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12.腹心のネルカ

 丸二日も寝ないで頑張ってくれたリッシュは、ベッドに飛び込んでそのまま泥のように眠ってしまった。

 その間に、フレスは商人たちとの話し合いに向けて準備を始めなければならない。ここはポプリ領の南部、ルシアン領との国境近くの町だ。ルシアン領から輸入された物資がこの町に運び込まれていったん備蓄され、さらにここから各地に配送手配される。そのため、ここに行商人たちの本拠があるのだ。

 「塩商人たちと話し合いをする」とフレスは言っていたものの、実際には塩だけを扱う商人は少なかったし、そのためのギルドというのもなかった。ロンシャロン以前の支配者たちも「塩商ギルド」というものの設立は認めてこなかった。だから、フレスは香辛料を主に扱う行商人団との話し合いを打診している。彼らも塩を取り扱うし、その量も十分ある。

 出発前にノースとファリアが交渉に必要な数字データを計算してくれているが、正確なものではない。どこまでこの話が通じるのかはわからなかった。

 フレスはリッシュを部屋に残して、外へ出た。商人たちがどのようにしているのか、実際に目で見なくてはならない。


「広いな、さすがに」


 以前の巡察ではほとんど通り過ぎただけだったが、こうして一人だけでこの町を歩いてみれば、違った発見がある。

 現在は昼を少し過ぎたくらいの時刻。大通りの左右には露店が広がり、食べ物を扱う店主が「昼飯はどうだい、食べてってくれ」などと時折声を上げている。生鮮食料、肉、保存食、擦り切れかけた衣類、丁寧に作られた装飾品、子供のおもちゃ、所狭しと並べられたそれらの雑多な品々を見ながら、フレスは値を確認し続ける。

 重税と内戦のダブルパンチでほとんどすべての物価は上昇していた。ここまでの道中で売れないだろうと思っていたキツネ肉が売れてしまったことも、フレスに衝撃を与えていた。安値ではあったが、「需要があるから引き取る」という言葉とともに白銅貨に変えることができてしまったのだ。なめしてさえいない毛皮も同じだった。

 予想外ではあったが、城下でポプリ軍による保護を受けている人々があれほどいることを考えれば、不思議なことでもなかったかもしれない。あらゆる物資が、今現在のポプリ領では不足していた。金を持っている者はそれほどでもないだろうが、貧しい者たちはとことん貧しくなっている。

 金を持っている者が雇用を生み出せばいいのだが、彼らとて慈善をするほどではない。できれば安く労働力を買いたたきたい。そうなれば貧しい者たちはギリギリの生活を強いられる。

 フレスは自分の限界を感じながら、大通りを進んだ。フレスと同じように、商店の間を歩いている者は多い。一部の裕福な者は遠慮なく肉や装飾品を購入しているが、ほとんどの者は恨めしそうに商品をみて通り過ぎるだけだ。

 塩の値段はやはり、ロンシャロンが政権を握る以前から比べれば、信じられないほどの暴騰だった。香辛料や調味料を売っているその露店を確認してみれば、比較して五倍以上の値がついている。生活必需品なので売れないことはないのだろうが、これではあまりにも暴利すぎる。ルシアン領では塩の値段に変動などはないのだ。


「待てよ、あんた!」


 後ろからそんな声が聞こえたので、呼び止められたかと思って振り返ってみた。


「なんでしょう?」


 が、その声を出したのは自分ではなかった。露店を出そうとしていた小柄な女が、声をかけてきたのであろう太った男を見上げている。


「そこは露店を出しちゃだめだ。そんなことも知らないのか! そこの壁は空けてあるんだ、馬やら馬車の退避用だ」

「ああ、なるほど。それは失礼しました」


 女は頷いて、店をたたみ始める。その手をふと見れば、羽毛になっていた。両腕がまるごと、翼になっているようだった。この女は有翼種だったのだ。それも、おそらく地面から自分の力だけで羽ばたいて飛ぶことができる。

 妙だった。飛ぶことができる有翼種は、商人には向かない。重い荷物を持てば飛ぶことができないし、そんなことをしなくとも、いくらでも他につける職があるはずだ。飛んで移動できるということは、それほどの特権なのだ。

 フレスは立ち止まり、注意して女を見た。顔はフードをかぶっていて見えにくいが、荷物はそこそこ多い。塩は扱っていなかったが、香辛料や調味料が中心だった。


「何か……?」


 じっと見ていたフレスに気づいたのか、女が不審な目を向けてくる。だがフレスから見れば不審なのは女の方だった。


「ルシアン領から来られたのですか?」


 片づけを終えて、荷物を背負う女にそう訊き返した。


「まあそうですね」


 歩き出した女の背を、フレスは追いかける。


「それほどの荷物を背負っていては、飛ぶことはできないのではないかと」

「飛ぶのは嫌いなんです。疲れるし、意外と空は危ない。寒いし、落ちれば死にます」

「そんなことはない。あなたは頻繁に飛んでいらっしゃる。化粧でごまかしているが、その顔は寒空を飛んでここに来て、冷え切ったのでしょう」


 言われて右の翼を頬に当てようとして、なんとかそれを押しとどめる。

 ついに女は歩みを止めて、フレスを振り返った。


「何ですか? 放っておいてください」

「少しお話しませんか。お昼もまだでしょう」


 まるで若い男が意中の女性を誘うような口ぶりだなと自分で思いながら、フレスはそう言った。


「なんです。お茶のお誘いですか? 仕事の邪魔です!」


 相手の反応はそっけない。女だから声をかけたと思われているようだった。

 一気にフレスは核心に踏み込む。


「なぜ、塩を持ってこなかったのですか?」

「関係ないでしょう、塩は高いんです」

「高いなら、なおさら持っているべきでしょう。あなたは塩が重いから、買ってこなかったんです。塩を持っていると飛べないから」


 フレスは子供に説明するように、静かに話をつづけた。


「あなた以外の香辛料商人は皆ついでのように塩を運んできていますよ。塩をここで売れば稼げますからね。ルシアン領からきたのなら、塩を転売しない手はない。だがあなたは何も持たずに飛んでここにやってきて、商品を現地調達して商人のふりをなさろうとしただけ。しかし塩だけはあまりに高いので手を出さなかった。違いますか?」


 女は咄嗟に逃げようとしたのか振り返ったが、人混みの中を荷物を背負っては逃げられない。もちろん飛ぶこともできない。

 ゆっくり向き直って、女は観念したように翼をだらりと下げた。


「大した推理ですね。仕方ありません、お昼ご飯に付き合いましょう」

「その前に、お名前をうかがってもよろしいですか?」

「まぁ、ご承知かもしれませんが、ルシアン閣下の秘書のようなことをさせてもらっています。ネルカです」


 うっ、とフレスは声を出しかかった。ネルカといえば実質的なルシアン軍のナンバー2である。ルシアン本人といい、気軽に自分の前に現れるのはやめてほしかった。もう少しで衛兵を呼んで捕らえさせてしまうところだった。

 フレスはルシアンの部下だろうと当たりをつけてはいたが、これほどの大物がポプリ領をウロウロしているとは全く考えていなかったのだ。


「あなたが噂の軍師殿ですよね? 閣下がずいぶん買っておられましたよ。まさかこんなところにおられるとは思っていませんでしたが……無視しておけばよかった」

「その時はこちらから話しかけていました。塩の価格を聞くつもりでしたよ」

「護衛はどうされたんですか? お一人で?」

「今は休んでいます。ここはまだ治安も良く、衛兵もいます」

「衛兵といっても、商人たちの雇った傭兵のような者たちでしょう?」

「はい。そのとおりです」


 フレスは笑って答えながら、軽食を売る店に入った。値段はそれなりだ。ネルカも特に何か用心するわけでもなく、入り口近くの席についた。


「では、私はローデンドライを。ダブルにペッパーをつけて」


 ネルカはちらりとメニューを見て、すぐさまどぎつい酒を注文した。しかも、相当な飲み方をするらしい。『お昼ご飯』と言っていたが、当然のように酒から入った。

 フレスは一瞬あっけにとられたが、自分も咄嗟に酒を頼む。下戸だが、付き合わないわけにはいかない。


「パームミード、チェイサーつきで…」

「ミードですか?」


 ネルカが意地悪そうな笑いを浮かべている。


「実は弱くて。まだこれから仕事がありますから」

「ミードなんてジュースみたいなものですよ。そのくらいの酒なら、子供のころから飲んでいました」

「それは……」

「ルシアン領、というより私のいたところではむしろ水が貴重でしたからね。飲み物をたくさん飲みたいのなら、ワインを飲むしかなかった」

「そのようなことが?」

「ここでは信じられないかもですが水事情が悪いところでしてね。汚れた水しかなかったんです。ご想像のようなワインではないですよ、劣化して売れなくなって、澱の浮いたやつです。それでも水よりは安全なのでね」


 言われてみて、フレスは状況を想像してみる。おそらく、何かの事情で水が飲用に適さない地域なのだろう。金属的な汚染か、あるいは何かの毒性があるのか。

 いや、と思い直す。ワインがあるということは、ブドウを育てているということだ。だがブドウを育てるにはある程度きれいな水がいるという話を聞いたことがあった。となると考えられるのは、都会部で出された生活排水、特に下水が混入していることだ。この場合、濾過と煮沸で飲用水にはできるが、時間も燃料代もかかる。それならば、同じ燃料と時間でワイン造りをしたほうがいいということだろうか。

 だがその結果として、地域に常飲できる水がなくなってしまう。そのために劣化したワイン、とも呼べない酒を飲んでいる。おそらく発酵過程で水が浄化されていると期待をして。

 つまり汚水は飲めないので、それで育てたブドウをワインに加工して売っている。その売り物のワインのうち、質の悪いものが常飲されているということだろうか。

 知らないだけで、こんな地域がポプリ領にもないとはいえない。


「どのあたりなのでしょうか?」

「それはまたいずれ、おいおい。なんにしても、私は翼があるおかげでその地域から逃げられました。行き倒れかかったところを閣下に拾っていただきましてね」

「今はそちらの事情も改善されているのでしょうか?」

「いえ? そのままですよ。閣下もヒマじゃないですからね。それにしても見てください、どのメニューも高いですよ。ルシアン領じゃ考えられない、まるで高級料理店です」

「高騰した塩の値段がそのまま乗っかっていますからね。このような飲食店はあっぷあっぷしていますし、領民にとっても死活問題です」


 フレスは大きく息を吐いた。ネルカはといえば、そんな話をしながらも荷物を降ろして、マントを脱ぎだしていた。白く細い首筋が見えている。有翼種は空を飛ぶために線の細い体型をしたものが多い。ネルカもその例に漏れないようだ。

 そっと視線をそらしたところに、店員が戻ってきた。酒を持っている。


「どうぞ、ローデンドライとパームミードです」

「ありがとう」


 運ばれてきた酒をとり、ネルカはペッパーを二振りする。彼女の注文したローデンドライは蒸留酒で、ワインを蒸留した上に樽で寝かせたものだ。含まれる酒精は火をつけると燃え上がるほどなのに、そこにさらにペッパーを入れている。

 フレスが手に持っているパームミードは特定の柑橘類の蜜だけで作らせた蜂蜜を発酵させたものである。酒としては甘く、酒精も弱い。だというのにチェイサーをつけている始末であった。ネルカは運ばれてきたチェイサーをじっと見つめて、ニッコリ笑っていた。その思惑はよくわからないが、フレスは気にしないでグラスを掲げた。


「乾杯しましょう。良き出会いになることを祈って」


 応じて、ネルカもグラスを上げた。


「いいでしょう、まあ、軽く」


 チン、とグラスを軽く当てて彼女はグッと酒をあおった。フレスは今度こそ目を見張った。

 その酒はどう考えても、そんな風に飲むようなものではない!

 ネルカはやや小柄な上に細い。強い酒を飲めば、それだけ体に回りやすいはずだ。にもかかわらず、一息で豪快に飲んでしまった。とはいえ、自分の護衛であるリッシュもルシアン卿からもらった高級酒を一気に飲んでいたのであまり言えなかった。もちろんフレスにはこんな真似はできるわけもない。

 もしかするとルシアン卿の前で酒を一気に飲んだことを、ネルカは知っているのだろうか。あのときはしばらく気分が悪くなってしまった。もうあのようなことは二度としないと決めている。

 ミードを一口飲んでから、さらに水を飲む。

 深く息を吐いて、ネルカが楽しそうにグラスを指さした。


「これですよ、これ。やはり酒を飲むなら昼間からですね。そう思いませんか」

「同意しかねます」

「あまり嗜まれないんですか? 閣下なら同意してくれるのですか」


 昼間から飲む酒がうまい、ということには同意する。しかし、「酒を飲むなら昼間から」ということには同意したくない。

 フレスはそう思ってはいたが主張はしなかった。軽く首を振って、何か話題を振ろうとする。だが、その前にネルカがどうでもいい話題を振ってくる。


「ところで、フレス殿はポプリ卿とご結婚なさるんですか?」

「その話はたびたびされるのですが、そのつもりはありません。ポプリ様はまだお若い。それに、私のような者とはご身分が違いすぎます」

「そうはいっても、皆そのように期待しているでしょう。ザメルというお人も、それを期して引退なさったのではありませんかね」

「いえ、そうは思えませんが」


 ザメルがそのようなことを考えていたとは、とても思えない。ただ突発的に思いついて、「自分の役目は終わった、あとは任せよう」といっただけの意図しかなかったはずだ。


「そうですか? 人の親なら娘の幸せを願うのが普通ですよ。それに、お嫁さんは若い方が嬉しいでしょう? 男性ならそういうものでは?」

「わからないでもない理屈ですが、おそらくそれには限度があります。ポプリ様には、私などよりも年の近い方がいいでしょう」


 ネルカの軽口を受け流す。おそらく、彼女の言葉は意図的な挑発だ。

 そう思っていたのだが、時間が経つと徐々に彼女の口調は荒くなり、態度もずいぶん砕けたものになってきていた。それでいて肝心のフレスがしたい話が進んでいない。話題が避けられている。


「私にだって浮いた話のひとつくらいはあってもいいと思うんですがね。やっぱり翼が気持ち悪いんでしょうか? 小さいから、子供にしか見えないんでしょうかね?」

「残念ながら、恋愛事情は私にはよくわからないですね。有翼種の方の特有の事情というのも、あまり聞き及ばないので」

「そうですか? フレス殿はどうですか? 翼のある女はいやですか」

「今は女性とお付き合いをする時間がとれません」


 できるだけ受け流したいのだが、ネルカは徐々に、こちらへにじり寄ってきている。彼女の首筋のにおいが届く。

 何の香水だかわからないが、なにやらいいにおいがする。


「ネルカ殿、こちらの食事はどうですか?」

「食べ物の話ですか? もう少し大人の話に付き合ってくれてもいいのではないですか」


 困った。なんとか話を仕切りなおしたい、と思ったそのとき。聞きなれた声が降ってきた。


「何してるんですか? 軍師殿」


 振り返ってみると、リッシュが立っていた。不思議そうにこちらを見下ろしている。


「いや……少し話が盛り上がりすぎた」

「この人は誰なんですか? ずいぶん楽しそうですが」


 リッシュが言うのも無理はない。ネルカは何杯も酒を飲んですっかりいい調子になっている。真偽不明の愚痴をべらべら話しながら、徐々にフレスに詰め寄ってきていたところだったのだ。

 そんな醜態をさらしていたことをまるで気にした様子もなく、彼女は翼で器用に酒を持ちながら、明るくリッシュに声をかけた。


「あなたが噂の護衛さんで? 我が軍の門を壊した? 思ったよりかわいいですね!」

「か、かわいい……?」


 ネルカの率直な言葉にリッシュは戸惑っている。


「私はルシアン閣下の秘書みたいな、まあ、ネルカって呼んでください」

「ルシアン卿の? ちょっと軍師殿、いつの間にこんな小さな子をナンパしたんですか?」


 ネルカは小柄だし、有翼種特有の華奢さがある。小さな子と言われても無理のない部分があった。

 フレスは弁解したかったが、うまく言葉が思いつかない。


「い、いや。確かに声をかけたのは私だがそういうつもりではなかった」

「ひどい人ですよね、こういうことをいうんですよ、女性に声をかけておいて」


 ふふ、とネルカが笑う。だがリッシュは笑っていない。寄ってきていたネルカを強引に左手で引きはがした。


「まぁ、ふざけるのはそこまでにしてください。あなた、酔ってないですよね。私は護衛なんですから、怪しい者を軍師殿には近づけさせません」

「酔ってない? これは酒ですよ。飲んでみますか?」

「仕事中です。後でいただきましょうか」


 リッシュはそう言って、さらに剣に手をかけた。しばらくそのまま、ネルカの目を見つめる。

 この迫力にはさすがのネルカも引き下がった。


「酔いも覚めますね。怖い護衛をお連れでいらっしゃる」


 そう言いながら姿勢をただして口元を拭き、マントを着込む。首筋も肩もかくして、商人らしい装いに戻った。


「しかしまあ、こんなくらいでは動じませんかね。やっぱり私じゃ華奢すぎますか、それとも軍師殿の身持ちが硬すぎるのでしょうか」

「色仕掛けが通じないのは当たり前だ。この方は我が軍の生命線だぞ。女の肌が見えたくらいでどうなるものか」


 リッシュはなぜか自慢げに胸を張った。

 フレスは目を閉じて唸る。本質的に彼は女が苦手だった。特に色気を使ってくる相手は。

 いわゆるハニートラップ、色仕掛けの類があまりにも苦手だった。フレスはこれまでの戦いでそうした攻撃を受けることは幸いにもなかったが、味方からは一時期その手で色々と要請があって閉口したものだ。

 かつてシャコナという女が得意で、彼女が戦死するまでの間は「何か軍師殿におねだりするときはシャコナに頼む」ということが兵士たちの間やザメルにまで共有されていたフシもある。もちろん譲れないところは頑として対応していたが、とにかくこれ以上誘惑されたくないということで待遇を甘くしてしまったこともないとはいえない。

 そのことをリッシュも知っているはずだが、なぜか彼女の中ではフレスは清廉潔白、硬派で女の誘いなど目にもくれない、ということになっているようだった。


「そんなに頑なですか? 彼も男性ですよ、女の誘惑にびくともしないということはないのでは?」

「なに、我々は裸の付き合いをしたこともある。その時も全く劣情など見せなかった。軍師殿は生理的欲求など理性で断ち切っておられる」


 これをうけて「そうなの?」というネルカの純粋な疑問の目がこちらを観察してくる。フレスは必死に鉄面皮を装って、目の前に残されているミードに口をつけた。

 リッシュが言っている裸の付き合いというのは、もちろん閨事ではなくただの温泉での湯治やら、行軍途中の行水のことを言っている。確かにそうした場では、性別など気にしていられなかった。女性比率の高いザメル軍であってもその例にもれず、みんなが我先にと湯や水を使い、何も気にせず服を脱ぎ捨てて飛び込む者すらあった。何よりまず不快な汚れを落としたいし、気持ちよくさっぱりしたいのだ。

 当時からフレスの護衛はリッシュが勤めていたため、そうした場で彼女の裸体は何度も不可抗力的に目に入っているのだが、気にしている余裕もなかった。そしてそんなことが続くうちにいつの間にか彼女の体には慣れきってしまい、今さらどうともならない。ザメルのいる温泉地でも当たり前のように「護衛だから」といってリッシュがフレスのいる湯に入りに来たことまであるが、全く色気のある話にはならず、彼女は湯の中で酒まで飲む始末であったから、誘惑されるとかいう以前の問題だ。正直に言って、大柄な体格に立派な筋肉があって、頼もしいという以上の感情がでない。


「それはあなたが女性として見られていないだけでは?」

「そ、そんなことはない!」


 リッシュは否定しているが、フレスは頷きたかった。リッシュは護衛だが、女性である前に戦友であり、リッシュなのだった。

 しかしこんな話をいつまでもしていても、何にもならない。フレスは切り出した。


「ネルカ殿。いま見られた通り、我が領の塩の値段は憂うべき段階です。我々は明日にも行商人たちと交渉するつもりなのですが、そこで少し協力してはもらえませんか?」

「それもやぶさかではないのですが、協力したら何かしてくれますかね? 私たち個人の貸し借りは無理ですよ」


 半ば何を言われるのか予期していたように、ネルカは答える。翼の中から、小さな酒瓶を取り出してだ。

 どうやったのかはわからないが、酒を飲んでいたのではなくうまくそこに注ぎこんでいたらしい。フレスは驚きながらも、さも知っていたような超然としたふりをして、頷いた。


「当然でしょうね。そちらとしては、塩の輸出高にかかわるものですから。とはいえ、差し出せるものがあまりないですね。こちらが貧しいのは承知でしょう?」

「もちろん。しかし、タダというわけにはいきませんね。私が閣下から怒られてしまいます」


 リッシュが少し心配そうな目で見下ろしてくる。今のポプリ領では全ての物資が貴重であり、出せるものはない。ネルカもそれをわかっているのだ。

 出せるものなどあるわけがない、どうするのか。という目をネルカが投げかけてくるが、フレスは平然と言葉を返した。


「将来的なお約束で申し訳ないですが、塩の関税を引き下げます」

「それは魅力的ですが……、今でもたくさん輸出しているので嬉しくはありますが、なにもないよりはマシ程度ですよ」

「でしょうね。ですから、こちらからも塩を輸出します。うまくいけばですが」

「それではあべこべですよ。塩が足らないのに輸出できるわけないでしょう。それに、高く買って安く売っては仕方がない」


 といってから、ネルカは「あっ」という顔をした。それから少し考えて、「むう」と唸った。


「ははあ、フレス殿。あなたはなかなか悪いことを考えていますね」

「いえ、皆が損をしないように考えた結果です。輸出できそうですか?」

「まあ確かに、あなたの考えていることがうまくいけば、需要はあるでしょう。こちらは裕福ですからね、食にこだわる余裕もある」

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