追わなかったな
王都の東の門を出て、しばらく行ったところに、王立牧場のなだらかな丘があった。
丘の斜面を白い柵がいくつにも区切っていて、その中で若い馬たちが、のんびり首を下げている。馬車の扉が開くと、風に、刈った草と土の匂いがした。兄の部屋の、煙と薬草の匂いとは、まるで違う。
柵の前で、閣下が待っていた。厩の通路で見たのと同じ、焦げ茶の乗馬上着だった。後ろに、御前馬術の日に厩の奥から顔を出した白髪の年寄りを連れている。ベニートという名で、リオセコ家の厩をまとめる人だった。
(礼装より、こちらのほうがお似合いだわ)
口には出さずに、私は礼をした。
「兄上は」
「仔馬の名前を、お土産に頼まれました」
「では、本人を見てもらおう。その前に」
閣下は丘の上を指した。
「ついでに、ほかの馬も見ていくといい。兄上に話す種は、多いほうがいいだろう」
丘のてっぺんの放牧場から、順に見て回った。二つになる若駒の群れ、脚を痛めて休んでいる古い馬、御前馬術の稽古を始めたばかりの栗毛。閣下は一頭ごとに、名前と、どこを見ればいいかを短く言った。首の付き方。後ろ脚の踏みこみ。耳の向き。私は一つ残らず覚えようとして、指を折りながら歩いた。
柵伝いに斜面を上がり、下り、また上がる。何度目かで振り返ると、ピラールが柵につかまって、肩で息をしていた。
「お嬢様……少し、お待ちを……」
「ゆっくりでいいわ、ピラール」
私のほうは、息が上がるどころか、もっと見たかった。
最後に下りてきた丘のふもとの、小さな囲いに、母馬と仔馬がいた。
仔馬は、煤けたような濃い灰色だった。白くないので、少しがっかりしかけたのが顔に出たらしい。閣下が「いずれ、ネーベのように白くなる」と言った。体の割に脚ばかりがひょろりと長く、母馬のお腹の下を抜けては、向こう側からひょっこり顔を出している。
母馬を外へ出すつもりで、ベニートが戸を引いた。端綱を首に回そうとした、ほんの一瞬だった。開いた戸と柱の間を、灰色の小さな体がすり抜けていった。
「あっ」
母馬が甲高く鳴いて、首を振り上げた。ベニートは両手で端綱にぶら下がるようにして、母馬をなだめるだけで精一杯だった。仔馬はその間に、柵沿いの草の上を、跳ねるように遠ざかっていく。
私の足が、勝手に一歩出かけた。
その足を、止めた。
(追いかけたら、もっと逃げる。本当はお母さんの所へ帰りたいのは、あの子のほう。だから、こちらは待つ)
寝台の上の兄から、何度も聞かされた話だった。もっとも兄だって本で読んだだけで、仔馬を追ったことなんて一度もない。
私は裾を膝の裏へ折りこんで、開いた戸のすぐ横にしゃがみこんだ。目を仔馬と同じくらいの高さまで下げ、手は甲を上にして膝の前に出し、そのまま石になったつもりでいた。
柵の曲がり角まで行ったところで、仔馬の脚が止まった。くるりとこちらを向く。囲いの中から母馬がまた鳴いた。仔馬はしばらく首を振っていたけれど、やがて、来た道を戻りはじめた。少し進んでは立ち止まり、耳を動かして、また少し。とうとう私の目の前まで来て、手袋の甲に鼻を押しつけた。湿った鼻息が温かくて、甘い乳の匂いがした。
それから仔馬は、私の帽子のリボンの端を歯でつまんで、ちょっと引いた。満足したのか、ぷいと向きを変えて自分から戸をくぐり、母馬のお腹の下に頭を突っこんだ。ベニートが、そうっと戸を閉めた。
「……お嬢様、どこで覚えなさった」
振り向くと、少し離れた柵のそばで、閣下が声を立てて笑っていた。
「追わなかったな」
「兄の受け売りです」
閣下はまだ口元をゆるめたまま、囲いの柵に肘をのせた。
「名前は、まだない。兄上につけてもらおう。名付けを、土産にするといい」
「よろしいのですか。ネーベ号の仔に」
「構わない。そのつもりで、誰にも付けさせなかった」
仔馬が、母馬の乳を探して鼻先を突き上げている。閣下はそれを眺めながら言った。
「御前馬術の日、あなたは見物席ではなく、厩の通路にいた」
「父が、お知り合いの方と鹿のお話をしておりましたので」
「お披露目は、まだだと聞いた」
「十七の春も、十八の春も、十九の春も、兄の具合が悪かったのです。お披露目の付き添いは母の役目ですけれど、母は兄のそばを離れられませんから」
閣下は、柵の横木に目を落として、返事をしなかった。
「私は北の牧場に長くいて、王都の夜会にはほとんど出ていない。出ても馬の話しかしないので、令嬢方には評判が悪い」
「兄が聞いたら、羨ましがります。兄は、馬の話のできる相手がいなくて、困っておりますので」
閣下は、今度は笑わなかった。私の顔を、目を細めるようにして見て、それから声を低くした。
「話しておくことがある」
閣下の手が、柵の横木を軽く叩いた。
「御前馬術の翌日、伯爵に手紙を書いた。あなたを訪ねる許しと、いずれ結婚を申し込む許しを求める手紙だ。翌朝には、もう返事が来ていた。娘は病弱ゆえ、人に会わせられない。お申し出には沿えない、と」
喉の奥で、言葉が止まった。
(御前馬術の、翌日)
階段の上から見た、見知らぬ紋の封蝋。父が私のほうを見上げもせずに、兄の部屋へ上がっていった背中。その晩、膝掛けを替え終えたところで「もういいわ、イネス」と部屋を出されたこと。閉まった扉の向こうで、父が何かを読み上げていた声。
あの晩、扉の向こうで書かれていたのが、それだったのだ。
私のことを書いた手紙が、私の知らないうちに届いて、私の知らないうちに返事が出ていた。返事の中で、私は病人だった。
(お母様は、今朝、顔を上げなかった)
胸のあたりが、すっと冷たくなった。怒っているのだと、少しあとで気がついた。
「病弱な令嬢は、さっき、この丘を上から下まで歩いて、息ひとつ切らしていなかった」
閣下は、ひどく真面目な顔で言った。
「だから、伯爵にもう一度申し入れに行くつもりでいる。今度は手紙ではなく、自分で」
ふと、兄が頼んだお土産が、もう一つあったことを思い出した。
――冗談ですよ、母上。兄はそう言って、母の背中越しに片目をつぶった。けれど、兄が冗談にして引っこめる頼みほど、本当は一番欲しいものなのだ。十二年、兄の頼みでお土産を持って帰ってきた私には、それが分かる。
「閣下。一つ、お願いがございます」
「何だ」
「兄へのお土産に、うちまで来ていただけませんか」
閣下は私の顔を見直した。それから、目尻に、細いしわを寄せた。
「ちょうど、伯爵に断られに行くところだった。土産になろう」




