体が弱いということになっているのよ
「名乗ったのか」
父は、それだけ言った。
「公爵閣下に、蹄鉄をいただきましたので」
父の目が、私の手の蹄鉄に落ちた。口が開いて、何か言いかけて、そのまま閉じた。帰りの馬車のあいだじゅう、父は窓の外を向いたきり、ひと言も口をきかなかった。ピラールは私の隣で、泥の付いた手袋をそっと膝の上で裏返してくれた。
* * *
部屋に入って蹄鉄を差し出すと、兄は枕の山から背中を引きはがした。
「ネーベの……前の右!? イネス、僕は毛を一本って言ったんだよ」
「毛では土産にならない、と閣下が」
「閣下!?」
兄はそれきり黙って、蹄鉄を胸に抱えこんだ。泥が寝間着に付くのもかまわずに、すり減った縁を親指でなぞっている。しばらくして、窓際の棚に目をやった。木彫りの馬の隣に置くには、蹄鉄はどう見ても大きすぎた。
「ピラール、釘を打ってくれ。壁に掛ける。ネーベの版画の下がいい」
母が慌てて「マテオ、声を」と言いかけたほどの声だった。兄の大きな声なんて、いつ以来だろう。
ピラールが金槌を取りに行っているあいだ、私は跳び方の話をさせられた。立ち上がった白い体の前で、前脚はどんなふうに抱えこまれていたか。宙で止まっていたのは、息いくつ分か。下りてきたときの音は。陛下の手が上がったのは、蹄が地面に着く前だったか、着いてからか。
一度話し終えると、兄は「もう一度」と言った。二度目の途中で、兄は目を閉じた。三度目には、私が言うより先に、兄の唇が「とん」と動いた。
「見えた」
目をつぶったまま、兄は言った。
「イネスが行ってくれると、見える」
壁の版画の下で、釘を打つ音が響いた。
* * *
その晩、兄の部屋で膝掛けを替えていると、暖炉の前で母が言った。
「公爵閣下に物をねだったんですって? はしたない」
「名乗ったそうだ」
父が、暖炉のそばの椅子から短く付け足した。
膝掛けを畳んでいた母の手が、止まった。
「イネス。あなたは、体が弱いということになっているのよ」
(私が?)
膝掛けの端を持ったまま、私は母を見た。
「……どうしてですか」
「お披露目もしていない娘のことを、世間に何と言えばいいの。マテオのために夜会を見送りました、とでも言えというの?」
母は畳み終えた膝掛けを兄の足元へ置いて、私のほうは見ずに続けた。
「あなたは丈夫なんだから、ずっとマテオのそばにいてあげてね」
私は返事をしなかった。
(ずっと、というのは、いつまで?)
兄は、壁の蹄鉄から目を離さなかった。口は一度も開かなかった。ただ、膝掛けの上の拳が、骨の形が浮くほど白くなっていた。
* * *
自分の部屋に戻って、扉を閉めてから、私は帽子を寝台の上に投げた。
投げてから拾って、形を直した。帽子に罪はない。
(体が弱い、ということに、なっている)
なっている、というのは、誰かがそう決めたということだ。私の知らないところで、私の体のことが決まっていた。何年前からなのだろう。お披露目が延びるたびに、母は誰かに「イネスも、体が」と言っていたのだろうか。
病弱にされたことより、そちらのほうが腹立たしかった。私のことなのに、私だけが知らなかった。
鏡の中の私は、頬が赤くて、どう見ても丈夫そうな顔をしていた。母が「田舎の娘みたい」と言う顔だ。
(この顔で、どこが病弱なのかしら)
言い返せなかった言葉を三つほど鏡に向かって言ってから、寝た。
* * *
翌日の昼すぎ、階段の上から、玄関の広間で父が封書を受け取るのが見えた。従僕の差し出した盆の上の封書には、見たことのない紋の封蝋が押してあった。父はそれを手に取ると、私のほうを見上げもせずに、まっすぐ二階へ――兄の部屋へ上がっていった。
その晩、両親は兄の部屋で遅くまで話しこんでいた。私は膝掛けを替え終えたところで、「もういいわ、イネス」と母に言われて、先に部屋を出された。閉まった扉の向こうで、父の低い声が何か読み上げているのが聞こえたけれど、言葉までは、扉越しには届かなかった。
* * *
その週のうちの、ある朝、今度は兄の部屋で、封書が開けられた。
封蝋は、リオセコ公爵家の紋だった。上書きには、兄の名が先に、私の名が後に並んでいた。「ベラルデ伯爵令息マテオ殿、ならびに令妹イネス嬢」。
中身は、ネーベ号の仔を王立牧場まで見にこないか、というお招きだった。
兄が手紙を読み上げるあいだ、私は厩の通路のことを思い出していた。泥の蹄鉄と、噴き出した笑い声と、「あなたの分は、何を持って帰る」という問い。あのとき私は、何も答えられなかった。
「マテオが行けるわけがないでしょう」
母は封書を膝に置いて、兄の顔を見もせずに言った。
「じゃあ、イネスに行ってもらう」
兄は寝台の上から、壁の蹄鉄を見上げていた。
「土産は、仔馬の名前。それから、そうだな」
兄は少し首をかしげ、それから、口の端を片方だけ上げた。兄がふざけるときの顔だ。
「閣下に、一度会ってみたい」
「マテオ」
「冗談ですよ、母上。仔馬の名前でいいです」
父は眉間に深い皺を寄せていた。けれど、王家の馬を預かる主馬頭からのお招きを、伯爵家が断れるはずもなかった。
「ピラールを付けて行け。日暮れまでには帰れ」
出かける朝に兄の部屋をのぞくと、母は寝台の脇の小卓で、薬の瓶の順番を入れ替えていた。私が「行ってまいります」と言っても、顔を上げなかった。
兄だけが、母の背中越しに、片目をつぶってみせた。




