今までで一番の土産だ
アンセルモ先生は、白い顎ひげを一度撫でてから、両親のほうへ向き直った。
「若様は、暖かい日には庭をお歩きになってよろしい。天気のよい日には、馬車で外へお出になってもよろしい。暖炉を一日じゅう焚いて、窓を閉めきったお部屋のほうが、煙がこもって、よほど胸に悪うございます。私はずっと前から、そう申し上げてまいりました」
母が、先生を見た。何か言い返そうとして、唇だけが動いた。
「五年になります、奥様。窓を開けてくださいとお願いして」
先生の声は、怒っていなかった。ただ、静かで、ひどく疲れていた。
「それから、もう一つ。若様の胸は弱うございますが、命を縮める病ではございません。奥方をお迎えになることも、お子をお持ちになることもできるお体です」
先生は、兄の肩に手を置いた。
「看取られる支度をなさるお方では、ございません」
客間の空気が、どこかで止まった。
父の手が、椅子の背を探すように動いた。母は、兄の袖をつかんだまま、先生の顔を見ていた。初めて聞く言葉を、どう受け取ればいいのか分からない顔だった。
(奥方を、お迎えに)
私も、考えたことがなかった。兄が誰かと結婚する日のことを。兄の部屋の外に、兄の一生があることを。両親が考えていたのは、兄の一生の終わりのことばかりで、私も、いつのまにか同じ方向を向かされていたのだ。
「それから、お嬢様が病弱だというお話ですが」
先生の目が、ほんの一瞬だけ私のほうへ来た。
「私はこちらに長く通っておりますが、お嬢様を診たことは一度もございません。風邪ひとつ召さない方ですから」
閣下が顔をそむけて、こほん、と喉を鳴らした。喉を鳴らしただけにしては、背中が小刻みに震えていた。
* * *
兄は、戸口の枠に手をついたまま、父と母を順に見た。
「僕は、妹に看取られるために生きているんじゃありません」
客間が、しんとした。
兄はゆっくり息を吸った。肩の膝掛けが、少しずり落ちた。
「父上、母上。僕は今まで、イネスを外へ出すための頼みばかりしてきました。市の土産が欲しい、ネーベの毛が欲しい、閣下に会ってみたい。全部、本当に欲しかったけれど、全部、イネスの外出を通すための頼みでした」
兄は、少し笑った。
「僕の一生のことで頼むのは、これが最初です」
兄は戸口から手を離して、自分の足で、まっすぐに立った。
「イネスを、閣下のところへ行かせてください」
兄が頼んだことを、両親は断れない。
八つの春の市の日から、私はそれを、いつも兄の背中の後ろから見てきた。兄が頼み、両親が断れず、私が出かける。今、兄は、その同じ頼み方で、私をこの家から出そうとしていた。
父は、なかなか口を開かなかった。
窓の外を、荷車が一台通っていった。その車輪の音が遠ざかるまで、誰も動かなかった。父の目が、閣下の指に挟まれた自分の字の便箋へ行き、それから戸口の兄へ行った。椅子の背に置いた父の手に力がこもり、そのぶん、肩が下がっていった。
母は、兄の膝掛けの端をつかんだまま、唇を結んでいた。結んでいるしかなかったのだろう。兄が、自分自身の一生のために何かを欲しがるのを、母は一度も見たことがなかったのだから。
とうとう父が、閣下に顔を向けた。
「……閣下。娘を訪ねることと、申し込むことを、お許しします」
「感謝する」
閣下は短く言うと、客間の真ん中から、私の前まで歩いてきた。
椅子から立とうとしたけれど、膝に力が入らなかった。閣下はかまわず、私の前に片膝をついた。目の高さが、同じになった。仔馬を待ったときの私と、同じ高さだった。
「イネス。私と結婚してほしい」
灰青の目が、まっすぐにこちらを見ていた。
「兄上の分ではなく、君の返事を聞きたい」
兄のためではない返事というものを、私は、これまで一度もしたことがなかった。
何を着るか、どこへ行くか、何を持って帰るか。私が決めてきたことは、全部、兄のためだった。私の分の返事というものが、私の中のどこにあるのか、すぐには見つからなかった。
少し考えた。それから、見つけた。
「お受けします。私の分として」
閣下の目尻に、また細いしわが寄った。
戸口の兄が、枠に背中をあずけて、天井を見上げた。
「今までで一番の土産だ」
* * *
その声が、終わりのほうで、かすれた。
兄の膝が、かくりと折れかけた。先生が後ろから脇を支え、閣下が立ち上がって、もう片方の腕を取った。母が悲鳴のような声を上げかけて、自分の口を押さえた。
「大丈夫です、母上。脚が、驚いただけです」
兄は、閣下の腕につかまったまま笑った。顔は真っ白なのに、目は、蹄鉄を見た日と同じに光っていた。
「下りは一人で来ましたけど、上りは、さすがに手を借ります。閣下、お願いしても」
「いくらでも」
閣下と先生に両側から支えられて、兄は階段を上っていった。一段ごとに、兄が何か言い、閣下が短く答えるのが聞こえた。馬の名前だった。四代前の、何とかいう牝馬の名前。
客間には、父と母と、私とピラールが残った。
父は椅子に座りこんで、両手で顔を覆っていた。母は、床に落ちた扇を拾おうともせずに、空いた戸口を見ていた。
私は、手袋の泥の染みを見下ろした。それから、ゆっくり外した。




