九月の初めには
兄が母の手紙を私に見せたのは、その日の朝食の後だった。
北の館の居間は東に窓があって、朝のうちは光が床の半分まで入ってくる。兄はその光の中の椅子に座り、膝の上で便箋を折り直してから、私に差し出した。
「読んでいいの?」
「読んでほしいんだ」
母の字だった。王都の家の、兄の部屋の机で、何百通もの手紙を書いてきた字。どの行も、少しも崩れていない。
マテオへ
北はもう朝晩が冷えると聞きました。あなたの胸には、冷えが一番悪いのです。秋の冷えが来る前に、王都へ戻りなさい。
お部屋は毎朝暖めさせて、窓も閉めてあります。いつ戻っても、すぐに休めるようにしてあります。
イネスの披露は、あなたが戻ってから、と決めたのですから。
九月の初めには、イネスと一緒に、帰ってきなさい。
母より
読み終えて、私は三つ目の段落に目を戻した。
春、父が婚約の書面に署名したとき、披露は秋、兄が北から戻ってからにしようと決めた。兄の晴れ姿でもあるのだから、と父が言い、兄も笑ってうなずいた。それだけの取り決めだった。
それが母の手紙の中では、兄を呼び戻す理由になっている。
兄が九月に帰らなければ、私の披露が延びる。
十七の春も、十八の春も、十九の春も、私のお披露目は「マテオの具合が悪いから」で延びた。
同じ形だった。今度は、兄の名前で書いてあるというだけで。
「僕は」
兄が言った。北へ来てから日に焼けていた顔が、少し青くなっていた。
「僕は、また、君を待たせる理由にされるのか」
(お兄様のせいではありません)
そう言いたかった。けれど、それは十七の春から何度も言ってきた言葉で、言うたびに兄が黙りこむのも、私はよく知っていた。
「九月に帰ったら」
兄は、便箋の端を指の腹でこすりながら言った。
「北で覚えたことを全部置いて、窓の閉まった、暖炉の燃えてるあの部屋に戻る。母上は、部屋の前で僕の咳を数える。窓を開ければ、閉めに来る。パルドにも、柵にも、たぶんもう行かせてもらえない。帰らなかったら、君の披露が延びる。母上は、どっちになっても困らないように書いてるんだ」
兄は、母を責める声では言わなかった。母の手紙の書き方を、同じ部屋で何年も見てきた人の、静かな言い方だった。
* * *
居間の戸が叩かれて、アンセルモ先生が入ってきた。朝の診察の鞄を提げている。兄が黙って便箋を差し出すと、先生は眼鏡をかけ直して読み、それから、長いため息をついた。
「若様。正直に申し上げてよろしいですかな」
「お願いします」
「高原の秋は、胸によろしい。乾いておりますし、朝の冷えも、首を覆っておけば障りません。十月の半ばまでは、王都よりこちらのほうがよろしいでしょう」
先生は便箋をたたみながら、言葉を続けた。
「ただし、冬は別でございます。ここの冬は、雪が窓の半分まで積もります。胸の弱い方には寒すぎる。冬は王都で、窓を少し開けて、暖炉は朝だけ焚く部屋で過ごされるのがよろしい」
「じゃあ、どのみち帰るんですね」
「さようです。帰るか帰らないか、という話ではございません。いつ、どなたがお決めになって帰るか、という話ですな」
兄は、窓の外の放牧場を見た。朝の群れが、丘のふもとで草を食んでいる。
私は、膝の上で手を組んだ。
(私の披露は、待てます)
喉のところまで、その言葉が来ていた。延びることには慣れている。一度や二度延びても、私は困らない。そう言えば、兄は九月に帰らずに済む。
でも、それを言ったら、兄はまた、妹に何かを譲らせたことを背負う。
私は、その言葉を飲みこんだ。
「お兄様の決めることに、私は口を出しません」
兄が、私を見た。目尻に、小さな皺が寄った。
「君、北へ来てから、言うことが変わったね」
「お兄様もです」
* * *
閣下は、居間の隅の机で、王家の厩から届いた書類を読んでいた。こちらの話は聞こえていたはずなのに、一度も顔を上げなかった。
兄が、そちらへ向き直った。
「閣下。一つ、伺ってもいいですか」
「何だ」
「披露の日取りは、誰が決めるんですか」
閣下は、ようやく書類から目を上げた。
「母だ。披露は、うちの家で開く」
ちょうどそこへ、大奥様が入ってきた。朝の見回りから戻ったところらしく、乗馬服の裾に草の実が付いている。
「あら。わたくしに聞いているの?」
兄が、手紙のことを短く話した。大奥様は、私の膝の上の便箋にちらりと目をやり、ゆっくりと手袋を外した。
「婚約の披露は、男の家が開くものよ。日取りも、お客様も、わたくしどもが決めるの。ベラルデ家のお取り決めは、ベラルデ家のお取り決めとして、ありがたく伺っておくわ」
私は、膝の上の母の便箋を見下ろした。三つ目の段落が、急に軽くなった気がした。母の決めたことは、母の家の中でしか通らない。そんな当たり前のことを、私は二十年、考えたこともなかった。
大奥様は、閣下の机から便箋を一枚取って、ペンの先をインクに浸した。
「十月の終わり。晴れた日の昼に、王都のわたくしどもの屋敷で」
さらさらと書きつけて、大奥様は顔を上げた。
「これで、どなたも急いで帰らなくてよろしいわね」




