二年ぶりの階段【マテオ視点】
この家の音なら、僕は全部聞き分けられる。
父の靴は重くて、踵から下ろす。母の衣ずれは速くて、扉の前で一度止まる。ピラールは小刻みで、階段の三段目を必ず踏み鳴らす。イネスの足音は、軽いくせに大股だ。二年、この部屋の寝台の上で、僕は家じゅうの音を聞いて暮らしてきた。
だから、その日の昼すぎに門の前で止まった車輪の音が、うちの馬車でないのは、聞いた瞬間に分かった。輪が大きくて、音が低い。
「若様、脈を数えておりますので、お静かに」
アンセルモ先生が、僕の手首を指で押さえたまま言った。先生は週に一度、黒い鞄を提げてやってきて、脈を取り、胸の音を聞き、窓を見て溜め息をつく。
「先生、窓の外を見てもいいですか」
「脈を取り終えてからになさいまし」
取り終えるのを待たずに、僕は首を伸ばした。閉めきった硝子の向こうに、門が見える。
黒塗りの立派な馬車の扉に、紋が描いてあった。蹄鉄を囲む麦の穂。リオセコ公爵家の紋だ。血統の本の扉に、あの紋は何度も出てくる。
降りてきたのは、ピラールと、イネスと、背の高い男だった。
僕は、思わず笑いそうになった。
(あいつ、本当に持って帰ってきた)
* * *
扉の開く音。父と母の足音が玄関で止まって、それきり、広間がしんとした。それからイネスの声がした。言葉までは聞こえない。けれど、その節回しは、小さいころから聞いてきた。お土産を差し出すときの、イネスの声だ。
足音が客間へ移った。客間の扉は、閉まる音がしなかった。
僕は膝掛けを肩に引き寄せて、寝台から足を下ろした。
「若様」
「廊下までです。客間の声が聞きたい」
先生は止めなかった。黙って、僕の肘の下に手を添えた。
部屋の扉を開け、廊下を歩いた。二年ぶりの廊下は、記憶より長かった。突き当たりの踊り場まで行くと、手すりの向こうに玄関の広間が見下ろせる。客間の扉は開いていて、声が上がってきた。
――娘は病弱ゆえ、人に会わせられない、と。
知らない男の声だった。それから、父の、床に落ちるような声。
僕は手すりを握った。
あの手紙は、僕の部屋で書かれた。御前馬術の翌日の晩、父が封書を読み上げ、母が「病弱ゆえ、でいいでしょう。いつもどおりに」と言い、父がその場で返事を書いた。僕は寝たふりをしていた。
いつもどおり、というのは、前にも書いたということだ。
最初は、エスコバル子爵家から、次男との縁談だった。次は近衛のサルセド卿が、イネスを訪ねる許しを求めてきた。それから、メンドーサ伯爵家の三男。どれも、両親は僕の部屋で手紙を開けて、僕の部屋で返事を書いた。娘は病弱ゆえ。僕が眠っているか、聞いていても何もできないと思っていたのだろう。
一度だけ、父に言ったことがある。イネスに知らせてください、と。
――お前の体に障る。気にするな。
それで終わった。
イネスには言えなかった。言えば、イネスは自分が断られたことを知って苦しむだけで、父が同意しなければ何も変わらない。それなら知らないほうがいい。そう自分に言い聞かせて、僕は代わりに、土産を頼んだ。市の飴、川原の石、ネーベの毛。頼むたびに、イネスは外へ出られた。
でも本当は、分かっていた。僕が頼まなければ、イネスはどこへも行けない。イネスを外へ出しているのは僕の名前で、イネスを家に縛っているのも、僕の名前だった。
――イネスは、嫁がせません。あれは丈夫なのですから、一生、マテオのそばに置きます。
父の声だった。
――あの子だけ幸せになるなんて、マテオが可哀想でしょう。
母の声だった。
(また、僕の名前で)
手すりを握る指に、力が入った。
「若様。お下りになりますか」
先生が、僕の顔を見ずに聞いた。
「肩をお貸ししましょうか」
「いえ。一人で」
* * *
一段目は、思ったより低かった。
膝掛けを肩にかけ直し、右手で手すりをつかんで、左足を下ろす。右足を揃える。息を吸う。次の段。広間の床の色が、こんな飴色だったことを、僕は忘れていた。
階段の半ばで、客間から男の声が上がってきた。
――丈夫な馬ほど、遠くへ走らせる。丈夫だからといって、厩に一生つないでおく者はいない。
いい声だ、と思った。馬の話をする人の声だった。
手すりが鳴った。息が浅くなる。先生が、すぐ上の段から、黙ってついてくる。
客間で、何かが床に落ちる音がした。
「マテオ!」
母が客間から飛び出してきて、階段の下で両手を広げた。
「寝ていなさい! 発作が起きたら――」
「下りてきただけですよ、母上」
最後の一段を下りて、息を整えた。客間の戸口まで歩いて、枠に手をついた。父と母が両側から腕を取ろうとするのを、僕は首を振って断った。
客間の真ん中に、見上げるような背丈の男の人がいた。日に焼けて、くすんだ金の髪を短くしている。版画の中のネーベに乗っている人とは違うけれど、この人がネーベの首を拭いているところは、イネスが何度も話してくれた。
「リオセコ公爵閣下ですね。マテオ・ベラルデです。蹄鉄を、ありがとうございました」
「歩いて大丈夫なのか」
「たぶん。妹の土産の礼は、自分の足で言いたかったので」
閣下の目尻に、しわが寄った。
僕は、父のほうへ向き直った。
「父上。今ので、四つ目ですね」
父の顔色が変わった。
「エスコバル子爵家の次男。近衛のサルセド卿。去年の秋の、メンドーサ伯爵家の三男。三つとも、娘は病弱ゆえ、でお断りになった。父上と母上は、僕の部屋で手紙を読んで、僕の部屋で返事を書いていましたね。僕に聞こえないと思っていたんでしょう」
椅子の上で、イネスが顔を上げた。
知らなかった顔だった。それから、何かに気づいた顔になった。僕が知っていたことに。知っていて、蹄鉄を壁に掛けさせ、ネーベの跳び方を何度も話させたことに。
ごめん、と言いたかった。それは、あとで言う。
「マテオ、それは、お前のために」
「僕を理由に、イネスを病人にしたんですか」
父は答えなかった。
「マテオ、体に障るわ」
母が僕の袖をつかんだとき、戸口の後ろで、黒い鞄が床に置かれる音がした。アンセルモ先生が、一歩前へ出た。
「伯爵、奥様。若様のお体のことで、一つ申し上げます」




