19.ネルカ再び
翌朝に目覚めてみれば、強烈な頭痛が襲い掛かってきた。深酒をし過ぎたようだ。
リッシュと感傷的な話をしながら彼女の持ってきた酒を飲み、遅くまで起きていた。一応寝台の中で目覚めたし、服も着たままだったので何か間違いを犯したということはないだろう。本来は贈答や祝祭に使われるであろう大きな酒瓶はそのまま机の上に残っていたが、中身は三割くらいに減っている。ありえないほどの減り方だった。
フレスは痛む頭を振って、水差しに残っていた水を飲んだ。酒瓶の中身はきっと飲み過ぎて、どこかにこぼしてしまったんだろう。そう思っておいた方がよさそうだった。いくらなんでも、この量を一晩で飲んだということはないはずだ。
ひとまず顔を洗って、髭をそる。ついで、髪を整える。見た目は綺麗に整えておく必要があった。いつ誰に出会うかわからないし、抜けているところをポプリにでも見られてしまうと、その後「見た目に気を遣ってください」と言いづらくなってしまう。ましてや、彼女はおめかしを嫌っていて、化粧や髪結いに時間をとられることで欲求不満をためているくらいである。気をつけなければならない。
彼は自分で身だしなみを整えてから、服を着替えた。いつも着ている軍服だった。後ろには長いマントのようなケープが垂れ下がっている。
軍の高官であり、重要な地位についているフレスにはメイドの一人や二人が専属でついていても不思議ではないが、そのようなものは贅沢だったし、かえって気を遣うとして退けている。メイドに世話をさせるのは、ポプリ様一人で精いっぱいという懐事情もあった。
部屋を出てまず彼は執務室に向かう。昨夜途中で切り上げた仕事を仕上げたかったのだ。
朝食の前には片付くだろうと思っている。
「軍師殿、朝早くに申し訳ありません。緊急です。ルシアン領からの使者が参りました」
しかし途中で、慌てた様子の兵士からそのように声をかけられた。
おお、とフレスは目を見開く。待っていたものがついにきた。だがまだ朝早い。実は夜中のうちに到着していたのだろうか?
「わかった。ポプリ様はどちらに?」
「まだお休みです」
「では私が応対しよう。使者の方は?」
客間に通した、と兵士は答えた。
「有翼種の女性です。黒っぽい、茶色の翼で……軍師殿のお名前を何度も口にされて、会うのが楽しみだと。お知り合いですか?」
「まあ、そうかもしれない。ありがとう。それでは引き続き警備をよろしく頼む」
フレスは頭痛がさらに強くなった気をがしたが、それをなんとか顔に出さずに兵士を帰す。おそらく、ルシアン領からの使者というのはネルカだろう。
とりあえず、執務室に行く。交渉の資料となりそうなものを粗方、応接室に運んだ。
本来ならば少し時間をかけてこれらの資料を精査し、何を言われるか考えて備えるべきだったが、フレスは天を仰いだ。ろくに準備がすすんでいない。二日酔いのせいだけではない。圧倒的に、情報を集めて精査してくれるような官僚が足りなかった。
塩の値段と香辛料の関税くらいしかネルカと話せることがない。ゴルシャネル時代にはルシアンとは没交渉に近かったというし、ロンシャロン時代に至っては戦争を吹っ掛ける勢いだった。城の中にはルシアンと交渉に使えるような資料がほとんど残っておらず、現時点での情報も集めきれていない。少し怪しいところを突かれたら言われ放題になるだろう。
別にネルカをいくら待たせたとしても、交渉が不利になるということはない。ましてやこんな時間に来る方が悪いのである。
だが数日待たせたとしても、事態が好転する見込みはなかった。ならば、早いうちに話を聞いておくべきかもしれない。どうせ、返事はすぐでなくてもよい。
「準備ができています。客人をお通ししてください」
フレスはメイドを呼び、そう告げた。
しばらくしてドアが開くと、予想通りネルカがあらわれた。以前は商人のようなマントとフードをつけていたが、今回はルシアン軍の使者として来ているので、かなりフォーマルな恰好だった。暗い色合いのシックなノースリーブのジャケットに、高級そうな革のベルトで止めたスリムなパンツスタイルの軍服。足元もなめし皮のブーツだが、何か武器が仕込めそうな形をしている。もっとも、さすがにそこは検査されているだろうが。
女性なのにドレスでないのは、ひらひらとした空気抵抗の多い衣服は有翼種の利点を殺すし、ルシアン本人がこういう場ではドレスを着るからだろう。その影になるネルカは同じように華美なドレスを着るよりも、ルシアン『軍』のナンバー2であることを強調したほうがよい、ということだ。おそらく。
「ごきげんよう、フレス殿。何日ぶりでしょうか、以前は楽しい余興をありがとうございました」
ジャケットがノースリーブなので、ネルカは肩から翼を露出している。さすがというか、飛んでここまでやってきたはずなのに翼には光沢さえある。乱れたところがまったくなかった。
フレスはネルカの軽口に付き合わず、着席を促した。
「まずはおかけください。塩の値の交渉ではお世話になりました。あの時のお約束は、かならず履行いたします。ところで、本日の御用件を早速お伺いしたいのですが」
「本日は、先般より打診していただいていた、同盟の件での親書をお持ちいたしました」
ネルカが懐から親書を取り出し、質素な木箱に包まれたそれを差し出した。箱は開けられていて、中身が見える。
封蝋もしっかりつけられた、ルシアンの親書だ。
「……」
フレスは黙って、ネルカの目を見つめる。
「どうしましたか? 開封していただきましょう」
箱を受け取りながら、フレスはただ首を振った。
「いえ、こちらはポプリ様に開封していただく決まりです。私が開けるわけにはいきません」
「それなら、ポプリ卿がお目覚めになるまで、私を待たせておくべきだったのではありませんか? なぜあなたが出てきたのです?」
親書があることはわかっていただろう、とネルカはニマニマと笑ってフレスを見つめてきた。どういう答えをするのか楽しみだ、という顔であった。
「ポプリ様がお目覚めになると、二人で話す機会がとれません」
「おや? それはよろしくないですね」
急激に、がっかりしたようにネルカは翼を下げて膝に触れる。
「今さら、私の肌に興味が出たんですか?」
フレスはこれを無視し、自分の話を切り出した。
「知っているかとは思いますが、ルシアン卿の親書に書かれた署名のおかげで、我々はオルガリアの謀略に気づくことができました」
「ああ、そうらしいですね。それで?」
「ですが、手紙のすり替えがオルガリアの策略であったと結論付けられたわけではありません」
「むう? 閣下を疑っているのですか?」
「いえ。ですが、もしもあなたがオルガリア卿と通じていた場合は、この信書の署名はどちらであれば、信用すべきでしょうか?」
ルシアンの署名。以前に『Rucian. W. hite』と書かれたものが『偽物』と判断されている。本物であれば『Ruciann. W. hite』と「n」が重なっているはずだった。
「ばかばかしい、私は閣下の第一の腹心ですし、私が運んできたんです。あまり変なことを言っていると、こちらもそちらを疑いますよ」
「しかし今の状況では、ネルカ殿に全幅の信頼がおけません」
「それはまた。何か信用を損ねるようなことを私がしましたか」
「つい昨日まで、こちらにはオルガリア卿の使者が参られていたのです。その方も有翼種でした」
「知ってますよ、そのくらい。だからなんです? 私が偽者だとでもいうんですか」
これみよがしに、ネルカは右の翼を顔の前でひらひらと動かして見せた。飛ぶことに長けた有翼種の翼は、偽物ではないと示しているのだろう。
しかしフレスはこれにも首を振った。
「あなたがネルカ卿であることは疑っていません。ですが、私たちの前に現れたのは本当にオルガリア卿の使者だったのでしょうか? あまりにもタイミングが早すぎる」
「なんです。それが私たちの送った偽者だったとでもお考えなんですか?」
「ネルカ殿。正直に申し上げると、我々には防諜という概念がほとんどない。我々のところにある情報は、少し目端の利くものなら誰でも奪い取れてしまう」
「そんなんで大丈夫なんですか?」
「大丈夫ではありませんし、大問題です。それを伝えておきましょう。私たちに渡す情報には気を遣うべきだと」
ネルカは何も答えず、翼を持ち上げてこめかみをおさえた。
しばらくしてから、ようやく一言こたえた。
「まあ、確かに。リッシュといいましたか、あの護衛。彼女に腹芸なんて無理でしょうしね」
「それに私も知略や機転といったものは自信がありません。前回見た通りです。将来ある若者が二人も犠牲になりました」
「あの二人に明るい将来があったとは思えませんが」
辛辣な感想をはさんで、ネルカは先を促した。
「それで?」
「私も、それを是正することができていないわけです。私の前で迂闊な行動をとるべきではなかったですね」
「つまり、フレス殿。何が言いたいんですか?」
「それを口にするのは、スマートではない。紳士の行いでもありません」
そう言われて、ネルカは「むっ」と唸った。それからじっとフレスの目を見つめてみたが、彼の瞳は全く揺らがない。
仕方ない、と言った様子で翼をばさりと広げて、やっと彼女は口を開く。
「はいはい、オルガリア卿の使者にちょっかいをかけたことは認めます。それをあなたに黙っていたこともね」
これを受けて、フレスは静かに問いかけた。
「殺したのですか」
「そんなことしませんよ、親書を盗み見ただけです」
「国書を?」
「これは、フレス殿だからお話したんですよ。私を殺したりはしないでしょう?」
確かにその通り。フレスはこれを報告されても、ネルカを捕らえて殺す気にはなれない。
だが今のネルカの言葉はつまり、ルシアン軍はオルガリアには絶対に見破れないほどの完璧な精度でポプリ軍の封蝋を偽造しているということでもある。今後はもはや、封蝋は何のあてにもならない。
以前から精度の甘い偽造は発見していたが、疑い深そうなオルガリアの目でさえ欺けるものがあるということだ。であれば、あの書類の偽造すらも何かの罠であった可能性を捨てられなくなった。
フレスはそれらの思考をいったん脇にどけて、目の前の相手に集中する。
「わざわざ自白なさったのは、信頼の証ということですか」
「そうです。前の時もそうですが、私は結構これで地位の高い人間です。空を飛ぶことも得意で、それなりに頭も使えて割と器用になんでもできる、自己評価ですみませんがね。それなのにこうして、あなたの前に出てきた。あなたはその気になれば、私を捕まえられるし、翼をもぎ取ることもできる」
軽く、ルシアンは部屋の扉を守っている兵士に目を向けた。そこには護衛兵としてククランが立っている。ポプリから大将軍の候補に挙げられていた兵士の一人で、ポプリ軍の兵士としては比較的冷静な性質をもつ。男性ながら兜からあふれるほどの長髪だが、何度汚れても切らず、そのまま今に至るほどのこだわり。これでもメイドたちにはかなり人気の兵士であり、リッシュには及ばないが一応、腕も立つ。兵士たちからの人望は今一つだが。
フレスが指示を出せば数秒もかからず、ククランはネルカを拘束できるはずだった。
「そんなことをしたら、ルシアン軍はかなりの打撃を受けるでしょうね」
「たぶん、そうですね」
ふっ、とネルカは鼻で笑った。
「信用しているからこうして直接来たんです。そうしないで、空中から親書を石にくくりつけて落としたってよかったんですよ。あなたのところには、命令を忠実に実行できる有翼種がいないことは調べてあるんです」
「よくご存じですね。でも、リッシュが弓を使わせても実力者で、飛んでいる鷹を撃ち落としたことがあるというのは知らないでしょう」
「鷹を? そんな弓があるんですか?」
半信半疑といった様子で、ネルカが問いかける。
魔界の空を飛ぶ鷹はかなりの速度で飛行できる上に、普段は高高度を飛ぶ。射落とした者は喝采されるほどの鳥であった。
「経験と技術を集めて作られた小さな弓で、リッシュが持っています。弦がまるで反対側についているように見える、特殊な弓です」
「そんなもの、矢がもたないでしょう」
「試してみられますか? あなたの体で?」
「怖いことを言いますね」
「石なんか落とされて、子供たちが怪我をするといけませんからね。仕方のないことです」
冗談とも本気ともつかない目で、フレスは淡々と語るように言った。むう、とネルカが眉を寄せた。
以前は塩の取引を笑って楽しんでいたネルカだったが、今日はフレスに押されていた。彼から、全く感情が読み取りづらいからだ。
それに会話もどこか噛み合わない。フレスはネルカを明らかに試しているような、手ごたえのない会話をあえてしているように見えた。
「もしそのようなことをなさろうとお考えなら、お気をつけてください」
「しませんよ。それにしても、恐ろしい人ですね。変装も、隠し事も見抜かれるなんて。さぞおモテになるんじゃないですか?」
ネルカはあえて会話を大幅に脱線させる。相手の狙いが何かを探りたかったからだ。
「実はそれで困っていましてね。何人もの女性から求愛されていて、どのご婦人を選べばいいか」
フレスは平然とそう言い放ち、全く困っていそうもない冷徹な真面目くさった表情のまま、机の上に手を置いた。
何を考えているのか、ネルカはまるで読めなかった。仕方ないので、ネルカも応じて口から出まかせのような受け答えを吐き出した。
「ああ、だいたいわかりますよ。ポプリ卿と、宰相のコロン殿、護衛のリッシュ、そして私の四人で迷っているんでしょう? 悪いことは言わないから私にしておいた方がいいですよ。他の皆はあなたの頭脳を利用しようとしているだけです」
「やはりそうですか? わかりました。機会があればルシアン卿に求婚しましょうか」
ほとんど意味のない言葉をやりとりしつつも、フレスはネルカをまっすぐに見つめた。
全く感情の読めないフレスを相手にしたくはない。ネルカは奇妙な居心地の悪さを感じていた。交渉事ならば、得意分野のはずであった。
しかし、以前のフレスにはなかった奇妙な圧迫感が思うように戦略を練らせてくれなかった。ネルカはもうとりあえず、口先だけの無意味な嘘だらけの会話をつなげて、ポプリが起きてきてこの場が終わるのを待ちたかった。
「それはいいですね。閣下は好物件ですよ、初婚になりますしね。まあ、しがらみは増えますけど些細なことでしょう」
「では話はまとまりましたね。こちらの親書はポプリ様にお渡ししておきますから、しばらく客間でお待ちください。食事も用意させます」
唐突に、あっけなくフレスが場を切り上げた。ネルカは息を深く吐き、翼を体の前で交差させる。
「では、ごちそうになります」
「はい。ぜひポプリ様も一緒にと思っています」
「わかりました」
そう答えたところで、メイドが扉を開ける。客間に下がれということだ。
ネルカは注意深く、フレスからなるべく目を背けないようにして部屋を辞した。
彼女たちが部屋を出て、静かにメイドが扉を閉めた途端、フレスは苦痛の表情を浮かべて体を折った。頭痛が限界だ。今すぐ呻き散らしながら倒れこみたいところだが、そういうわけにはいかない。
「ふぅ」
現実にはフレスはただ二日酔いに耐えるために無表情と無感情を装い続けていただけだった。猛烈な頭痛と嘔吐感をこらえるために、必死にそれらを噛み殺しながらなんとか会話をつないでいたのだ。
ましてや、自分たちが別の三貴族に送った親書を盗み見たなどと言われては。緊張感もきわまった。
そんなことをネルカは知らない。誰が国家の一大事の前日に、護衛と二人で大酒を飲んでいるなどと予想しようか。無理からぬことであった。
酒など二度と飲まん、とフレスは自分に誓いながら親書を見やる。立派な封蝋がついているが、これはもうあてにならない。
なんとか痛みとつらさをこらえながら自分も部屋を出て、そのままポプリの部屋に歩く。もちろん、彼女の部屋の前にはメイドたちがいる。
「ポプリ様はまだお休みか?」
「はい。お疲れのようです」
メイドたちはそう言って頭を下げる。誰であろうとも主君の眠りを妨げることは許されない。いつもならすでに目覚めているはずの時間だが。
ともあれ、これは以前に三人で制定したルールである。緊急事態以外では、ポプリを起こせない。少しでも威厳を付けるためにそのようなルールがつくられたわけだが、もうすこし条件を緩くするべきであったと後悔する。
とりわけ、昨日は散々お風呂で盛り上がって楽しんだようだから、ぐっすりと眠っているのだろう。ならば、最終手段を使うしかない。
「わかった」
フレスはそのまま厨房に歩いていき、「すまないが、ポプリ様の朝食を変更してくれ」と申し出た。
「えっ、今日は昨日の残りのスープとバゲットの予定だったんですが……。どうせまだお休みなんでしょう」
三貴族の食事としてはあまりにも貧相なメニューに悲しくなるが、今日はネルカとともに食事をとる予定なのでそれはさすがに許されない。
「パンケーキとハニーシロップ、あとは適当に何か作って整えてくれ。とにかく起きていただかないと困る」
「いいんですか? もう小麦は貴重だし、砂糖なんか底をつきそうですよ」
厨房を任されているメイドの一人が、頭を掻きながら答えた。
「仕方ない。コロン様には私が謝る。それと、来賓があるから見栄えのする料理を追加で作ってくれ。有翼種の女性で、我々と合わせて三人分だ」
「わかりました。残りのスープはどうしますか?」
「城下の炊き出しにまわすか、賄いか何かに使ってくれ。販売したりしなければなんでもいい。君の裁量に任せる」
そう言われて、メイドはニヤリと笑う。
「へへえ、軍師殿さすがです。いい利用法を考えておきます。パンケーキは了解しました」
しばらくして、ポプリは甘い匂いに誘われて起床した。
普通ならこのようなことにはならないのだが、ポプリは魔王種であり、五感が鋭く、鼻が利く。
フレスはそれを知っていた。
鋭い嗅覚でもって、大好物のにおいに気づいたポプリがどうするかも知っていた。ふらふらとにおいにつられて眠い目をこすったままドアを開けてしまうのである。
そうなったらどうなるかといえば、「お目覚めですか、ポプリ様」と言いながら、急いでメイドたちが彼女の支度を整える。髪を整えながら顔を洗われて、服も着せ替えられて、あっという間にいつものポプリ様となり、彼女の部屋にポイと放り出される。
そうしてメイドたちは大急ぎで寝室の掃除を始めたようだ。とうに終わっているべき仕事だったからだ。その間、ポプリは朝食待ちでぼんやりと部屋の中にたたずむ。
バタバタと部屋の中の喧騒が落ち着いたころを見計らって、フレスは前に進んだ。
ようやく「ポプリ様にお目通りを」と申し出ることができたのだが、
「フレス、このにおいはパンケーキを焼いていますね?」
開口一番、どこかぼんやりした様子の彼女からそんなことを言われた。頭に突き出た二本の触角がピクピクと動いているのが見える。
「そうですね。まだ少しおねむでいらっしゃいますか?」
「おねむ? もう子供じゃありません。なぜパンケーキを焼いているのですか? 誕生日ではありませんよ」
「ポプリ様にすぐにもお目覚めいただくためにそうしました。お召し上がりになる前に、こちらをお確かめください」
そう言って親書を差し出す。ポプリは、その一瞬で目を見開いて、両目をこすった。
「ちょ、ちょっと待ってください。もしかして、ルシアン領の同盟に関するものですか? もう使者が到着してたのですか?」
「そうです。先ほど私が応対しました。親書はこのとおり、ポプリ様の開封を待っています」
「普通に起こしてくれればよかったのに。こんなことでパンケーキを焼いていては、特別感がなくなります。それに、もうお砂糖はなくなってしまったのでは?」
「緊急時以外には、誰もポプリ様の寝室には入れません。私がそれを破るわけにはいかないのです。それと、砂糖の在庫は絶望的です」
ポプリはハァとため息をついた。
「女湯には入れるのに、変に真面目ですね。まあ、わかりました。開けましょう」
封蝋を確かめてから、ポプリはナイフで親書を開ける。広げて読み、フレスにも読むように促した。
メイドが持ってきたそれを、フレスもじっくりと読み進める。
「先日のネルカ殿との交渉の内容を盛り込んだ内容になっていますね」
「そのようですね」
ルシアンからの同盟案だが、以下のような条件が列挙されている。
国境は当然そのまま。お互いにオルガリア軍からの攻撃を受ければ共有し、可能なかぎりの援護を行う。軍事演習と模擬戦は継続的に行う。ルシアン領からポプリ領に持ち込まれる商品について、関税はロンシャロン時代のものよりも低くすること。香辛料については撤廃すること。
「ずいぶん、吹っ掛けてきたなというのが正直なところです」
フレスも大きなため息をつきたかったが、立場上こらえた。
「オルガリア卿もそうでしたが、できるだけ有利な条件で外交交渉をしようとしていますね。軍事演習と模擬戦を継続したいのは、こちらの戦力をしっかりと確かめたいということでしょう。我々はルシアン領の国境拠点を破壊しましたが、その力を確認して、将来的には上回りたいという欲求があります」
「では、やはりこれも我々の出方を見ているということですか」
「そうです。これをそのまま承諾することはできません」
丁寧に折りたたんで、フレスは親書をポプリに返した。
「それに、使者として参られたのはルシアン卿の最側近の一人であるネルカ殿でした。彼女は有翼種で、先日返したオルガリア軍の使者にも接触したようです」
「というと?」
「つまり、おそらくもっと早く到着していたのに、オルガリア軍からの使者が出発するまで待っていたのです。そこで彼を追って、何らかの手段で親書を覗き見た。そして何食わぬ顔で我々のところにやってきました」
「つまり、私たちとオルガリア軍のやりとりを盗み見たと? ひどすぎませんか?」
「これは、ネルカ殿が白状したことです。本当はもっと恐ろしいことをしているかもしれません。使者を殺して自分たちのスパイと入れ替えてオルガリア軍に送った、ということも可能性としてはありえます」
ネルカがそこまでやるとは思えなかったが、可能性があるのは本当だった。これを聞いたポプリが「ぐぅ」と唸る。血なまぐさい外交の話で、すでに面倒くさくなっているのだ。
そのときフレスの後ろの扉が開いて、コロンが入ってきた。彼女もパンケーキのにおいには気づいているようだった。すでに激怒している。
「ポプリ様、おはようございます。で、フレス殿。なぜこんな、何でもない日に朝ごはんを変更したのですか? よほどいいことでもあったのですか?」
顔は笑っていたが、声は完全にきれていた。意図的に抑えた声ではあるが、わずかに震えてさえいる。
「ポプリ様にお目覚めいただきたかったのと、ルシアン軍からの使者が参られているからです。彼女にも食事を出す必要がありました。ポプリ様と同席で召し上がっていただこうかと」
「そんなことくらいで砂糖を使わないでください! この城の全人員に代わって私が怒ります! 反省して謝罪して、二度としないと誓ってください!」
「そんなことくらい、ではありません」
大声を上げて肩をつかんでくるコロンに、フレスは冷静に応じる。
「砂糖も塩のように領内では高騰していますが、ルシアン領から買えばいくらでもあります。そのためにはここで出し渋っている場合ではない。それに、ルシアン領には岩塩を輸出する約束もあります。コロン様も、やってきたばかりの親書をご覧ください」
言われて、コロンも封蝋を切られたばかりの親書を確認した。彼女はサッと目を通して、すぐに目を上げる。
「なるほど。模擬戦をもっとしたいというのは意外でしたが、予想の通りでした。しかし、これはただあなたが報告してきた交渉の内容そのままだと思うのですが、何か良くないのですか?」
「よくありませんよ、コロン。さりげなく書いていますが、関税は大事です」
ポプリが首を振っている。フレスが後を引き継いだ。
「はい。ロンシャロン時代の関税については、全てが暴利だったわけではありません。ゴルシャネル時代よりも下がっていたものもあります。代表的なものでいえば、砂糖やシロップです」
「えっ?」
「砂糖は領内でもかなりの量が精製されていますが、それはすべてサトウダイコンで作られています。ゴルシャネル卿の時代に、ルシアン領への砂糖依存を脱却しようとした結果であることは、たぶんコロン様もご存じでしょう。技術革新に感謝しなければなりませんが、それでもルシアン領でのサトウキビの量には到底かないません。塩ほどではありませんが、砂糖もルシアン領からの輸入が必要です。なければ死ぬというようなものではないですが」
「シロップというのは? 蜂蜜ならかなりの量が製造されているはずです。あなたの護衛のリッシュだって養蜂をやっていたと言っていました」
「それは狩猟の片手間にやっていた趣味程度のものだそうですよ」
「え、そうなんです?」
コロンは困惑しながら、フレスが持ってきた資料をバラバラとめくった。
「養蜂も領内で多少は行えていますが、蜂蜜も砂糖も、軍事的に重要な商品です。ロンシャロンはこれらの関税を引き下げて、大量に国内に輸入させていました。一方香辛料や塩の関税は引き上げてバランスをとっていたのです」
「蜂蜜の関税ですか」
「それと、メープルシロップというものもあります。糖分の多い、特定の樹液を煮詰めたものですが、これはオルガリア領でしか生産されていません。これも一応関税が低めになっています。オルガリア領から直接買い付けられたものも、いったんルシアン領で加工されてきたものもです」
「しかしなぜそんなことをしたのでしょうか?」
資料をめくる手をとめて、コロンがつぶやく。戦争準備のために重税をかけていたのに、甘味に関してだけは関税を下げるというのは確かにおかしい。
「そこが重要な点です。関税を引き下げられた砂糖が、サトウダイコンで作っている領内の製造業者を駆逐していない点を考えてください。これは裏の取れていることですが、ロンシャロンは領内の業者からも大量に砂糖やシロップを購入しています。このため、今もまだ領内で砂糖は作られているのです。岩塩の精製に関しても似たような理由があります」
「というと、どういうことですか?」
「軍需がありながら、武器や防具などの露骨に戦争を感じさせない製品。それを大量にストックするためにこうした税制になった。そう考えるなら不思議なことではありません」
「すみません、どういうことなんですか?」
コロンは混乱していた。フレスはもう一度噛み砕いて説明する。
「ロンシャロンは戦争がしたかったのです。であれば、大量の食糧や武器や防具が必要です。軍服だってそろえようとしたらバカにならない」
「それはそうですね」
「もちろん領内でそれらは製造する。しかし、ルシアンやオルガリアから買えるなら買いたいですよね?」
「これから攻めようとしている敵から買うんですか?」
「はい。なんでも利用するのが戦争です。敵国から軍事物資が減って、しかも後で戦争に勝てば払った金も取り返せます」
おう、とコロンが真に驚いたような声を上げた。
「た、たしかに……。タダで買ってるようなものですよね。それなら合点がいきます」
「だから関税を下げて、民間単位でもどんどん輸入してもらいたかったのです。それを政府が買い上げれば取りに行く手間も省けます。これで大量に備蓄ができるというわけです」
「しかし、そんな思惑で下げられた関税より、さらに下げるなんてことは」
話を現在に戻す。コロンは親書に書かれた一行に指をさした。『ルシアン領からポプリ領に持ち込まれる商品について、関税はロンシャロン時代のものよりも低くすること』という部分だ。
フレスも頷いた。
「はい、到底了承できるものではありません。砂糖だけでも、領内の業者が干上がってしまいます。これについては岩塩のようなごまかしもききません」
「では、この部分を今から使者とやりあうのですか?」
「ネルカ殿がどのくらいの権限を持たされてここに来たのかわかりませんが、少し条件を詰めるくらいはできるはずです。そうでなければ彼女がわざわざここに来た意味がありませんからね。まずは朝食の席で様子見です」




