抜けた毛を一本、いただけませんか
王宮の馬場は、春の終わりの日差しを照り返して、白く光って見えた。
広い馬場の四方を見物席が囲み、家々の旗が風にはためいている。席に着くなり、父は隣の席の顔見知りと狩りの話を始めた。猟犬の血筋と、去年の秋の鹿の数の話で、私のほうは振り向きもしなかった。真後ろの席のピラールが、聞こえよがしに咳払いをした。
午前の組は、近衛の騎兵の隊列と、いくつかの家の若駒の披露だった。どれも見事だったけれど、兄が待っているのはそれではない。
午後になって、いよいよネーベ号の番が来た。
馬場の端の門から現れたとき、見物席のあちこちで息を呑む音がした。雪のような白さの牡馬だった。兄の部屋の壁に貼ってある版画は、何度も見て知っているつもりでいた。けれど本物は、紙の上のネーベ号より、ずっと大きかった。首が高く、蹄の音が重い。
乗り手が手綱をわずかに動かすと、ネーベ号は横へ滑るように歩き、それから後ろ脚だけで高く立ち上がった。
(前脚)
私は目を凝らした。立ち上がった白い体の前で、二本の前脚が、胸に抱きこむようにきれいに畳まれている。息を一つ吸うほどのあいだ、ネーベ号はそのまま宙に止まっていた。見物席がどよめいたときには、もう着地していた。どすん、というより、とん、という音だった。
玉座の陛下が片手を上げられた。今年の一番も、ネーベ号だった。
(お兄様に、見せたかった)
見せられないのなら、持って帰ればいい。私は席を立った。
「ピラール、行きましょう」
「お嬢様、旦那様にお断りしなくてよろしいんで?」
「鹿のお話の途中だもの」
ピラールは父の背中を一度見て、それから黙ってついてきた。
* * *
馬場の北の端に、今日出る馬たちの厩が並んでいる。その前の通路までなら、見物の客も入ってかまわないことになっている――これも兄から聞いた話だ。
入ってみると、そこは男の人ばかりだった。乗馬靴の若い紳士、杖をついた年配の紳士、どこかの家の厩番らしい男たち。敷き藁と馬の汗の匂いの中で、ドレスの裾を持ち上げて歩いているのは、私一人だった。若い紳士たちが、褪せたドレスの娘と年かさの侍女を、迷いこんだ子犬でも見るような顔で振り返った。
いちばん奥の厩の前に、白い馬と、男の人が一人いた。焦げ茶の乗馬上着の袖をまくって、布でネーベ号の首を拭いている。背が高い。顔も手も日に焼けていて、くすんだ金の髪を短く刈りこんでいる。拭き方が丁寧だった。首の汗を拭き取ると、布を裏返して、耳の後ろへ移る。
(厩の方ね)
私は通路の真ん中まで進んで、裾を整えた。
「失礼いたします。ネーベ号のお世話の方ですか」
男の人が振り向いた。灰色がかった青い目が、私の帽子から靴の先までを、馬の脚の具合でも見るように、さっと一度なぞった。
「そうだが」
「抜けた毛を一本、いただけませんか」
「……毛を?」
「兄へのお土産です」
私は手短に話した。兄の胸が弱くて、もう長いこと部屋の外へ出ていないこと。兄は馬に目がなくて、寝台の向かいの壁にネーベ号の版画を飾っていること。兄の行けない場所に私が行ったときは、何か一つ、兄に持って帰ると決めていること。
「たてがみでも、尾でも構いません。ブラシに絡んだ分で十分です。ネーベ号の毛だと分かれば、兄はそれで喜びますので」
男の人は、布を持つ手を止めたまま、私を見ていた。ネーベ号が鼻を鳴らして、男の人の肩を押した。
そのとき、厩の暗がりから、白髪頭の年寄りがひょいと顔をのぞかせた。
「閣下、そろそろお召し替えを。陛下の御前で、賞をお受けになるんですから」
閣下。
私は、ゆっくりと男の人を見上げた。
ネーベ号の持ち主は、リオセコ公爵家だ。あの家の当主は、昔から王家の馬をまとめて預かる主馬頭という役に就いている。二年前に先代が亡くなって、長く北の牧場にいた若い当主が王都へ戻ってきた――兄の話は、いつもそこまで続いた。何十回聞かされたか分からない。
(私、さっき「お世話の方」と言ったわね)
「……リオセコ公爵閣下で、いらっしゃいますか」
「アルバロ・リオセコだ。厩の者で、間違いではない」
閣下は戸口の柱へ手を伸ばし、釘から何かを外して、こちらへ差し出した。
蹄鉄だった。
「今朝、打ち替えた。前の右だ。毛では土産にならない」
両手で受け取ると、鉄は思ったより冷たかった。蹄の形に沿ってすり減ったその縁に、厩の土がまだべったり付いていて、よそ行きの手袋の指先が、見る間に茶色く染まった。
(お兄様の、蹄鉄)
兄が見たら、何と言うだろう。私は泥ごと蹄鉄を抱えなおして、内側をのぞきこんだ。
「釘穴が、八つ。前の蹄は、やはり大きいのですね。四代前のエルミタ号が蹄の大きな血統で、ネーベ号の大きな蹄はそちらの血だと、兄が申しておりました。それから、父方の祖母のブランカ号は北の高原の牧場の生まれで……」
最後まで言わせてもらえなかった。閣下が、こらえきれずに噴き出したのだ。
ネーベ号が耳をぴんと立てて首を上げた。白髪の厩番は戸口で口をぽかんと開けていて、通路にいた紳士たちまで、何が起きたのかとこちらを見た。
「すまない。うちの厩番より詳しい」
「兄の受け売りです」
「では兄上に伝えてくれ。ネーベの仔が、この冬の終わりに王立牧場で生まれた。牡で、父親と同じ芦毛だ。今は煤けたような色だが、年を追うごとに白くなる。ネーベは跳ぶのが本業だから、種付けは冬の終わりの何週かしかさせていない」
「伝えます。兄は、今夜は眠れないと思います」
「あなたは?」
「私、ですか」
「兄上の分は、それで足りるだろう。あなたの分は、何を持って帰る」
私は返事に詰まった。自分の分、というものを、考えたことがなかった。持って帰る物は、いつも兄の分だった。
「私は、ネーベ号の跳ぶところを、この目で見られましたので。それで十分です」
閣下は何も言わず、白い首に手のひらを当てたまま、私の顔から目を離さなかった。
それから、ふと真面目な顔になった。
「名を聞いていなかった」
父の声が、頭の中で「誰にも名乗るな」と言った。けれど、こんな物をいただいておいて名も言わずに帰るのは、どう考えても失礼だ。
「ベラルデ伯爵家の、イネスと申します」
閣下の眉が、ほんのわずかに動いた。
「ベラルデ家のご令嬢は、病弱で臥せっておいでだと聞いていたが」
(病弱? 私が?)
泥だらけの蹄鉄を持ったまま、私は首を傾けた。
「それは兄のことです。病弱なのは兄で、私は丈夫なほうです。風邪も、ほとんどひいたことがございません」
そばの紳士たちの視線が、私の顔から、泥の蹄鉄と、茶色くなった手袋へ移っていくのが分かった。誰かが口笛を鳴らしかけて、隣の人に脇腹を小突かれていた。
閣下は、私の手の中の蹄鉄と私の顔を交互に見て、もう一度、今度は短く笑った。
「そのようだな」
* * *
蹄鉄を提げて、ピラールと通路を引き返した。紳士たちが道を空けてくれた。ピラールは私の後ろで「お嬢様の手袋が」と小さく嘆いていたけれど、声は少し笑っていた。
通路の出口に、父が立っていた。
誰かに聞かされたのか、顔が真っ青だった。




