持って帰れない土産
扉を開けると、兄が角灯を提げて立っていた。
旅の上着の上から、母の灰色の布を首に巻いている。角灯の明かりの中で、兄の目が光っていた。蹄鉄を見た日と、同じ光り方だった。
「起きてた?」
「少しだけ」
「乗馬服に着替えて。外で待ってる」
兄はそれだけ言って、廊下の暗がりへ戻っていった。足音が、王都の家で聞いていたのとは違った。軽くて、速い。
* * *
厩の外は、まだ星が見えていた。
空気が、刺すように冷たかった。吐く息が白い。厩の前の踏み固められた土の上に、馬が二頭、鞍を着けて待っていた。年寄りの鹿毛のパルドと、栗毛のカネラ。パルドの引き綱をアランサさんが、カネラの手綱の近くには、閣下が自分の馬に乗って並んでいた。
厩の戸口に、アンセルモ先生が、毛布を抱えて立っていた。
「先生」
「ゆうべ、若様に頼みこまれましてな。丘の上まで並歩で、引き綱は放さないこと。下りも同じでございます。それから、これを」
先生は、兄の肩に毛布を一枚かけてから、私を見た。
「お嬢様、若様の息が上がったら、どうぞ大声でお呼びください。私は、丘のふもとでお待ちしております」
兄は、パルドの横に立って、深く息を吸った。
アランサさんが、両手を組んで身をかがめた。兄はそこに膝をのせて、一度、二度と体を揺すって、それから鞍の上へ上がった。
上がった。
脚が、震えていなかった。
アランサさんが、引き綱を持ったまま、兄の手元を見上げた。
「手綱は」
「僕が持つ」
兄は、両手で手綱を取った。手のひらの赤い筋の上に、革が載った。
私は、ベニートの代わりに厩番の若い人に膝を受けてもらって、カネラに上がった。右脚を上の角に掛け、左脚を下の角の下へ。もう、やり直さずに掛けられた。
「行こう」
兄が言った。
* * *
丘の道を、並歩で上った。
先頭がアランサさんとパルドと兄。その後ろに私とカネラ。私の隣に、閣下。角灯は、パルドの鞍の前に下げてあった。小さな明かりが、草の上を、ゆらゆら上っていく。
坂がきつくなると、前の兄の背中が、少し丸くなった。
兄の息の音が、聞こえた。
一つ。二つ。浅くないか。速くないか。咳の前触れの、あの引っかかる音は、混じっていないか――
気がつくと、私は兄の息を数えていた。
母が、十七年そうしていたように。
私は、数えるのをやめた。手綱を握り直して、カネラの耳の間を見た。兄の息は、兄のものだ。兄はもう、自分で手綱を持っている。
閣下が、何も言わずに、馬を少しだけ私のほうへ寄せた。
* * *
丘の上に着いたとき、東の空の端が、白くなりかけていた。
アランサさんが角灯の火を吹き消した。暗いと思っていたのに、消してみると、あたりがぼんやりと見えはじめた。丘の向こう側の斜面が、ずっと下まで続いていて、その底に、細い川が光っていた。
斜面のふもとに、もう一つ、長い厩が見えた。
「一歳馬の厩です。こっち側の群れは、夜はあそこで休むんです」
アランサさんが、小さな声で言った。
「もうすぐです」
空の白が、少しずつ、薄い金色に変わっていく。草の先の露が、一つずつ光りはじめた。
ふもとの厩の戸が、開いた。
ここからでは、音は聞こえなかった。最初の一頭が飛び出してくるのが、小さく見えた。それから二頭目、三頭目。次々に。草地へ出た馬たちが、一つに寄り集まって、群れになった。
そして、群れが、斜面を駆け下りはじめた。
朝日が、ちょうど山の端から顔を出した。光が斜面をなめるように走って、駆け下りる群れの背中に当たった。馬たちの背から、白い湯気が立ちのぼった。湯気が光を受けて、金色に燃えた。
しばらく遅れて、音が届いた。
地面の下から、どどど、と響いてくるような音。何十頭もの蹄の音が、一つの音になって、丘を震わせていた。カネラが耳を立てた。パルドが、ぶるっと鼻を鳴らした。
群れは、川のほとりで速度を落とし、一頭、また一頭と、水に首を下ろしていった。
私は、息をするのを忘れていた。
* * *
「イネス」
兄が、パルドの上で振り返った。
「持って帰れるものは、全部、君が持って帰ってくれた」
兄の声は、少しかすれていた。
「市の木彫りの馬も、蝋燭も、石も、蹄鉄も。仔馬の名前も。閣下まで」
兄は、斜面の下の、光る川を見た。
「でも、これは持って帰れない。だから、君を連れてきた」
私は、何か言おうとした。
言えなかった。
あの日、私は閣下を、兄へのお土産に連れて帰った。兄の部屋まで、持って帰れない物を、連れて帰った。
今度は、兄が、私を連れてきた。持って帰れない物のところまで。
向きが、逆になったのだ。
気がつくと、頬が濡れていた。
泣いているのだと、少しあとで分かった。母に「あなただけ楽しむつもり?」と言われたときも、お披露目が延びたときも、病弱にされていたと知ったときも、泣かなかったのに。今、泣いていた。
悲しいのではなかった。兄のために泣いているのでもなかった。
これは、私の分の涙だった。
閣下が、何も言わずに、馬を半歩寄せた。私の膝と閣下の膝が、鞍越しに触れるくらいまで。何も言わなかった。それで、十分だった。
アランサさんは、前を向いたまま、引き綱を握っていた。こちらを見ないでくれているのだと分かった。
「僕の土産は、これで一つ目だ」
兄が言った。
「まだ、たくさんある。北には、君の見てないものが、山ほどあるんだ」
* * *
館に戻ると、玄関の前で、大奥様が待っていた。
乗馬服ではなく、部屋着に肩掛けを巻きつけて、手に一通の封書を持っていた。
「さっき、町から使いが届けてくれたの。王都からの便よ」
大奥様は、封書を兄に差し出した。
「お母上から。マテオ殿に」
兄は、パルドから下りたばかりの、まだ少し震える手で、封書を受け取った。
封を切って、読んだ。
読み終えて、兄は、何も言わなかった。
便箋を持つ兄の手元が見えた。見慣れた母の字が、きれいに並んでいた。その最後の一行だけが、少し強い筆で書かれていた。
九月の初めには、イネスと一緒に、帰ってきなさい。




