高原の速歩
北の牧場で私に充てられたのは、カネラという栗毛の牝馬だった。
セニーサより一回り小さくて、ずっと若い。耳がよく動いて、私が鞍に上がると、首をひねって私の靴の先を確かめにきた。
「セニーサほど大人しくない」
閣下が言った。王都の稽古の最後に言ったのと、同じ言葉だった。
「だから、上手くなる」
北の館の裏の馬場は、王立牧場のよりも広くて、柵の向こうがすぐ丘だった。閣下が自分の馬で隣に並び、柵沿いを並歩で一周した。カネラの歩幅は、セニーサより短くて速い。体の揺れ方が違う。
「引き綱は」
「ない」
閣下は、あっさり言った。
「速歩」
言われて、私は右手の鞭で、カネラの右の脇腹に触れた。叩くのではなく、触れる。
カネラが、跳ねるように歩様を変えた。
体が、上下に揺れはじめた。鞍の上で、お尻が浮いては落ちる。上の角に掛けた右脚に力が入りすぎて、膝が痛い。私はとっさに、鞍の角にしがみつきかけた。
「背を立てる」
隣で、閣下の声がした。
「馬の揺れに逆らうな。乗せてもらえ」
乗せてもらう。
私は、しがみつくのをやめて、背を起こした。カネラの耳の間を見た。上下の揺れが、少しずつ、波のように感じられてきた。逆らわずに、その波の上に乗っていると、体のほうが勝手に覚えていく。
柵の角を曲がるとき、カネラが少しだけ速くなった。私は、落ちなかった。
* * *
「教え方が、厩番のままね」
柵の外から、声がした。
大奥様だった。乗馬服のまま柵にもたれて、腕を組んで、私たちを見ていた。
「背を立てろ、馬の耳の間を見ろ、逆らうな。それしか言わないんだから。わたくしが教わったときと、一字一句同じよ」
「母上に教わったとおりに教えています」
「だから、厩番のままだと言ってるの」
閣下が、何とも言えない顔をした。私は、手綱を持ったまま笑ってしまって、また鞍の上で揺れた。
大奥様は、私のほうを向いた。
「お嬢さん、王都で、どれくらい乗ったの」
「週に一度、ひと月あまりでございます」
大奥様は、少しのあいだ私を見て、それから、閣下を見た。
「アルバロ。この子、筋がいいわ。あなたより」
「……知っています」
閣下は、むっとした顔で、そう言った。
* * *
午後は、閣下と並んで、館の外の道を行った。
並歩だけ。大奥様とピラールが、少し後ろから小さな馬車でついてきた。
高原の道は、どこまでも広かった。王都では、どこを見ても屋根か塀が目に入る。ここには、何もなかった。草と、空と、遠くの山の影と、風だけ。カネラのたてがみが、風に流れていた。
(お兄様に、話さなくちゃ。風の匂いが――)
そう思いかけて、やめた。兄は、この風の中に、もうふた月いるのだ。
私の頭の中から、兄に話すことの一覧が、一つずつ消えていく。代わりに何が入るのか、私にはまだ分からなかった。
閣下は、口数が少なかった。ときどき馬を半歩寄せて、道の先の石や、溝を指さした。それだけで、十分だった。
* * *
帰り道、丘のふもとの放牧場の脇で、仔馬の群れに行き合った。
三つ編みの人が、馬に跨がって、仔馬たちを隣の放牧場へ移しているところだった。スカートではなく、革の乗馬ズボンを穿いていた。長い竿を一本持って、声と竿だけで、仔馬の群れを、きれいに柵の戸へ流していく。
移し終えると、その人は馬を返して、こちらへ来た。閣下に頭を下げてから、私の鞍に目をとめた。
「横鞍。それで、落ちないんですか」
「今のところは」
「すごい。私は跨がないと、乗れないです」
そう言って、三つ編みの人は、まっすぐ私を見た。
「アランサ・ウルキサです。差配の娘です。マテオ様の、妹さんですね」
「イネスと申します。兄が、お世話になっております」
「お世話はしてません。風下に立たないように見張ってるだけです」
アランサさんは、それから、少し首をかしげた。
「イネス様は、マテオ様の何ですか。看病の人?」
「妹です」
「妹って、そんなに、兄のことばっかり考えるものですか」
私は、答えに詰まった。
「マテオ様が、毎日言ってるんです。妹が王都で何を見たか、何を持って帰ったか。十何年分。毎日です。だから、てっきり、妹さんのほうもそうなんだろうって」
アランサさんは、責める顔ではなかった。不思議がっている顔だった。
「私には兄が三人いますけど、兄のことなんて、一日に一回も考えません」
そう言って、アランサさんは馬の首を返した。
「明後日の朝、マテオ様に手綱を持たせます。イネス様も、落ちないでくださいね」
* * *
その晩、館の居間で、兄が聞いた。
「乗れるようになった?」
「速歩までは」
兄は、ふうん、と言って、それからにやりとした。
「十分だ」
兄の手のひらに、赤い筋が一本できていた。手綱を握った跡だった。
このところ、兄が朝から晩まで、アランサさんとパルドと一緒に、柵の向こうで何をしていたのか、私はたずねなかった。手のひらを見れば、たずねるまでもなかった。
* * *
次の日も、兄は柵の向こうから戻ってこなかった。その晩、私は眠れなかった。
妹って、そんなに兄のことばっかり考えるものですか。
アランサさんの声が、天井のあたりで何度も聞こえた。私は、兄のことばかり考えてきた。兄の分を選び、兄に話すことを覚え、兄の見たいものを見てきた。それが、私の外出だった。
では、兄のことを考えない私は、何を考えるのだろう。
答えが出ないうちに、うとうとした。
まだ真っ暗なうちに、扉が、小さく叩かれた。




