↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「お兄様は外に出られないのに」と母が言うので、兄へのお土産に公爵閣下を連れて帰りました【連載版】  作者: みれいぬ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/19

兄の頼みは、断れない

 七月の終わりに、北の館から、もう一通の手紙が届いた。


 宛名は父で、差出人は、エルビラ・リオセコ。閣下のお母上だった。


 夕食の席で、父はそれを読み上げた。息子の婚約者を、八月に北の館へお泊めしたい。兄君もこちらで元気にしておいでなので、ぜひ兄妹で過ごしていただきたい。館には自分がおりますので、どうぞご安心を。


「北の館の大奥様が、付き添いを引き受けてくださるということだ」


 父は手紙を畳みながら、私のほうを見た。


「マテオの手紙と、同じことが書いてある。付き添いはピラールで足りる、と」


 兄の手紙が父に届いたのは、ひと月前だ。父はその間、何も言わなかった。言わなかったけれど、断りの返事も書かなかった。私はそれを、毎晩、待っていた。


 断られないことを、待っていた。


 そのひと月あまりのあいだ、私は毎週、王立牧場へ通った。セニーサの背中は、三度目にはもう怖くなくなった。引き綱が外れたのは七月の半ばで、ベニートが綱を手から放したとき、私は気づかずにそのまま柵沿いを一周してしまって、あとで閣下に笑われた。速歩はまだ、閣下が自分の馬で隣に並んでくれないとできない。上下に揺れるたびに、鞍の角にしがみつきたくなる。


「北の馬は、セニーサほど大人しくない」


 閣下は、稽古の終わりにそう言った。


「だから、北で乗る」


 意味が分からなくて聞き返すと、閣下は「大人しい馬では、上手くならない」とだけ言った。


「閣下が、王家の一歳馬の具合を見に、八月の初めに北へ行かれる。同じ日に発てばいい」


 父はそう言って、葡萄酒の杯に手を伸ばした。


 それで、決まったのだった。


 母は、卓の向こう端で、スープの匙を置いた。


「マテオがそう言うのなら」


 母の声は、静かだった。それから、私のほうを見ずに、言葉が続いた。


「あなただけ、楽し――」


 そこで、母の口が止まった。


 食堂が、しんとした。燭台の火が、かすかに揺れた。父は杯を持ったまま、母を見た。私も、母を見た。


 母は、続きを言わなかった。唇を一度閉じて、それから、匙をもう一度取った。スープは、もう冷めていたと思う。


(お母様の口癖の、残りの半分)


 お兄様は外に出られないのに。あなただけ楽しむつもり。十二年、耳にたこができるほど聞かされた言葉の、前の半分が、もう言えなくなっていた。兄は外に出たのだから。後ろの半分だけが、行き場をなくして、母の喉のところで止まった。


 その続きを口にする人は、いなかった。私も黙っていた。


* * *


 荷造りは、ピラールと二人でした。


 初めてだった。自分の物だけを詰める荷造りは。


 これまで、外へ出るときに持っていく物は、帰りに兄へのお土産を入れるための、空の袋くらいのものだった。今度は違う。祖母の乗馬服。閣下の手袋。北は朝が冷えるそうだから、厚手の肩掛け。歩きやすい靴。


「お嬢様、北で舞踏会でもなさるおつもりで?」


 ピラールが、私の詰めた夜会用の手袋をつまみ上げた。


「念のため、よ」


「大奥様の館でございますよ。牧場の真ん中の」


「念のため」


 ピラールは笑って、手袋を鞄に戻した。


 詰め終えてから、兄へのお土産を何にしようかと、部屋の中を見回した。


 見回して、気がついた。兄は今、北にいる。北の物は、兄のほうがもう持っている。私が王都から持っていける物で、兄の喜ぶ物は何だろう。血統の本なら、兄の部屋に山ほどある。


 何も思いつかないまま、夜になった。


* * *


 出発の前の晩、母が私の部屋の戸口に来た。


 母が私の部屋へ来ることは、めったにない。私は寝台に腰かけたまま、立ち上がりかけた。


「いいわ。座っていなさい」


 母は、手に薄い布を持っていた。淡い灰色の、目の細かい毛織りの布で、端がきちんとかがってある。


「マテオに、渡してちょうだい」


「これは」


「厩の近くでは、これで口を覆うように。……埃は、胸に悪いのだから」


 あの日、私が読んで聞かせた手紙の、厩には入れてもらえない、のところを、母は覚えていたのだ。


 布を受け取ると、かがり目が、少しだけ不揃いだった。ピラールの手ではない。母の手だった。母が針を持つところを、私はもう何年も見ていなかった。


「お母様が、縫われたのですか」


「……マテオに、そう言わなくていいわ」


 母はそれだけ言って、戸口から戻っていった。廊下の足音が、兄の部屋の前で一度止まって、それから遠ざかった。


 私は、布を畳んで、鞄の一番上に入れた。


 兄へのお土産が、一つ決まった。私が選んだ物ではないけれど。


* * *


 八月の初めの朝、門の前に、馬の足音が止まった。


 窓からのぞくと、閣下が馬上にいた。焦げ茶の乗馬上着の上に、旅の外套を羽織っている。うちの馬車の扉は、もうピラールが開けて待っていた。


 玄関で、父が見送ってくれた。母は、階段の上の踊り場に立っていた。下りてはこなかった。けれど、私が玄関を出るまで、そこから動かなかった。


「行ってまいります、お父様、お母様」


 楽しむのではありません、とは、言わなかった。


 今度は、楽しみに行くのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。