05新人教育
数日後、ビスカイは無理を押して訓練場に現れた。顔色は悪く、立っているのもやっとという様子。
「ビスカイ。どうしたその顔は!」
部下である騎士が、慌ててビスカイに駆け寄った。
「大丈夫だ。少し、休めば……」
ビスカイは言い残してからその場に倒れ込む。訓練場は一時騒然となった。光景を冷静な目で見ているこちら。
「シャーリン様!領主様が倒れられました!薬師のリーネリーナ様も、もう手の施しようがないと……」
部下が、血相を変えてシャーリンに報告に来た。
「そう。残念ね」
頷いてみる。言葉は他人事のように冷淡で。部下はそのあまりの冷たさに言葉を失う。
「シャーリン様……本当に、よ、よろしいのですか?このままでは、領主様が……」
部下は表情を窺うように言う。
「彼の命は彼の行動の結果。私には関係ないことなの」
きっぱりと言い放つ心にはビスカイへの同情の余地は微塵もない。その日の夜、ビスカイは高熱を出し、意識不明の状態に陥った。
リーネリーナは付きっきりで看病していたが、容態は一向に好転せず、領地内は、領主の危機に動揺が広がった。夜遅くまで訓練場で馬たちの世話をして月明かりの下、疾風が静かに傍らに立つ。
「疾風。あなたは私が過去に何を経験したか、知っているわね」
疾風のたてがみを撫でながら呟いた。
「ヒヒン……」
疾風は言葉に応えるように鳴いた。
「私は彼を許さない。決して、許さない。彼の苦しみは私には関係ない。彼が、私の心をどれだけ踏みにじったか。それを思えば。彼がどんなに苦しもうと何の感情も湧かない。愛する人を愛して愛する人が私を蔑ろにした。それのどこに、私の悪いところがあったって言うの?」
目は冷たく澄んでいた。心の中にはビスカイへの憎しみや怒りではなく、許さないという鋼のような決意だけしかない。
過去の悲しみから自分自身を守るための、最後の砦。数日後、容態は奇跡的に回復に向かっていた。リーネリーナの献身的な看護と、領地内の薬師たちの協力が実を結んだのだという。
「シャーリン様、領主様が意識を取り戻されました!」
部下が喜び勇んでシャーリンに報告に来た。
「そう。良かったわね」
淡々と答えた反応に部下は戸惑いの表情を浮かべる。
「あの……シャーリン様は、お見舞いに行かれないのですか?」
部下は恐る恐る尋ねた。
「行く必要がない。私は私の仕事をするだけ。もういい?」
毅然とした態度で言い切った。病状が回復しても裏切りという事実が消えるわけではないと、はっきりと認識しているのだから。屋敷には一度も足を踏み入れなかった。
馬の育成と、騎馬隊の訓練に没頭する傍らには、常に疾風がいてくれる。領地の復興は、力によって着実に進んでいた。交易路は安全になり、作物の収穫量も回復に向かっている。
民の顔には次第に笑顔が戻り始めていた。決して、過去の悲しみに囚われることはない。ビスカイを許さないだけ。それは自分自身の心を裏切らないための、確固たる気持ち。
そんなある日、王都の国王からの伝令を受け取る。
「シャーリン様、聖なる蹄の守護者としての功績が認められ、王都に戻ってもらい、さらに重要な職務に就いていただきたいとのことでございます」
頷いた。辺境の地で自分の役割を果たしたのだから、お役御免。もう、存在に縛られる必要はなかった。
「分かった。すぐに準備をしましょう」
清々しい表情で答えた目は、過去ではなく、常に未来を見据えている。キャリアは大切。その日の夕方らビスカイに別れを告げに行った。訓練場に、まだ病み上がりなのに立っている。
「シャーリン、王都に戻るのか」
声はどこか寂しそうで。
「ええ。この地の復興は順調に進んでいる。あとは、あなたが責任を持って最後までやり遂げて」
言葉は突き放すような響きを持っていた。
「分かっている。君には、感謝しかない。本当にありがとう」
ビスカイは深々と頭を下げた。シャーリンが自分を許していないことを理解していたから、そうする以外ない。それでも、彼女がこの地を救ってくれたことへの感謝の気持ちは、偽りないもの。
「感謝は必要ない。私は、私の仕事をしただけ。過去は、私にとってはもう関係ない」
言い残し、疾風に跨った。
「さようなら、ビスカイ」
振り返ることなく、疾風を走らせた。その背中には、一切の迷いも、後悔もない。ビスカイは立ち尽くし、姿が見えなくなるまで見送る目には、妻への後悔と彼女の強さへの畏敬の念が宿っていた。
その後は王都に戻り、より多忙な日々を送っていた。王国の騎馬隊は彼女の指導のもとさらに精鋭化し、自身の存在は他国にも知れ渡るほどに。聖なる蹄の守護者として不動のものとしていた時には、王都の訓練場で新しい騎士の訓練を監督する。
「そこのあなた!馬との呼吸が合っていません!もっと馬の動きを感じて!」
鋭い声が響く。
新しく配属された騎士の一人、指示に必死で食らいついていた。




