北の夏【マテオ視点】
北の朝には、暖炉のはぜる音がない。
最初の晩、僕はそれで眠れなかった。寝台の向かいでは、いつも何かがはぜていたのだ。薪の割れる音、灰の崩れる音、母が火掻き棒を置く音。それが一つもない。代わりに聞こえるのは、開いた窓から入ってくる風の音と、遠くの厩で馬が板壁を蹴る音と、夜明けの少し前に鳴る、谷の向こうの教会の鐘だった。
何日かすると、その鐘で目が覚めるようになった。
* * *
北に着いた日、アンセルモ先生は決まりを言い渡した。
厩の中に入らないこと。干し草の小屋に近づかないこと。朝は冷えるので、首を覆うこと。
「馬には、外でお会いなさいまし。外の馬のほうが、きれいでございますよ」
先生の言うとおりだった。馬は、外で見るほうがきれいだった。
最初の二日は、館の窓から見るだけだった。初めて柵まで歩いた朝のことは、イネスへの手紙に書いた。書かなかったのは、脚のことだ。丘のふもとまでの、ほんの短い道なのに、二年、寝台と窓のあいだしか歩いていなかった脚は、草の上に下ろすと、自分の物ではないみたいに頼りなかった。膝の裏が、ずっと笑っていた。柵にたどり着いたときには、群れはもう水場から戻ってきていた。僕は柵の横木にしがみついて、それでも、帰ろうとは思わなかった。
歩けるようになると、今度は、柵の前から動けなくなった。
馬が、本に書いてあるとおりに動かないのだ。
* * *
「血統で、草は食べません」
そう言われたのは、北に来てしばらくした朝だった。
僕は柵にもたれて、一歳馬の群れの一頭について、父親と母親と、その上の代まで、名前を並べていた。いい血統の馬だ。王都の御前馬術に出た牡馬の孫で、母方には北の古い牝馬の名が入っている。並べているうちに、楽しくなって、声が大きくなっていた。
振り向くと、柵の内側に、黒い三つ編みの娘が立っていた。革の前掛けをして、空の桶を提げている。
「その子、乳離れのあとで、まだ水桶の飲み方が下手なんです。血統の本に、そう書いてありますか」
書いてなかった。
娘は、ウルキサ男爵の娘で、アランサといった。男爵は、代々リオセコ家の北の牧場を預かる差配で、アランサはこの牧場で生まれて、仔馬の世話をして育った。
それから毎朝、アランサは柵の向こうから、僕の知らないことを言った。
あの牝馬は、右の後ろ脚をかばっている。蹄の裏に石が入ったのを、まだ覚えているから。あの二頭は、仲が悪いふりをしているけど、夜は必ず隣で寝る。あの栗毛は、人参より林檎の皮が好き。
一つ言われるたびに、僕の頭の中の血統の本に、書きこみが増えた。
二年間、馬の話をできる相手がいなかった。やっと話せる相手ができたと思ったら、その相手は、僕より馬を知っていた。
悔しかった。それから、嬉しかった。言い負かされるのが、こんなに楽しいとは思わなかった。
「マテオ様、また風下」
アランサは、それも毎朝言った。厩の掃除の時間になると、風の向きを見て、僕を柵の反対側へ追いやる。
「あなたが咳をしたら、先生に叱られるのは私なんですから」
口うるさい、と手紙に書いたのは、そういう意味だ。
* * *
北の町の市へ連れていってくれたのも、アランサだった。
男爵の荷馬車の隣に僕を座らせて、町まで半日。馬具屋の前で僕が動かなくなると、アランサは「置いていきますよ」と言って、本当に荷馬車を出しかけた。
初めて自分で選んで買った物は、手綱に付ける小さな鈴だった。何に使うかは、決めていなかった。ただ、欲しかった。欲しいと思った物を、自分で手に取って、自分で金を払った。それだけのことに、帰りの荷馬車の上でずっと、胸がどきどきしていた。
イネスは、ずっと、これをやっていたのだ。僕の分を選ぶために。
* * *
初めて馬の背に乗ったのは、ひと月ほど前だ。
先生がやっと許してくれた。外の放牧場で、引き綱で、並歩だけ。乗せてもらったのは、パルドという年寄りの鹿毛の去勢馬で、アランサに言わせると「この牧場で一番、人を馬鹿にしない馬」だった。
鞍に上がった瞬間、脚が震えた。
鐙を踏む脚が、自分の体重を支えきれずに、がくがくした。アランサが引き綱を持って、パルドの横を歩いた。
アランサは、笑わなかった。
王都の誰かなら、気の毒そうな顔をしたと思う。母なら、悲鳴を上げて僕を下ろしたと思う。アランサは、震えている僕の膝をちらりと見て、「パルドは、震えてる人の乗せ方を知ってますから」とだけ言って、前を向いて歩いた。
柵沿いを一周して下りたとき、僕は、馬の背から見た放牧場の広さを、ずっと覚えていようと思った。
それから、思った。
これは、持って帰れない。
イネスが十二年、持って帰ってきてくれた物は、全部、手で持てる物だった。毛一本から、蹄鉄まで。閣下まで。持って帰れる物は、全部、イネスが持って帰ってくれた。
持って帰れない物は、連れてくるしかない。
* * *
イネスが着いた朝のことは、足音で覚えている。
露に濡れた草を、大股で、走ってくる足音だった。転びそうになりながら。小さいころから、イネスは急ぐと必ず転びかけた。
柵越しにつかんだ妹の肘は、王都で最後に会った日より、少し固かった。手綱を握る腕になりかけていた。
* * *
その晩、館の裏口を、誰かが叩いた。
開けると、アランサが、角灯を提げて立っていた。
「父が、空を見ました。三日後の朝は、晴れます。霧も出ないそうです」
「ありがとう」
アランサは、角灯を持ち上げて、僕の顔を照らした。
「本当に、あの丘の上まで行くんですか。妹さんを連れて。マテオ様が、自分で手綱を持って」
「行く」
「引き綱は、私が持ちます。でも手綱は、マテオ様が持ってください。妹さんへの土産なんでしょう。人に持たせた手綱で、土産を渡すんですか」
アランサは、それだけ言うと、角灯を下ろして帰っていった。
僕は裏口に立ったまま、手のひらを見た。
三日で、手綱を持てるようになれるだろうか。




