お兄様は外に出られないのに
この作品は、短編「「お兄様は外に出られないのに」と母が言うので、兄へのお土産に公爵閣下を連れて帰りました」をもとに、公爵閣下と兄の目も加えて書き直した連載版です。第1〜12話は短編の内容に加筆したもので、第13話から短編の先、北の牧場の夏へ進みます。短編を読んでくださった方も、はじめての方も、どうぞよろしくお願いします。
「お兄様は外に出られないのに。あなただけ楽しむつもり?」
母はそう言うと、私の指のあいだから見物席の札をすっと引き抜いた。
二階の廊下の、ちょうど兄の部屋の前だった。私は左手にだけ手袋をはめたところで、母は兄の寝台のそばから廊下へ出てきたばかりだった。母の右手には、兄の咳止めを量る銀の匙が、まだ握られたままになっている。
「楽しむのではありません、お母様」
私は帽子のつばに手をやって、角度を確かめてから答えた。
「兄へのお土産を、持って帰りに行くのです」
(半分は、本当のことだけれど)
もう半分のことは、言わないでおいた。王宮の馬場へ行けるのが、本当は楽しみでならないこと。昨夜は、なかなか寝つけなかったこと。それを口にしたら、札は二度と私の手に戻ってこない。
母が何か言いかけたとき、細く開いたままの扉の奥で、兄が声を上げた。
「母上、僕が頼んだんです。ネーベ号の抜けた毛を一本、イネスに持って帰ってもらう約束で」
母は扉を振り返り、手の中の札と私の顔を見比べた。長い溜め息が一つ。それから、札は私の手に戻ってきた。
「あなたは丈夫なんだから、帰ったらマテオの膝掛けを替えてちょうだい。日が暮れる前によ」
「はい、お母様」
母は踵を返して、また暖炉の部屋へ入っていった。扉の隙間から「マテオ、窓のそばは冷えるでしょう」という声がして、それから扉が閉まった。
ベラルデ伯爵家の跡を継ぐのは、兄のマテオだ。まだ小さかった冬に重い熱病をくぐり抜けたかわりに、胸を悪くした。二年前の冬には息ができなくなるほどの発作を起こして、それきり自分の部屋から一歩も出ていない。父と母の一日は、あの暖炉の火のそばで始まって、同じ火のそばで終わる。
私は、二十歳になった。この年まで社交界に出ていない伯爵令嬢は、王都にそう何人もいないと思う。
貴族の娘のお披露目は、十七の春に王宮の夜会で、と決まっている。私のお披露目も、そのつもりで支度が始まった。ところが春が近づくと、決まって兄が寝込んだ。熱の春があり、咳の春があり、夜更けに医師を呼びにやった春があった。母は毎回「マテオがこんな具合なのに、お母様に夜会へ行けと言うの」と言い、ドレスの仮縫いは次の年へ持ち越された。それが三度続いた。誕生日の晩餐も、前菜の皿が下げられる前に兄が咳き込みはじめて、そのままお開きになった。
母がよく口にする言葉は、だいたい決まっている。「お兄様は外に出られないのに」。それから、「あなたは丈夫なんだから」。
どちらも本当のことなので、私はいつも、返事を探しているうちに、母はもう次の話をしている。
* * *
出かける前に、兄の部屋をのぞいた。
扉を開けると、むっとする暖かさが顔に当たった。春の終わりだというのに、暖炉には火が入っていて、窓は閉めきってある。薪の煙の匂いと、薬草を煮た匂いが混じっていた。母は暖炉の前の椅子で、膝掛けの房をほどいては結び直している。
兄は寝台の上で、背中に枕をいくつも重ねて座っていた。私と同じ巻き毛だけれど、兄のほうが色が薄い。頬も、私よりずっと白い。
「行ってまいります、お兄様」
「毛を一本だぞ、イネス。たてがみでも尾でもいい。それから」
「跳ぶところを、覚えてくる」
「後ろ脚で立ったときに、前脚をどう畳んだか。そこが大事なんだ」
兄の目は、もう窓の外の馬場のほうを見ていた。窓から見えるのは表の通りと、うちの門だけなのに。
窓際には、兄のお土産の棚がある。
一番端に、木彫りの小さな馬。その隣に、復活祭のミサでもらった蝋燭の燃えさし。川原で拾った、白い縞の入った石。飴屋の赤い包み紙は、皺を伸ばして四角く畳んである。どれも私が外から持って帰った物で、十二年で十四個になった。棚に並んでいるのは、そのまま、私が家の外へ出られた回数だった。
始まりは、八つの春だった。
春の市の前の晩に兄が熱を出して、家族みんなで行くはずだった市は取りやめになった。「マテオが行けないなら、誰も行かないの」と母は決めた。私は泣かなかったけれど、泣きそうな顔はしていたのだと思う。熱で真っ赤な顔をした兄が、寝台から母の袖を引いた。
「イネスだけでも、行かせて。何か一つ、持って帰ってきて」
両親は、兄の頼みだけは断らない。
ピラールが私の手を引いて、市まで連れていってくれた。汗で湿った小遣いで買えたのは、手のひらに載るくらいの木彫りの馬だった。兄は熱の下がる日まで、それを枕元に置いて、指先で何度も撫でていた。
あの日から、決まりが一つできた。兄の行けない場所へ私が行ったら、そこで一つ、兄へのお土産を選んで帰る。兄が頼み、両親が断れず、私が出かける。十二年、そうやって外へ出てきた。
* * *
玄関の広間に下りると、父がもう外套を着て待っていた。昼の催しの付き添いは、たいてい父の役目だ。母は兄の部屋を空けない。
「イネス。今日は、誰にも名乗るな。人に紹介もしない」
「はい、お父様」
(このドレスのせいね)
私は自分の裾を見下ろした。若草色の昼のドレスは、仕立てたのがずいぶん前で、日に当たったところから色が抜けている。伯爵家の娘ですと人の前に出すには、たしかに少し気の引ける色だった。
ピラールが、私の後ろでわざとらしく咳払いをした。私の乳母だったピラールは、今は侍女で、口が悪い。
「お嬢様のお顔は、ドレスよりずっと上等でございますよ」
「ありがとう、ピラール。お父様には聞こえないようにね」
「聞こえるように申しました」
父は聞こえないふりをして、先に玄関を出ていった。
馬車に乗りこむとき、私は二階を見上げた。兄の部屋の窓は、今日も閉まったままだ。あの窓の内側から、兄はきっと、門を出ていく馬車の屋根を見ている。
(お兄様の行けない場所へ。今日は、王宮の馬場)
手袋の右手を、やっとはめた。馬車が動きだして、門の外の通りの音が、急に大きくなった。
お読みいただきありがとうございます。短編版をもとに、公爵閣下と兄の目も加えて書き直した連載版です。第13話から、短編の先へ進みます。ブックマークと、下の☆での評価で応援していただけると嬉しいです。




