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18.計算士たちの悲劇

 その日の夜、ポプリは随分長い風呂を楽しんだ。執務室にまで、彼女の笑い声が聞こえてくるような気さえした。

 ファリアとコロン、リッシュを相手にリラックスして長話を延々と繰り出し、あれもこれもと話題にして、尽きることのないおしゃべりを楽しんだようだった。最終的に、たっぷり四十分以上も大浴場を占拠して、ようやくそれが終わったと思えば「これから週一で開催してください。決定です」とのお言葉をフレスとコロンにぶつける始末であった。さすがにそれはまずいと、髪の湿ったままのポプリを相手に交渉を繰り返し、「さすがに週一はファリアの負担が大きい、浴場の利用法や燃料費にも影響がでる」と説得の末、なんとか月一の開催で同意にこぎつけた後。この顛末からファリアやコロンも解放されて眠りについた頃。

 フレスも仕事を一段落し、自分の寝室に入った。オルガリアへの返書も清書が終わり、すでに使者に引き渡されている。今頃彼は必死に山間の拠点まで戻っているはずだ。それに、そろそろルシアンからの返書もやってくるし、塩値の引き下げの告知も出す必要がある。その前にあの商人、黒ターバンの男にももう一度会って詳細を詰める必要もある。

 まだまだ、城の中にも外にも仕事が山積みだった。政治とは終わりのない仕事なのだ。

 しかし、明日への精気を養うために寝室に入ったというのに、待っていたのはリッシュだった。腕組みまでしてふんぞり返っている。部屋にカギをかけているわけでもないから、彼女がいることは不思議ではない。


「なんだ、リッシュ。どうしたんだ? ここは私の部屋だぞ」

「お酒に付き合う約束でしょ? 待ってました。でもその前に、一言あるんです」


 確かに、昼間に酒に付き合うという言質はとられた。まさか寝室にまでくるとは思わなかったが、一言とは何か。


「何だ?」

「ええ、聞きましたよ、軍師殿。なんでも、計算機ってものがあるらしいじゃないですか!」

「計算機? ああ、あれか。それがどうかしたのか」


 聞き流しながら備え付けてある机に向かう。簡易な椅子が二つ。そこに腰掛けると、自然にリッシュも向かい合って座った。彼女が持ってきた酒をドンと机に置く。かなり大きめの瓶酒だ。パーティーの際に開けられるような祝祭用の大瓶だろうか。まちがっても、一晩で飲み切るように作られている瓶ではない。

 酒瓶の大きさに目を奪われているフレスに、リッシュは顔を近づけてきた。


「あるんだったら、使わせてくださいよ。軍師殿も使っていらしたんでしょ? ファリアが言ってましたよ」

「まあ、そうだな。君が思うほど万能な機械ではないと思うが。いいだろう」


 フレスは最下段の引き出しを開けて、小さなミシンのような機械をとりだした。目を引くのはまるでオルゴールのような大きな回転レバーと、各所に設けられた数字の表示板だ。

 酒瓶と並べると、その大きさは同じくらいか、やや計算機が小振りに見えるくらいか。


「どうやって使うんですか?」

「ここの数字を足したい数字に調整して、ここのレバーを回すんだ。そうすると、表示板にその数字が足される。繰り上がりも自動でされる」


 興味津々のリッシュにフレスはやり方を説明し、使用手順書も渡した。リッシュはその手順書を読み込んだ。

 これはロンシャロン時代、ひいてはそれ以前の時代から使われていたものである。計算士が貴重であるため、多くの書類はこの手回し型の計算機をつかってつくられていた。

 この計算機を使う専門の人員が養成されていたという話まである。


「なるほど、足し算引き算だけじゃなくて、掛け算も割り算もできるんですね。万能じゃないですか!」

「正確に操作すれば答えを間違えることはない、というのは利点だと思う」

「よし、何か書類を一枚くれませんか? 今度こそお役に立って見せますよ!」

「この部屋に書類などあるわけが、いや、書き損じのものがあったな。試すならこれでよかろう」


 フレスから税収計算の書類を一枚受け取り、リッシュは早速手回し計算機と向き合った。


「じゃあ、この数字を合わせてと。これでレバーを回すんですね?」

「ああ。一回グルリと回すと、数字が足される。足されたら、次の数字を入力する」

「はい、これでよしと。またレバーを回してと」


 ガチガチ、ガチンと計算機から独特の音が鳴っている。歯車が動いて、中の機械が調整されているのだ。


「はい、また次の数字……。意外と面倒ですね」


 早くもリッシュはそんなことを言い出した。気持ちはわかるが、機械とはそういうものである。フレスは苦笑した。


「じゃあ、自分で筆算してみるか?」

「うぐっ、それはもっと面倒ですよね。レバーを回すほうが簡単なことは間違いないです」

「この酒、開けてもいいのか?」

「かまいませんよ、どうぞ」


 リッシュが悪戦苦闘している間、フレスは彼女が持ってきた酒を開けて自分の杯に注いだ。かなり強いにおいがする。子供たちのおやつにしているのと同じ芋をつかって、麹で作った酒だろう。

 口をつけてみると、辛いがスッキリと抜けていくような味だった。悪くはない。むしろ、上等だった。


「ほう、いい酒じゃないか。どこで買ってきたんだ?」

「そうでしょう、そうでしょう。ロンシャロン配下の文官たちが持っていたやつです。役得ってやつですね。いつか飲もうと思っていたんですよ」

「ああ、そんなこともあったな」


 急に飲みづらくなってしまった。リッシュが言っているロンシャロン配下の文官というのは、彼女が「ポプリ様への忠誠が嘘だったから」という理由で虐殺した者たちである。彼らの資産はその後、当然ポプリ軍が没収したのだが、金以外は兵士たちの裁量に任せた部分がある。リッシュはどうやらちゃっかり、酒をいただいていたらしい。


「だが、これはストレートで飲むモノじゃないんじゃないか? 水を」

「水なら補充しておきましたよ。当たり前じゃないですか」


 リッシュがこともなげにそういった。見てみれば、確かに部屋にあった水差しにはなみなみと中身が入っている。


「用意周到だな」

「任せてください。酒に関しては妥協なんてありません」


 言いながらレバーをグルリと回して、リッシュは頷いた。


「よし、これで答えが出ましたよ。軍師殿、どうです?」

「どれ」


 彼女から書類を受け取って、確かめてみるとフレスの顔は曇った。


「君、何か間違っていないか? 前年比が80%減ということはありえないのだが」

「ええっ、でもちゃんと操作しましたよ!」

「もしかして、レバーを逆に回したな?」

「そうですよ。ずっと同じ回転だと壊れちゃうでしょう?」


 素っ頓狂なことをリッシュは言っている。フレスは思わず笑ってしまった。


「ゼンマイ仕掛けじゃないんだ。これはずっと同じ回転でいいんだよ。逆回転は引き算をするときだけだ」

「あっ、そうなんですね。それじゃあ計算はおかしくなるわけです。でも、ノースはこの書類をほんのちょっとの時間で片づけてましたよね」


 言いながら、リッシュは持ってきた酒を何も割らない生のままでグイと傾けた。いつ見ても豪快過ぎる飲み方だ。

 唖然としながらフレスは応じる。


「まあ、そうだな。あの二人は優秀だし、言葉を選ばず言えば、計算ができなければ死ぬ環境に追い込まれていた。たぶん、ルシアン領の計算士と比較しても勝てそうなくらいだ。相手が悪すぎる」

「そんなにですか?」

「私でもあんな速さで計算するのは無理だ」

「そうなんですか? ファリアは軍師殿も計算が早いって言ってましたよ」

「いや、それは誤解だ」


 あわててフレスは手を振った。これを放っておいたら、『軍師殿は子供たちよりも計算が早い』ということになってしまいかねない。


「私の書類判断は概算で済むし、細かい計算を子供たちが片づけてくれているからこそ、そういうことができるだけだ。君にも言ったが、計算術は訓練が必要で、私はそんな訓練を受けてはいないんだ。だから、こういう計算機も使った」

「でも今は使ってないんですよね?」

「まあそうだな。君も使ってわかったろうが、操作が手間でな。概算を処理するくらいなら、暗算の方が早い」

「暗算ってどんな程度のものです?」


 リッシュが食い下がってくる。フレスは昼間の書類を思い出して、軽くペンを走らせた。


「だいたいこのくらいだな」

「軍師殿? 計算する部分が八桁くらいあるんですが?」

「まあ、概算ならそんなに手間でもない」

「いくら概算でも暗算でこれは無茶ですよ! それに、こんなに桁が残ってたら概算でもなんでもないじゃないですか」

「そうか?」


 フレスは腑に落ちないような顔で、酒を注いだ。ついでに、リッシュの杯にも酒を注ぎ足す。それを受け取りながら、リッシュは深く息を吐いた。


「まったく、軍師殿は謙遜が過ぎますよ。それに、ノースと何を話していたんですか? ずいぶん嬉しそうにしてましたけど」

「ああ、あれか。君らにファリアをとられたからな。口では妹を誇らしげにしていたが、実際は寂しいんじゃないかと思ってちょっとな」


 ファリアだけがポプリに呼ばれ、ノースが疎外感を覚えていないかと心配したフレスは、彼を誘って執務室でお茶を飲み、軽いゲームなどをして過ごした。他愛もない話がほとんどだったが、一点だけ大事なことを伝えたのだ。


「ノースたちの生家は大農場だった。これは両親が亡くなったこともあってロンシャロンが接収してしまっていたから、つまり現在はポプリ軍の持ち物になっている」

「ああ、そうなんです?」

「ここも当然、我々の手で色々と農作物を育てているところなのだが。いずれはノースたちに返すつもりだ。さすがに無償というわけにもいかないがな」

「なるほど、それを伝えたんですね」

「そうだ。前々からノースたちは家と農場を買い戻したいということは言っていたんだが、予想外に嬉しがられてこちらが驚いた。もっと怒られると思っていたからな」


 フレスは本当に予想が外れたことに驚いたのである。

 ノースたちの立場から時系列に沿って考えれば、大農場を経営して一家が裕福に暮らしていたものを、重税によって暴徒と化した民衆が作物を略奪しつくした上に、膨大な税を課されたので一家は極貧に落ち込み、その上自分たちは過酷な労働に追い込まれ、持っていたはずの家や土地まで両親の命ごと召し上げられたようなものだ。子供たちの視点から考えれば政府による強盗殺人であり、到底許すことはできないだろう。

 その立場を受け継いだポプリ政権がそのまま自分たちの家や農場を使っているという現状も、容認できないことであって不思議ではない。そう思っていたが、「今すぐではないし、いつになるかも確約できないが、その準備ができたら必ず農場と家の権利は返す。無償ではないが、価格もできるかぎりおさえる」という全くあてにもならない約束を持ち出したところ、ノースは衝撃を受けたようであった。持っていたシャトランジのコマを取り落として、目頭を押さえ、そのままうずくまってしまったほどだ。


「ポプリ政権が持ち主だと知ったらすぐにでも、『最初から自分たちのものだったものなど、今すぐ返してもらって当然だ』というと思っていたのだが」

「それは甘く見過ぎですよ。子供たちだってそんな甘えたことが通用しないことくらいわかっています。当たり前のことが、当たり前にしてもらえる時代は終わったんですよ。誰もがそれを痛感したはずです」

「かもしれないな。だが、私はそれを過去のものにはしたくない」


 フレスは水で割った酒をグッと押し込んだ。


「でも、そんな約束をなさるなんて。私もその、詳しい事情を聞いてもいいですか? ロンシャロン配下でこき使われていたってことは聞きましたけど、断片的になっているので」


 まじめな調子で、リッシュが計算機に手をかけながら聞いてきた。

 ただ単純に、世間話の延長という雰囲気ではない。子供たちの事情を面白半分に酒の肴にしているわけではなく、知っておくべき情報だと判断しているのだ。

 これを受けて、フレスも話をしたほうがいいと判断した。だが、しらふで話すには重すぎる内容でもある。

 とはいえ、特別すぎる事情があるわけでもない。あの時代にはあまりにもありふれた数多くの地獄のうちの、一つに過ぎない。それが余計に重苦しいのだ。もう一口酒を押し込んで、その勢いを借りてやっと話を始める決心がついた。


「ああ、では言うが、あの二人は大農場の地主の一家だった。その当主だった彼らの親は『将来必要だし、もし農場を継がなくても生きていけるように』と言って、二人を計算塾に通わせていたらしい。そのくらい裕福だったんだが、ロンシャロン時代に多くの人が貧困にあえいだだろう。私も君もそうだったはずだ」

「そうですね……」


 ロンシャロン以前の三貴族であるゴルシャネルは名君だった。税は安く抑え、オルガリアとは適当にやりあいながら、ルシアンとは不干渉という外交戦略をとり、ルシアン領との交易は商人たちに任せた。フレスたちが知らないだけでゴルシャネル政権にも問題はあったのかもしれないが、少なくとも領民たちが特別に虐待されているということはなかったはずだ。

 それが一転したのは彼の腹心であったロンシャロンの裏切りによる。軍権をもったロンシャロンはゴルシャネルを排除し、自らが三貴族となったのだ。そして、人頭税に加えて地税を課した。この地税があまりにも強烈な課税方法であったため、徴税官が異常な権力をもつようになってしまったのだ。この結果、多くの人々が財産を強制的に没収され、極貧に転落した。


「生きるために多くの人がノースたちの農場を荒らした。作物は収穫をする間もなく略奪されてな。収入はゼロになった。だが、農場を持っているから重税が降りかかる。裕福だった生活が一転だ。徴税官が毎日のようにやってきては、あらゆるものを差し押さえだと言って奪っていく。両親はそれが来るたびに、ノースたちを必死に隠したようだな、殺されないためと、売られないために」

「……嫌なことを思い出させますね。程度の差はあれ、あのときは誰もがそんなことをされてきたでしょう」

「だが、ノースたちはあのとおり計算術を習得していた。ありえないほど優秀だった。それが救いになった」

「救いですか?」


 嫌な予感しかしないような言い回しに、リッシュは眉を寄せる。


「ロンシャロンが計算のできる子供を募集し始めたんだ。おそらく、人件費を安く抑えるために子供を雇おうとしたんだろう」

「とてもそうは思えませんがね」

「城での住み込みの仕事だが、一応『食事付きの厚待遇』で、給料も出るということで募集されていたんだ。それで、両親はノースとファリアを送り出した。極貧の生活よりはいいと思ったんだろう」

「……」

「だが、君が知っている通りの結末になった」


 フレスはリッシュの杯に酒を注いで、自分のところには水を注いだ。


「ロンシャロン自身はもしかしたら、本当に子供の計算士を普通に募集していたつもりかもしれないが、彼の部下たちはノースたちを粗末に扱ったようだ。ノースがいうには、何もわからない書類を渡されて、何時間かしたら殴られたと言っていた。教育ということをするつもりさえなかったんだろう。あるいは、自分たちの職が脅かされると思って、あえて何も教えなかったのかもしれない。その上、食事もほとんど水みたいなスープか、大人たちの食べ残しだったと」

「胸糞の悪い話ですね。ロンシャロンの文官はすでに殺しましたが、知っていたらもっと苦しませたのに」

「それでもノースはファリアを殴られないようにするために、仕事の仕方を必死に探して、なんとか覚えた。それでも殴られる数は減らなかったし、待遇も改善されなかった。……まだ聞きたいか?」

「途中で終わるのはなしですよ。嫌な話でも、聞いておかないと」

「わかった」


 リッシュの覚悟を聞いたので、フレスは一息を入れた。


「ロンシャロンの文官たちも、バカではない。次第にノースたちの計算能力が高いことに気が付く。するとどうなるか? こき使う方向に動くのだ。自分たちの仕事もすべて彼らに押し付けて、できていなければ殴ればいい、とな。おそらくそうなったのだろう。ノースは急激に仕事が増えたと言っていた。君も見ただろうが、あれだけの能力のある二人が必死になって計算してもまだ終わらないくらいの仕事だぞ。どれだけの無茶苦茶をされていたのか、想像もつかない。しかも子供だ、脅しつけて殴って、いくらでも働かせられる」

「軍師殿、そのロンシャロンの文官たちは、今の私みたいにこうやっていちいちレバーを回していたんでしょう? それじゃファリアたちにかなうはずがない。しかし、だからといって子供たちに全部押し付けて楽をしていい理由になんかなりませんよ!」


 本気でリッシュは怒っていた。とはいえ、ここには怒りをぶつける先がなかった。酒しかない。

 リッシュは立ち上がって、勝手知ったる調子でフレスの寝室の引き出しを開け、中にあったチーズを取り出して包みを切り、口に放り込む。そしてやはり生のままの酒をまるで水のようにググッと飲み込む。

 とっておきにしていたチーズをとられたフレスは一瞬あっけにとられたが、とりあえずそれは後で言及することにして、続きを話す。


「ノースはもうこの時点でファリアを守り切れなくなっていた。最初のうちはファリアに優先的に食事をとらせていたが、そんな余裕もなくなった。そんな自分に嫌気がさしていたが、それでも計算をしないと殴られる。ファリアが大人たちに叩かれて泣いているのを、見ないふりをして計算を続けなければならなかった無力感におかしくなりそうだったとノースは言ってくれた。私はこれを聞いたときに、事情を詳しく聞いたことを後悔した。今、彼らが仲良く一緒に仕事をしていられるのは本当に奇跡的じゃないか? それともリッシュ、ノースにだけ事情を聞いて、ファリアに詳しく聞けなかった私を臆病だと責めるか?」

「いえ、それでいいと私は思います。むしろ、ポプリ様がさっきお風呂でファリアと話しているとき、その辺の事情を聞きだそうとしたりしなかったことを、本気でありがたく思っていますよ」

「それは危ないところだったな。ポプリ様もおよその事情は知っているから大丈夫だとは思うが」


 水をもう一口飲んで、さらにまだ話は続く。


「そんな絶望的な日々のところに、両親の声が聞こえたそうだ。『ノースを呼んでくれ!』『ファリアに会わせて!』とな。その声を聞いたノースは矢も楯もたまらなかっただろう。殴られるとわかっていたが、窓に飛びついたそうだ。それでやっと見えたのは、まるで何十年も年取ったような両親の姿だ。びっくりするくらい痩せていた、と言っていた。別れる間際でさえ、すでに極貧だったのだが、そこからさらにだ。両親の声はすぐに、『子供たちは忙しい、帰れ!』と恫喝する兵士の声にさえぎられた。同時に、自分も『終わってないのにさぼるな』と、背中を誰かに殴られて窓から引きはがされた。幸いなのは、ファリアも同じように窓に飛びついていて、二人で両親の姿を見ることができたことだ。いや、幸いとは到底言えないだろうか。それっきり、ノースは両親の姿を見ていないと言う」

「まあ、間違いなく殺されていますね。面倒な輩ですし、殺せば楽に農場や家の権利が手に入る。ロンシャロンのやりそうなことです」


 忌々しそうにリッシュが吐き捨てる。フレスもそれに同意した。


「だろうな。だが、子供たちにはそんなことがわかるはずもない。両親がどうなったのか心配だっただろう。城まで来てくれた、助けようとしてくれたと感じたかもしれない。なのに、ノースが言うにはわざわざ『お前たちの両親は死んだ』と伝えられたということだ。さすがのノースもこれで『給料は両親に送っておく』という文官たちの言葉が嘘であり、騙されていたということに気づいた」

「無茶苦茶ですね。ですが、徴税官たちの振る舞いを考えればむしろ自然かもしれません。許せるわけではないですがね」

「子供たちはそれでも殴られないために計算し続けないといけない。この時期、どういう気持ちで計算をしていたんだろうか。ファリアたちが今日、君からのおやつをもらって笑っていたのは、実はとんでもないことなんじゃないか? そう思わないか?」

「……わかりました。話を続けてください」

「おそらくだが、このあたりで我々がロンシャロンを直接打倒した。時期的にそうだろうと思う。ザメル様がロンシャロンを一騎打ちで破って、生け捕りにしたんだ。結果、城にいたロンシャロン軍の者たちもさすがにヤバいと感じたんだろう。急いで逃げ出した」

「なるほど。やっと地獄が終わりましたか」


 ホッとした様子でリッシュは酒をさらにあおった。


「だが、彼らがいちいちノースたちに『戦争に負けたから逃げるぞ』なんて案内をすると思うか? 自分たちだけ逃げたんだ。情報に疎い者も、周りのものが消えれば察する。だがほとんど監禁されていたノースたちにはそんな情報も届かないし、そもそも戦争に負けたという状況を想像することもできないだろう。もはや彼らの頭には殴られないために計算するということしかなかったんだ。だから、ノースはある日突然、大人たちがいなくなったということしかわかっていなかった。食べ物も、物資もほとんど何もかも消えたと言っていた。死体が城内に転がっていたとも言っていた。おそらく財産の奪い合いで殺し合いになったんだろう。君も見たと思うが。こうなってしまうと、子供たちは外に出ていくこともこわくてできず、ほんのわずかな食べ物をどうにか探して、腐った野菜の皮の切れ端をかじったりしていた。小さなネズミを殺して食べたとも言っていたな」

「子供たちですよね? これは、子供の話なんですよね?」

「ああ、ノースとファリアの話だ」

「ひどすぎませんか?」

「ひどすぎるな」

「これを知っていれば、もっと早く城を制圧していたのに」


 そうは言うが、あのときは戦後の処理に必死だった。なにしろロンシャロン本人を生け捕りにしたし、敵の負傷兵や死体をそのままにしてはおけなかった。ロンシャロンの本拠であるこの城を制圧したのは、ロンシャロンを倒してから一週間も経ってからになったのは、今考えてもかなり遅いが、当時の自分としては最善の判断をしたつもりでいた。城の中にどのくらいの兵士が残っているのか、わからなかったこともある。


「私が二人を見たときには、餓死寸前だった。食糧のパンや干し肉を与えても消化できずに死ぬだろう、と思ったくらいだ」

「ファリアを洗ったとき、正直言ってあまりに痩せていて明日には死ぬんじゃないかと不安になりましたからね。骨と皮どころじゃない、それが今となってはお風呂におやつにお茶にゲームですか? 奇跡ですね。本人でもない私がそんな風に思うくらいですから、本人たちなんかどう思っているんでしょうね?」

「わからん」

「それにしてもロンシャロンの野郎、これをどう思っているんですかね。本人に聞いてきていいですか?」

「やめなさい、もう夜遅い」


 フレスは長い息を吐いて、ぐったりと椅子に座ったまま、壁にもたれかかった。

 ロンシャロン本人は生け捕りにされたまま、まだこの城の地下牢につながれている。まだ生きているが、その処遇もまだ決まっていない。後回しにされているのだ。


「それに、今の君が彼に会えば、殺してしまいかねない」

「かもしれませんね」


 リッシュは否定しなかった。


「前にも言いましたけど、徴税官に蹴り殺される子供なんて珍しくもなかった。ゴミ溜めに捨てられた赤ん坊だって見たことがあります」

「ああ、そうだな」

「それでも、気が滅入ります。ファリアたちが笑っている今を知っているからかもしれませんけどね」

「たぶんそうだろう」


 リッシュはガブガブと酒を飲み続けている。

 ふう、と口の周りを手の甲でぬぐって、彼女はさらに言いたいことをぶちまけた。


「何よりムカつくのが、こういう話がファリアたちに限ったことじゃないってことですよ。城にいる孤児たち一人一人にこんな話があふれてる。みんなが生きるために一生懸命頑張ったのに、報われなかった時代なんですよ。それが許せない。私たちは戦って勝ったのに、まだこんなにも悲劇のかけらが転がってるんです。私たちはどうすればよかったんですかね?」

「わからん、わからんよ。私にだって」


 フレスはわずかに残った水の上から酒を入れて、一気にあおった。


「君も私も、すでにその悲劇の一部なんだ」

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