蹄鉄を提げた令嬢【アルバロ視点】
立ち方のいい娘だった。
膝に力みがなく、重心が低い。敷き藁の上でも足元を気にしない。厩の通路で裾を持ち上げて歩く令嬢を見たのは初めてだったが、私が最初に見たのは、顔より先に、その立ち方だった。馬を見る癖が、人にも出る。北の牧場で八年、そうやって馬を選んできた。
娘は通路の真ん中で裾を整え、私に、ネーベの世話係かと聞いた。
そうだと答えた。嘘ではない。ネーベの首を拭くのは、王都に戻ってからも、私が自分でしている。
抜けた毛を一本くれ、と娘は言った。
物をねだられることには、慣れている。主馬頭の家に生まれると、馬を一頭、仔を一頭、せめて種付けを一度と、頼みごとは向こうから列を作ってやってくる。だが、頼む者はたいてい、自分の厩のために頼む。
兄へのお土産です、と娘は言った。
胸の弱い兄がいて、部屋から出られない。兄の行けない場所へ行ったら、一つ持って帰ると決めている。ブラシに絡んだ毛で十分だ、と。
毛一本では釣り合わない、と思った。何と釣り合わないのかは、あの場では考えなかった。気がついたら、戸口の釘から今朝の蹄鉄を外していた。
娘は泥ごと、両手で受け取った。手袋が汚れたのを、一度も見なかった。それから蹄鉄の内側をのぞきこんで、釘穴を数え、ネーベの四代前の名を言った。
あれは、笑うしかなかった。うちの厩番のベニートでさえ、エルミタの名は帳面を見ないと出てこない。
* * *
「ベラルデ家のご令嬢は、病弱で臥せっておいでだと聞いていたが」
そう言ったのは、名を聞いて、思い出したからだ。
二年前の春、友人のホアキン・サルセドが、私の部屋で酒を飲みながらこぼしていた。復活祭の教会で、目の覚めるような頬の赤い娘を見かけた。ベラルデ伯爵の娘だと聞いて、訪問の許しを求める手紙を書いた。返事は、娘は病弱ゆえ、の一行だった。
――あんなに血色のいい病人がいるもんか、アルバロ。体よく断られたんだよ、俺は。
ホアキンはそう言って笑い、その週のうちには別の令嬢の話をしていた。私も、それきり忘れていた。
娘は、病弱なのは兄で、自分は丈夫なほうだと言った。風邪もほとんどひいたことがない、と。泥の付いた蹄鉄を提げたまま、首をかしげて。
嘘をついている顔ではなかった。あの娘は、自分が世間で病人にされていることを、知らなかったのだ。
娘が侍女と通路を引き返していくのを、私は見ていた。男ばかりの通路を、ネーベの泥の付いた蹄鉄を提げて、来たときと同じ歩幅で帰っていった。通路の口で、顔色の悪い紳士――あれが伯爵だろう――が待っていた。
「閣下」
入れ替わりに、通路の口から近衛の制服が来た。今日の警護に立っていたホアキンだった。
「今のが、ベラルデ家の病弱な令嬢ですか。泥の蹄鉄を提げて、ずいぶん元気な病人だ」
「見ていたのか」
「通路じゅうが見てましたよ。口笛を吹きかけたのは、俺の隊の若いのです。あとで叱っておきます」
ホアキンは楽しそうだった。二年前のことは、もう根に持っていないらしい。
「あの家は、何を隠している」
「さあ。兄上が寝たきりだという話は聞きます。それで娘まで病弱ということにしておけば、縁談はみな角を立てずに断れる。俺のほかにも、断られた男はいるそうですよ」
ネーベが鼻を鳴らして、私の背中を押した。着替えろ、と言われた気がした。
* * *
翌日、伯爵に手紙を書いた。
御前馬術の厩でご令嬢にお目にかかったこと。ご令嬢を訪ねる許しと、いずれ結婚を申し込む許しをいただきたいこと。主馬頭の家の手紙として、作法どおりに書いた。
返事は、翌朝早くに届いた。
娘は病弱ゆえ、人に会わせられない。お申し出には沿えない。
ホアキンが受け取ったのと、おそらく一字も違わない。
「旦那様。二通目を、お書きになりますか」
厩の帳場で、ベニートが聞いた。白髪の頭を掻きながら、手紙と私の顔を見比べている。あの日、通路で口を開けて固まっていた男だ。
「書かない」
「おや」
「同じ返事が来る」
伯爵にもう一度書いても、娘には届かない。娘は自分が病人にされていることも、私が手紙を書いたことも知らないまま、あの家にいる。
では、娘は、どうすれば外へ出てくるのか。
厩の通路で、娘はこう言った。兄の行けない場所へ行ったら、一つ持って帰ると決めている。
兄の欲しがる物のある場所へなら、あの娘は来る。
「ベニート。ネーベの仔は、今どうしている」
「母親の腹の下で、乳を探しておりますよ。名はまだでございます」
「名は、まだ付けないでおけ」
私は便箋を一枚取り、宛名を書いた。伯爵ではなく、その息子に。
ベラルデ伯爵令息マテオ殿、ならびに令妹イネス嬢。
王立牧場で、ネーベの仔を見ていかないか。招かれた本人が来られなければ、代わりに来るのが誰かは分かっている。
封をする前に、もう一枚、書きかけの手紙が目に入った。北の館の母に宛てたもので、縁談は自分で探す、と一行だけ書いてある。夜会に出ても馬の話しかしないと令嬢方に敬遠され、母に任せた縁談も、王都へ戻ってから一つも進んでいない。
その一行の上に線を引こうとして、やめた。
探す必要が、もうないかもしれない。
封蝋を垂らし、紋を押した。厩の外で、ネーベが、とん、と蹄を鳴らした。




