お兄様へのお土産です
帰りは、公爵家の馬車に乗せていただいた。うちの馬車は、空のまま後ろからついてくる。
ピラールは向かいの席で、背筋を棒のように伸ばして座っていた。閣下は私の斜め向かいで、窓の外を流れる王都の屋根を眺めている。
「兄上の部屋は、どこにある」
窓の外を見たまま、閣下が聞いた。
「二階の、南の角です。通りに面していて、窓から門が見えます」
「窓は開けているのか」
「いいえ。一年じゅう閉めております。冷えると、咳が出ますので」
閣下は返事をしなかった。ただ、眉のあいだに、短い線が一本刻まれた。
閣下がまた窓の外へ顔を向けたとき、ピラールがそっと身を乗り出して、私の耳に口を寄せた。
「お嬢様。棚の十四と、壁の蹄鉄と、それから、こちら。仔馬のお名前は形がございませんから、勘定に入れません」
ピラールは、閣下の短く刈った後ろ髪を、顎の先で示した。
「十六個目が、一番重うございますね」
私は笑いそうになって、手袋で口を押さえた。泥の染みのある、あの手袋だった。
* * *
屋敷の門の前に、見覚えのある馬車が停まっていた。兄を小さいころから診てくださっているアンセルモ先生の、黒塗りの小さな馬車だ。そういえば今日は、先生が週に一度いらっしゃる日だった。
閣下が、その馬車に目をやった。
「あれは」
「兄の主治医の先生です。週に一度、兄を診にいらっしゃるのです」
閣下は、短くうなずいただけだった。
呼び鈴を鳴らす前に、扉が内側から開いた。父が立っていて、その肩の後ろに母の顔があった。門の前に聞き慣れない車輪の音がしたので、二人して下りてきたのだろう。
父と母の目が、私を通り越して、私の後ろの背の高い人に止まった。そこから先、二人とも、瞬きをするのも忘れたようだった。
父の口が、ゆっくり開いた。母の手の扇が、半分開いたところで止まった。
「ただいま戻りました」
私は帽子を取って、膝を折った。
「お兄様へのお土産です」
* * *
客間に通された閣下は、父が勧めた椅子には掛けなかった。立ったまま、乗馬上着の胸の内側に指を入れて、四つに畳んだ紙を抜き出した。
私にも見覚えのある字だった。父の字だ。
「伯爵。いただいた返事だ。娘は病弱ゆえ、人に会わせられない、と」
「……左様で、ございます」
父の声は、床に落ちるように低かった。
「先週、御前馬術の厩で、外したばかりの、泥の付いたネーベの蹄鉄を受け取った令嬢がいた。手袋が汚れたのを気にもせず、男ばかりの厩の通路を、平気な顔で歩いて帰っていった」
閣下は、便箋を持ったまま続けた。
「今日は、王立牧場の丘を上から下まで歩いて、息ひとつ切らさなかった。逃げた仔馬を、追わずに連れ戻した。どちらも、そちらのイネス嬢だ」
閣下の灰青の目が、父をまっすぐに見た。
「どこが病弱なのか、伺いたい」
父の目が、便箋の上を滑って、絨毯へ落ちた。母は閉じた扇をきつく握って、閣下ではなく、私を見ていた。
なんてものを連れて帰ってきたの、と、その目が言っていた。
「閣下、それは……娘は、今日はたまたま具合がよかったのでございましょう。季節の変わり目には、熱を出しますので」
父の声は、自分でも信じていない人の声だった。
「熱を出した日に、医師を呼んだことは」
「それは……」
「門の前に、医師の馬車が停まっていた。あの医師に、伺ってもいいが」
父は口をつぐんだ。暖炉の上で、時計がこち、こちと時を刻んでいた。やがて父は、何かを諦めたように、息を吐いた。
「娘は……家に要るのです」
閣下は何も言わなかった。黙って、父の続きを待っていた。父は、その沈黙に押し出されるように顔を上げた。
「イネスは、嫁がせません。あれは丈夫なのですから、一生、マテオのそばに置きます。私どもが先に死んだら、誰がマテオを看るのです。閣下には、お分かりにならないでしょうが」
「あの子だけ幸せになるなんて、マテオが可哀想でしょう」
母が言った。扇の陰から、私ではなく閣下に向かって。
(一生)
その言葉が、私の中に落ちてきて、底に当たった。
兄の部屋で、母は私に「ずっと」と言った。あの晩、私はその「ずっと」の終わりを考えながら眠った。終わりは、なかったのだ。
八つの春から、ずっと。お土産を持って帰るたびに、私は外へ出られた気でいた。けれど、出かけられたのは、いつも兄の名前で通してもらったときだけだった。私の名前で通る外出は、一つもなかった。この先も、一つもないことになっていたのだ。
膝の上で、手袋の中の指を握った。何か言わなければと思った。何を言えばいいのか、まだ分からないまま、口を開きかけた。
先に、閣下が言った。
「分からないな」
静かな声だった。
「丈夫な馬ほど、遠くへ走らせる。丈夫だからといって、厩に一生つないでおく者はいない」
父の顔が、紙のように白くなった。
そのとき、階段が軋んだ。
開いたままの客間の扉の向こうに、玄関の広間と、二階へ上がる正面の階段がある。その階段を、誰かが、一段ずつ、ひどくゆっくり下りてくる。手すりの鳴る音と、浅くて速い息の音が、代わる代わる聞こえた。
この家で、あの階段をそんなふうに下りてくる人はいない。父の足音は重く、母の足音は速く、ピラールの足音は小刻みだ。
母が椅子を蹴るように立った。扇が膝から滑って、絨毯の上に転がった。
「マテオ!」




