街道の市
王都の北の門を、馬車がくぐった。
門の影が窓を横切って、それから、光が戻ってきた。私は窓に額を寄せたまま、しばらく動けなかった。
街道へ出るのも、家を離れてよそで眠るのも、生まれて初めてだった。
御前馬術の馬場も、王立牧場も、王都の中か、門のすぐ外だった。十二年分のお土産は、どれも王都の中から持って帰った物だ。私の世界は、ずっと、王都と、その門を出てすぐのところまでで足りていた。
門の外には、畑があった。刈り入れの済んだ麦畑が、どこまでも黄色く続いている。その向こうに川が光り、もっと向こうに、青い山の影が重なっていた。
「お嬢様、窓に張りついておいでですと、お顔に窓枠の跡がつきますよ」
「つかないわ」
「もうついております」
ピラールに言われて頬を触ると、たしかに、少しへこんでいた。
閣下は、馬で馬車の脇を行った。ときどき窓の横に並んで、外を指さして短く言う。あれは、昔の王が狩りをした森。あの橋は、春の大水で何度も落ちた。この村の鍛冶屋は、北の牧場の蹄鉄を三代打っている。
「三代も」
「腕がいい。ネーベの蹄鉄も、ここの者が打った」
私は、兄の部屋の壁に掛かった、泥の付いた蹄鉄を思い出した。あの蹄鉄の生まれた村を、私は今、通っている。
(お兄様に、話さなくちゃ)
そう思ってから、少し笑った。兄はこの道を、ふた月前に通っているのだ。
* * *
三日目の宿は、街道沿いの大きな町だった。
ちょうど市の立つ日で、宿の前の広場に、屋台がずらりと並んでいた。夕方の涼しくなった風の中を、人がひしめいて歩いている。
「行ってみるか」
閣下が言った。私は、返事をする前にもう、ピラールの手を引いていた。
市は、王都の春の市よりも、ずっと雑多だった。羊の毛を刈る鋏、蜂蜜の壺、干した茸の束、子どもの木の笛。目に入る物を一つずつ見ていくうちに、私の手が、勝手に止まる屋台があった。
蹄鉄をかたどった、歯の折れそうな焼き菓子。
馬具の金具屋の、小さな真鍮の留め金。馬の頭の形をしている。
古本の屋台の隅の、北の牧場の血統を書きつけた、表紙のちぎれた帳面。
(お兄様が、喜ぶ)
どれも、手に取る前から分かった。兄が寝台の上で目を丸くする顔まで、浮かんだ。
帳面に手を伸ばしかけたとき、横から閣下が言った。
「兄上は、北の町の市に、もう自分で行った」
手が、止まった。
「先月の手紙に書いてあった。差配の家の者に連れられて、北の町の市を歩いた、と。馬具屋の前から動かなくて、置いていかれかけたそうだ」
私は、帳面を見下ろした。
兄は、もう自分で市へ行く。自分の目で屋台を見て、自分の手で何かを選ぶ。私が持って帰らなくても。
嬉しかった。本当に嬉しかった。それなのに、帳面から手を引いた指先が、行き場をなくして、宙に浮いた。
「君の分は」
閣下が言った。
* * *
閣下が足を止めたのは、リボンの屋台の前だった。
色とりどりの絹のリボンが、竿にかけられて、風に揺れている。赤、黄、桃色、青、紫、緑。屋台の女主人が、私の帽子を見て、にっこり笑った。
「お嬢様に似合う色を、お選びしましょうか」
「いえ、自分で」
自分で、と言ってから、私は竿の前に立ちつくした。
どの色が好きなのか、分からなかった。
母の選ぶドレスは、いつも暗い色だった。兄の部屋で汚れが目立たないように。私の若草色の昼のドレスは、仕立て屋が勧めた色で、私が選んだのではない。兄の部屋の膝掛けは、母の好きな臙脂。兄の好きな色なら知っている。ネーベ号の白と、厩の焦げ茶。
私の好きな色は。
一つずつ、リボンを手に取ってみた。赤は、強すぎる気がした。青は、冷たい気がした。黄色を手に取ったところで、母の声が頭の中で「あなたには派手よ」と言った。
手を下ろした。また取った。また下ろした。
ピラールが、屋台の陰の日除けの下で、椅子代わりの樽に腰を下ろした。時間がかかると、見切りをつけたらしい。
閣下は、口を挟まなかった。
私の少し後ろに立って、腕を組んで、待っていた。急かしもせず、色を勧めもしなかった。
その待ち方に、覚えがあった。王立牧場の囲いの前で、仔馬が自分から寄ってくるのを、じっと待った、あのときの私と同じだった。追わずに、しゃがんで、手のひらを下に向けて。
――私は今、閣下に待たれている。
そう気がついたら、余計に選べなくなった。
日が傾いて、屋台の女主人が、隣の店とおしゃべりを始めた。
「……すみません」
私は、リボンを竿に戻した。
「今日は、選べません」
閣下は、怒らなかった。笑いもしなかった。
「北にも、市はある」
それだけ言って、宿のほうへ歩きだした。
* * *
その晩、宿の部屋で、私はなかなか眠れなかった。
蹄鉄の焼き菓子と、真鍮の留め金と、血統の帳面。兄の分なら、三つも見つけられた。私の分は、一つも見つからなかった。
自分の分を選ぶのは、兄の分を選ぶより、ずっと難しい。
翌朝、窓の外の道が、上り坂になっていた。
馬車がゆっくり坂を登るにつれて、窓の外の空が、広くなっていった。木が低くなり、草の色が変わり、風が乾いていく。
(高原だ)




