赤子のように、自分で何もできずに泣くばかり。
ただ、通路で倒れて痛みに耐えるだけだった。
「ぐっ、ぐぅ……うぐうぅっ……」
腹をおさえて、ただ涙を流して震える。もはや思考することさえ不可能ごと。
一分、二分ほどそうしていただろうか。驚いたような大きな声がその場に響いた。
「おい、お前! 何やってるんだ。……変なものでも食ったのか!」
最初にこの状況に気づいた、女性兵士のエカルの声。糞の水たまりに沈んでいるリッシュを見て、慌てて声をかけたのだ。
苦痛の底に沈んでいたリッシュは、目を開いてエカルを見た。
「た、たすけて……」
泣きながら、汚れた手を伸ばす。エカルはそれをとらなかった。汚いからだ。
「お前、自分がどういう状況かわかってるのか? ヤバい病気だったらどうすんだよ。軍師殿と衛生兵を呼んでくるから待ってろ。動くなよ!」
そう言って彼女はその場を走り去っていった。緊急事態だと判断したのだろう。
軍師殿、とエカルが呼んだのを聞いてハッとリッシュは思い当たった。
そうだ、フレスは軍師だった。ザメルが常々言っていたことである。フレスは天が俺たちにくれた軍師だから、と。それを疑って、勝手に実験して勝った気になり、たらふく水を飲んだ結果がこれである。この世の地獄のような腹痛。たったさっき、仲間たちと「水にあたったくらいで戦えなくなるような奴は気合が足らねえんだ」などと言いながら、これまで飲めなかった分をとりかえすように散々飲んだのだ。
私が悪かった。私が悪かった、全部私がバカだった。
顔のあたりまで広がってきた茶色い水たまりに涙を落とし、リッシュはひたすら許してくれと懇願した。誰に許しを乞うているのかもわからない。死んだ仲間なのか、ザメルなのか、フレスなのか。
「おい、軍師殿! カルバンもウンコ漏らしてぶっ倒れてる! マジでヤバい病気じゃねえのか? ロンシャロンが撒いてったゴミのせいかもしれねえぞ!」
エカルの大声が聞こえてくる。
ああ、カルバンも水を飲んだうちの一人だった。すまない、すまない。全部私のせいだ。
リッシュは突然喉が焼けるような感覚、次いでひどく酸っぱい何かが口の中にあふれるのを感じた。たまらずにそれを吐き出す。先ほど飲んだ水と胃液だ。上からも下からも、排出がとまらなかった。
涙も、嘔吐も、下痢も、痛みも。
このまま死ぬのなら、早くしてほしい。
本気でリッシュはそう思った。恥辱も痛みも感じなくなりたかった。しかし意識はぼんやりとすれども、なくなりはしない。
そうしているうちに、再び誰かの足音が近づいてきた。
「おう、衛生兵を連れてきたぞ。生きてるか?」
エカルの声が落ちてくる。だが、リッシュはきつく閉じた目を開けることができなかった。
「水ですかね。こいつ、ちょっと前に何かガブガブ飲んでいたと証言がとれています」
衛生兵らしい男はそうこぼした。さらにもう一人の弱い声がリッシュの耳に届いた。
「おそらく。洗濯用の湯冷ましがかなり減っていました。我慢できなかったのでしょう……、これは私の責任です」
フレスだ。それを確かめたくなくて、リッシュは絶対に目を開けまいとした。
「なんだ、こいつらあの水を飲んだんか。ただの自爆じゃないですか。心配して損した」
「エカル殿。あなたはよく我慢してくれている。だが、普通は我慢ができないものです。それを想定しなかった私のミスなんです」
「違いますよ、こいつらがバカなだけです」
エカルは遠慮もなくリッシュとカルバンをなじった。
「だいたい、山に親しんでる人間なら沢の水がどのくらいヤバいのか知ってて当たり前なんですよ。こいつは、この前も『自分は狩人だから』とかいって調子にのって敵に突っ込んだでしょう。バカの極みです。このままくたばらせたほうが軍のためになるんじゃないですか?」
「まあ、言って悪いですが、自分も同じ意見で。自爆した愚か者に、薬の無駄遣いをするのはちょっと」
その場にいた衛生兵もエカルの意見に同意してしまった。
まともな人材二人がそろってリッシュは死んだ方がいいと言い切ってしまったのだ。
リッシュもそれを聞いて、納得した。確かに、こんな愚か者は死んだ方がいい。だから、早く殺してくれと願った。
「では」
と、フレスが弱い声で結論を言う。
「リッシュは私が看病しましょう。本当なら女性であるエカル殿に頼みたかったのですが、仕方ありません。お二人はカルバンのほうを看てあげてください」
「ええー、軍師殿。こいつはあなたをロンシャロンの犬とか、痩せた豚とか言って突き飛ばしたんですよ。しかも、ついこの前。ザメル様もだいぶ怒ってましたし」
エカルは事実を言った。確かにそのとおりである。反論の余地もない。
「優しくしたら反省するとか思っているなら間違いだと思いますよ」
「そんなつもりはありません。彼女の戦力は貴重だし、我が軍は味方を平気で見殺しにすると思われたら困ります。リッシュも、カルバンも助けます。エカル殿、申し訳ないのですが、カルバンを看てあげてください。それが無理なら、他に水を飲んだ人を探してください。少量でもです。処置が必要かもしれませんから」
「ちょっ」
エカルは舌打ちをした。露骨に嫌がっている。当然だった。誰が糞まみれの人間の世話をしたいものだろうか。
「仕方ないですね。それじゃあ、水を飲んだ人を探してきましょう。ザメル様は……あの方が軍師殿の指示を守らないことはありえないでしょうが、聞くだけ聞いてきましょうか」
「お願いします」
エカルと衛生兵は立ち去って行った。そこに残ったのはおそらくフレス一人だけ。
強烈な腹痛とはっきりしない意識の中で、リッシュは恐怖した。こんな無様な姿を見られている上、自分がどれほど愚かなことをしたのかを突きつけられている気がした。この場から消え去りたかった。死なせてほしかった。
たすけてくれといってエカルに手を伸ばしたときの気持ちは完全に消えている。髪も顔も、水たまりの中に埋もれた。
「一階の……」
フレスはいつも通りの弱い声で、何かを話しはじめる。少しその声がくもぐった。鼻や口を布で覆って、便が口に入らないようにしたのだろうか。
「一階の西側の、火の近くに天幕を設えてもらっています。そこで体を洗って、清潔にしましょう。ここは後で片づけますから」
リッシュは何も答えられない。目を閉じたままだ。だが、水たまりに足を踏み入れるような、湿った足音が聞こえると思わず目を開き、それを見てしまった。
フレスは、リッシュを抱きかかえようとしていた。すでに彼の衣服は汚れている。もうその汚れはどう洗っても落ちないだろう。
それでもいいのだとばかり、脇の下から肩でささえるようにして、大柄なリッシュの体を持ち上げようとしている。
「少し我慢してください。頑張って」
まるで年下の小さな子に言い聞かせるような口調だった。
あまりにも痛くて、たまらない。体を支えられているのに、今すぐその場に倒れてうずくまってしまいたかった。
「頑張って、一歩ずつでいいですから」
フレスが一歩足を進める。リッシュはフレスよりも体格が一回り以上も大きい。にもかかわらず、フレスは渾身の力でリッシュの肩を支えていた。
苦痛をこらえながらなんとか足を進めるごとに、誰かの声が聞こえてくる気がした。
「うげっ、くっせぇ! 軍師殿、何やってるんですか!」
「リッシュが漏らしたらしい」
「マジか! あのバカ何やってんだよ」
できるだけ何も考えないようにしたかったが、恨めしい耳は自分への容赦ない非難を拾ってしまう。
エカルの声も聞こえてくる。
「カルバン、お前も水を飲んだんか? くせえな! 話を聞いてなかったのかよ!」
「そのダメだっていう湯冷ましは、まだあるのか? 樽ごと持ってきてくれよ。ぶっかけて流そうぜ」
「おお、そりゃいいな! 全部下水に流しちまおうぜ!」
無茶苦茶を言っている。フレスは何も気にせず、ただ足元を見ていた。一歩ずつ、治療用の天幕に向かって歩いていく。
一階の火の近く、という場所をリッシュはもう思い出せない。あと何歩歩けばそこにたどり着くのか、わかりもしなかった。歩きながらも何度も漏らし、嘔吐し続けた。
それでもフレスはリッシュを責めなかった。
「頑張ってください。もう少し、もう少しです」
百歩も歩いただろうか。たったその程度の距離だっただろうか。何度ももうだめだと思いながら、目を閉じかけたところで
「ここです、ここですよ。天幕をくぐりましょう」
という言葉が聞こえて、膝から力が抜けかける。フレスがグッと力を入れて倒れ掛かったリッシュを支えてくれたので、崩れ落ちずに済んだ。
設えられていた天幕は、天井がない。周囲に布幕が貼られて目隠しにはなっているが、広々とスペースが使えるようだった。下もそのまま拠点の床タイルが見えている。
「あと二歩。左足を出して……次は右足です。よし。腰を下ろしていいですよ」
やっとたどり着いた。たどり着いたが、これからどうなる? しかしなんでもいい。もういい。
リッシュは何もかも失った気になっていた。自信もプライドも、仲間たちの信頼も。ここからやり直していく気力もない。痛みが引いたというよりも、ぼんやりとして考えがまとまらない。
「脱がしますが……かまいませんか?」
頷く。もうどうにでもしてくれという気持ちしかない。
フレスはリッシュの着ている服を手際よく脱がせていく。難しいところは遠慮なくナイフで切り裂いてしまったようだ。それにも文句を言う資格がない。
「熱が出てますね。体力が落ちたからでしょう……お湯で綺麗にしますから、恥ずかしいでしょうがこらえてください」
素裸にされたところで、フレスも汚れた上着を脱いでいく。
「少し待ってください」
煮沸されていた湯を水と混ぜて、適温にする。フレスは自分とリッシュ、二人一緒に暖かな湯で洗浄していく。
なにもかも見られたが、今さら何もなかった。恥ずかしいという感情より、情けないという感情よりも、別のものが湧いている。
フレスはリッシュを、無力な子供にするように扱っている。どこか淡々としていたが、丁寧でこまやかだった。
「綺麗になりましたね。念のために、こちらを巻いておきます。毒が抜けるまでかなりかかるでしょう」
洗浄が終わって身体を拭われたあと、何をされているのかよくわからなかったが、フレスの声が優しく聞こえるほどにもう力が抜けていた。
それは実のところ赤子にするような排泄を受けるための処置だったのだが、されているリッシュとしては屈辱よりも安心が勝っている。まだ激しい腹痛はあるが、出し切ってしまったのか、排泄は一旦おさまってきたようだ。
自分の姿を客観的に見るのが恐ろしくて、ただ安心に身を任せていたくて、目を閉じたまま。リッシュはゆっくり眠りたかった。
その瞬間、エカルの声が天幕の外から聞こえてきた。悪夢のような声だった。
「おい、軍師殿。水を飲んだやつは結構いたぞ! リッシュが『水が飲めないとかウソだ、飲めた』とかいって触れ回ったらしい。そいつやっぱり殺したほうがいいんじゃないですか!」
「それはまずいですね。飲んだ人は隔離してもらえますか?」
落ち着いた声でフレスが返答をしている。やはりリッシュを責める気配は一切ない。
「もうやってる。まだ動けるやつは面倒だから厩舎の馬糞集めるところに並べてます。念のためザメル様にも報告しときました。めちゃくちゃキレてましたが」
「そうでしょうね。私からも後で報告に行きます。ありがとうございます、エカル殿。カルバンはどうなってますか?」
「糞まみれで泣いてますよ。みんな近寄りたくないって」
「わかりました。そちらも私がいきます」
「マジでやるんですか? 尋常じゃない臭さですよ」
「仕方ないでしょう。急いで行ってきます」
軽く水洗いしただけの、ずぶ濡れの上着をつかむ気配。フレスが天幕の外に出ていく。
「うげっ、軍師殿くせえ! もうその上着は捨てたほうがいいですよ!」
「どうせ今から汚れるので」
「そりゃそうだけど、最悪ですね。おーい、そこの道を開けろ、今から糞まみれのカルバンを運ぶから!」
「エカル殿もマスクをしたほうがいい。本当に水が原因と確定したわけではないのです」
二人の声が遠くなっていくのを、リッシュは現実的な恐怖と痛みの中で聞いていた。
一人になってしまうと急に不安が押し寄せてくる。疑念を抱いて憎しみを持っていたのに、近くに誰もいないということがたまらなかった。早く意識を手放したかった。
相変わらず腹は痛む。絞られるような激痛から刺すような痛みに変化していたが、耐えられないほどではなくなってきていた。
「天幕をくぐります。あと二歩、頑張って」
そんな声が聞こえて、リッシュは目を開けた。天幕の中は何も変わっていない。おそらく、隣の天幕に誰かが戻ってきたのだ。ひどい匂いがする。糞便臭。おそらく、カルバンをフレスが連れてきた。
「脱がせますよ。構いませんか?」
フレスの声がわずかに聞こえてくる。彼は、リッシュにしたのと同じことをカルバンにしていた。優しい声で、全く相手を責めない。そして丁寧で、相手に安心を与えることを念頭に置いているようだった。それが、今のリッシュにはよくわかった。
相手が誰であろうとも同じように接することができる。全く嫌味もなく、献身的に振る舞える。それがフレスという男の本質なのかもしれない、などとリッシュはぼんやりと考えた。
しかし、物音が多い。おそらくフレス以外にも誰かもう一人いるようだった。
先ほどの衛生兵だろうとリッシュは思った。だが違った。
「ひどいですね。軍師殿、私はちょっと服を洗ってきます」
エカルだった。臭いし嫌だと言っていたのに、彼女はカルバンの看病を手伝っている。
遠慮もなくズケズケとものを言うのがエカルという女だったのに、ここでは一言も「くさい」「バカ」といったことを言わないで、黙々と作業をしていたのだ。おそらくフレスがそう言い含めたか、彼女自身がこれ以上追い打ちをかけることもないと自重している。さらに、服を洗ってくるというのはただの方便で、真実はカルバンの最も恥ずかしいところを見ないようにするためなのだろう。
賢い選択だった。当然の選択だった。それに比べると自分はどうだろうという気持ちになった。
さらには別の重い足音が近づいてくるのが聞こえた。この足音をリッシュは知っている。
「おう、フレス」
隣の天幕を遠慮もなく開けたらしいその声の主は、ザメルに違いなかった。
「はい。ご覧の有様です。これは、飲用できない水を適切に管理できなかった私の落ち度です」
「んなわけねえだろ。バカどもの自爆までひっかぶらなくていい。警備をさぼってせっかく手に入った食べ物も汚されるし、勝手に水を飲むバカも出てくるし、いちいちお前の責任にしてたらどうすんだ。どんだけクビがあっても足らねえぞ。それより、重症なのは今んとこ、この二人だけだな?」
「そのようです。しかし、時間差で症状が出ることもありえるので軽症の者も油断できません」
「じゃあ、隔離は続けなきゃならんのか。馬糞置き場に集めてるって言ってたがお前の指示か?」
「それはエカル殿の判断です。私としては、どこか土の上にいてほしいのですが」
そんな会話が続けられている。
「リッシュは? 隣か?」
「はい。どうにか綺麗になりましたが、まだそれだけです。熱も出ていましたから、回復までかなりかかるでしょう。正直なところ、一番重症です」
「こんだけやられたら、俺が殴るくらいじゃすまねえぞ。処刑しろって奴までいたんだぞ、どうするよ?」
処刑。その言葉がザメルの口から出ている。
それも仕方ない。仕方ないが、一度安心してしまった後では、恐怖が勝った。
しかしフレスは淡々と答えた。いつもの弱い声で。
「それを強行するのであれば、これは私の責任ですから、私が処刑されるべきです。先の失敗についても、その場にいながら止められなかった私の責任であり、殴ってでも止めなかったザメル様もそうでありましょう」
「俺のせいか?」
「はい。それが最高責任者というものです」
「マジかよ。まあそう言われればそうか。部下が勝手やってるのを黙ってみてたってことだからな。そりゃ俺が怒られなきゃおかしいか……。しかしフレス、お前だって悪いだろ。それならそうとその時言ってくれよ。二人もあれで死んだんだぞ、バイテスとアレッタ! 兄弟が減って嬉しい奴なんているかよ」
「おっしゃる通りです。咄嗟にそう判断できなかった私たちのミスなのです」
バイテスとアレッタは、山に詳しい狩人だった兵士たちだ。リッシュとともに突撃したが、彼らは矢に打たれて死んだ。
フレスはカルバンの体を拭きながら、話を続ける。
「バイテスとアレッタは勇敢に戦って亡くなりました。ですが、その死が無駄であったなどとは私たちは口が裂けても言えません。彼らは敵の注意をひきつける危険な任務に挑み、そして亡くなった……ザメル様はそう解釈しなければならないのです」
「じゃあ何か? お前が味方をそうやって追い立てて、囮に仕立てたってみんなに説明するのか? そんなことしてみろ、お前は殺されるぞ! なんでも自分を悪者にすればいいと思ってねえか? そんなことは許さんからな」
「はい、私も死にたくありません。しかしリッシュを悪者にして処刑するのも問題です。ザメル様の指揮能力に疑問がもたれる」
「む、むう。俺があの場にいたのは確かだからな。なるほど。じゃあどうすりゃいいんだ?」
「ロンシャロン軍の斥候を欺くための芝居であった、ということにしましょう。リッシュはその意図を理解して、私と仲違いをしたように見せて、突撃部隊を編成した。なのでザメル様は止めなかった」
「無茶苦茶だな。そんなことしたら、あのバカを評価しなきゃいけなくなるだろ?」
「その評価は、ご覧の通りの失態で、帳消しになります。それにリッシュは無様な姿を目撃され、究極の恥辱を味わいました。エカル殿も計算してはいなかったでしょうが、遠慮なくそれを言いふらしてくれています。なので、兵士たちもこの論理のすり替えにもある程度納得してくれると期待します」
「むう? だがな」
フレスは理論立てているが、リッシュを殺させないようにしていることは確実だった。
「俺がそんな突撃作戦を承認したことになっちまわねえか?」
「いえ。リッシュに命じたのはあくまでも敵の注意を引き付けるための陽動。彼女はそれを無視して突撃して、部下を死なせた。それなら賞罰が噛み合いますし、バイテスとアレッタも無駄死にではなくなります」
「いろんなところでギリギリの解釈だが、それしかなさそうだな。だがよう、フレス。どうやってそんな屁理屈をいつも思いついてるんだ?」
「ひねりだしているだけです。私は凡庸ですから、いつ失敗するかとビクビクしているのです」
「またまた。お前は俺が見込んだ天才なんだから、どっしり構えてろ。とにかくその手でいくか、エカルはどこにいった? 奴に話をしておかないと変なことを吹聴するしよ」
「私から伝えておきます」
「そうか、じゃあまた後でな。いや、その」
ザメルが口ごもった。
「なんです?」
「最初に言い忘れたんだ。その、すまん。みんな嫌がる中でお前だけが俺の兄弟を救ってくれたんだろ。ありがとよ。俺だって手伝いたかったが、やめとけって止められたからよ。言い訳だが」
「いいんです。これは私の仕事でした。責任を取る意味もあったのです」
「それはやめろって言っただろ。どうせリッシュは礼も言わねえだろうから俺から言っといた。また後でな」
ザメルが天幕を出ていく気配がする。こちらを覗きに来るかも、とリッシュは身構えたがそのままザメルは元来た道を帰っていった。思わず安心して長い息が口から漏れたくらいだった。
さらにしばらく後、ようやくフレスが戻ってきてくれる。天幕を開けて、彼がのそのそと現れた。エカルはいなかった。
「お待たせしました。痛みはまだありますか?」
その手には何か椀をもっている。湯気が立っていた。
「スープですよ、飲めますか。あまり飲みたくなくても、水分を補給したほうがいい。胃液だけを吐いていると喉が荒れますからね」
懇切丁寧な看病だった。それをリッシュは全く抵抗なく受け入れた。
もう負けたのだ。勝手に挑んで、勝手に負けて、最初からフレスはその勝負を相手にしていなかった。エカルのいうとおり、リッシュはただ自爆しただけの愚か者だったのだ。
自分は一人前の狩人だと思っていたが、それはただ、代々狩りをしてきた山の中でだけの話だった。先祖が選んだ、比較的安全で毒の少ない山の中でだけ通用する知識でしかなかったのだ。そんなことも知らずに、いきがっていた。




