柵のそばの兄
北の館に着いたのは、五日目の夕方だった。
石造りの、思ったより小さな館だった。王都の屋敷の半分もないかもしれない。けれど窓が多くて、その窓が、どれも開いていた。館の裏手から丘が始まり、丘の斜面いっぱいに、柵で区切られた放牧場が広がっている。夕方の光の中で、馬の群れが、遠くでゆっくり草を食んでいた。
馬車を降りると、玄関の前に、背の高い女の人が立っていた。
乗馬服を着ていた。金の髪に白いものが交じりはじめていて、それを無造作に後ろでまとめて、鞭を片手に持ったまま。閣下と同じ、灰色がかった青い目をしていた。
「母上。ただいま戻りました」
閣下が馬を降りて、頭を下げた。女の人は、息子を一瞥しただけで、すぐに私のほうへ歩いてきた。
「あなたが、蹄鉄のお嬢さんね」
王都の噂は、こんなところまで届いていたらしい。
「イネス・ベラルデと申します。このたびは、お招きいただいて」
「堅苦しいのはいいわ。エルビラよ。ここでは皆、大奥様と呼ぶけれど」
大奥様は、私の手を取った。挨拶のためではなかった。手のひらを上に向けさせて、指の付け根のあたりを、親指でなぞった。
「手綱の豆が、できかけているわね。ちゃんと稽古しているじゃない」
閣下が、後ろで小さく咳払いをした。
「母上。人の手を、馬の脚のように見ないでください」
「あなたに言われたくないわ。この子の手袋、手の大きさを見て作らせたんでしょう。手紙に書いてあったわよ」
閣下が、黙った。耳が赤くなっていた。私は、笑うのをこらえるのに苦労した。
(閣下の、お母様だわ)
見方が、そっくりだった。
* * *
兄は、もう休んでいた。
「若様は、朝がお早いので」
館の廊下で迎えてくれたのは、アンセルモ先生だった。王都で会ったときより、日に焼けていた。
「夜明け前にお起きになって、放牧を見にいかれます。毎朝です。私も、つきあわされております」
「お兄様が、夜明け前に」
王都の兄は、昼近くまで寝台の上でうとうとしていることが多かった。眠りが浅くて、夜中に何度も咳で目を覚ますから。
「お会いになるなら、明日の朝、放牧場へいらっしゃるのがよろしいでしょう。若様は、必ずあそこにおいでです」
* * *
まだ暗いうちに、目が覚めた。
窓の外が、うっすらと青い。私は祖母の乗馬服を着て、肩掛けを羽織り、そっと部屋を出た。廊下の先で、ピラールが寝ぼけた顔で「お嬢様、どちらへ」と言ったけれど、待っていられなかった。
館の裏口から外へ出ると、空気が冷たかった。八月だというのに、吐く息がうっすら白い。草が露で濡れていて、乗馬服の裾がたちまち重くなった。
丘のふもとに、長い厩が並んでいた。その戸が、ちょうど開くところだった。
一頭目の馬が、跳ねるように飛び出してきた。二頭目は首を大きく振ってから。三頭目は戸口で立ち止まって、空を見上げてから。それから、次々に。兄の手紙のままだった。馬たちは草地へ出ると、いつのまにか群れになって、丘の向こうの水場へ駆けていった。どの背中からも、白い湯気がふわりと上がっていた。
その群れを、柵のそばで見送っている人がいた。
膝掛けを、かけていなかった。
旅の上着の袖をまくって、柵の横木に両腕をのせて、口元に布を巻いている。私の知っている兄より、肩が少し広く見えた。頬に色があった。
「お兄様」
声をかけると、兄が振り向いた。
口元の布を下ろして、兄は笑った。
「早かったね、イネス」
「お兄様こそ」
私は、柵まで走った。露で濡れた草に足を取られて、最後の何歩かは、ほとんど転びかけていた。兄が、柵越しに手を伸ばして、私の肘をつかんだ。
兄の手は、温かかった。暖炉の火で温まった手ではなかった。
「日に焼けたのね」
「少し太ったとも言ってくれ。先生が喜ぶ」
兄は、遠くの群れを指さした。
「あれが、ルセロ。一番に飛び出すやつ。あっちの首を振るのがアルバ。戸口で空を見るのは、年寄りのグリス。あいつは毎朝、天気を確かめてから出てくる」
本の中の血統の名前ではなかった。兄は、馬を、走り方で呼んでいた。
* * *
「マテオ様! 風下に立たない!」
厩の戸口から、鋭い声が飛んできた。
若い女の人だった。黒い髪を一本の三つ編みにして、革の前掛けをして、手に熊手を持っている。厩の中の敷き藁を、掻き出しているところらしい。
兄は、言われるなり素直に一歩横へずれた。厩から吹いてくる風の通り道から、外れる場所へ。
「……今のは」
「差配の家の、口うるさい誰か」
兄は小声で言って、肩をすくめた。三つ編みの人は、もう厩の中へ戻っていた。
私は思い出して、肩掛けの下の、乗馬服の内側に入れてきた包みを取り出した。
「お兄様に。厩の近くでは、口を覆うように、って」
淡い灰色の、目の細かい毛織りの布。兄はそれを受け取って、広げた。端のかがり目を、指でなぞった。
少し不揃いな、かがり目を。
兄は、しばらく黙っていた。それから、何も聞かずに、首に巻いていた北の布をほどいて、灰色の布を巻き直した。
「……あったかいな」
それだけ言った。誰の手か、兄には分かったのだと思う。
* * *
「お兄様。お土産は」
私が言うと、兄は、いたずらを思いついたときの顔で、片目をつぶった。
「まだ渡さない」
「取りに来てくれって、書いたじゃない」
「来てくれた。だから、これから渡す。でも、今日じゃない」
兄は、厩のほうをちらりと見た。三つ編みの人が、また戸口に出てきて、空を見上げていた。
「三日後の夜明け前に、起こしに行く。それまでに、ちゃんと乗れるようになっておいて」
「乗れるように?」
「土産の場所まで、歩いては行けないんだ」




