兄の頼みは、断れない
七月の終わりに、北の館から、もう一通の手紙が届いた。
宛名は父で、差出人は、エルビラ・リオセコ。閣下のお母上だった。
夕食の席で、父はそれを読み上げた。息子の婚約者を、八月に北の館へお泊めしたい。兄君もこちらで元気にしておいでなので、ぜひ兄妹で過ごしていただきたい。館には自分がおりますので、どうぞご安心を。
「北の館の大奥様が、付き添いを引き受けてくださるということだ」
父は手紙を畳みながら、私のほうを見た。
「マテオの手紙と、同じことが書いてある。付き添いはピラールで足りる、と」
兄の手紙が父に届いたのは、ひと月前だ。父はその間、何も言わなかった。言わなかったけれど、断りの返事も書かなかった。私はそれを、毎晩、待っていた。
断られないことを、待っていた。
そのひと月あまりのあいだ、私は毎週、王立牧場へ通った。セニーサの背中は、三度目にはもう怖くなくなった。引き綱が外れたのは七月の半ばで、ベニートが綱を手から放したとき、私は気づかずにそのまま柵沿いを一周してしまって、あとで閣下に笑われた。速歩はまだ、閣下が自分の馬で隣に並んでくれないとできない。上下に揺れるたびに、鞍の角にしがみつきたくなる。
「北の馬は、セニーサほど大人しくない」
閣下は、稽古の終わりにそう言った。
「だから、北で乗る」
意味が分からなくて聞き返すと、閣下は「大人しい馬では、上手くならない」とだけ言った。
「閣下が、王家の一歳馬の具合を見に、八月の初めに北へ行かれる。同じ日に発てばいい」
父はそう言って、葡萄酒の杯に手を伸ばした。
それで、決まったのだった。
母は、卓の向こう端で、スープの匙を置いた。
「マテオがそう言うのなら」
母の声は、静かだった。それから、私のほうを見ずに、言葉が続いた。
「あなただけ、楽し――」
そこで、母の口が止まった。
食堂が、しんとした。燭台の火が、かすかに揺れた。父は杯を持ったまま、母を見た。私も、母を見た。
母は、続きを言わなかった。唇を一度閉じて、それから、匙をもう一度取った。スープは、もう冷めていたと思う。
(お母様の口癖の、残りの半分)
お兄様は外に出られないのに。あなただけ楽しむつもり。十二年、耳にたこができるほど聞かされた言葉の、前の半分が、もう言えなくなっていた。兄は外に出たのだから。後ろの半分だけが、行き場をなくして、母の喉のところで止まった。
その続きを口にする人は、いなかった。私も黙っていた。
* * *
荷造りは、ピラールと二人でした。
初めてだった。自分の物だけを詰める荷造りは。
これまで、外へ出るときに持っていく物は、帰りに兄へのお土産を入れるための、空の袋くらいのものだった。今度は違う。祖母の乗馬服。閣下の手袋。北は朝が冷えるそうだから、厚手の肩掛け。歩きやすい靴。
「お嬢様、北で舞踏会でもなさるおつもりで?」
ピラールが、私の詰めた夜会用の手袋をつまみ上げた。
「念のため、よ」
「大奥様の館でございますよ。牧場の真ん中の」
「念のため」
ピラールは笑って、手袋を鞄に戻した。
詰め終えてから、兄へのお土産を何にしようかと、部屋の中を見回した。
見回して、気がついた。兄は今、北にいる。北の物は、兄のほうがもう持っている。私が王都から持っていける物で、兄の喜ぶ物は何だろう。血統の本なら、兄の部屋に山ほどある。
何も思いつかないまま、夜になった。
* * *
出発の前の晩、母が私の部屋の戸口に来た。
母が私の部屋へ来ることは、めったにない。私は寝台に腰かけたまま、立ち上がりかけた。
「いいわ。座っていなさい」
母は、手に薄い布を持っていた。淡い灰色の、目の細かい毛織りの布で、端がきちんとかがってある。
「マテオに、渡してちょうだい」
「これは」
「厩の近くでは、これで口を覆うように。……埃は、胸に悪いのだから」
あの日、私が読んで聞かせた手紙の、厩には入れてもらえない、のところを、母は覚えていたのだ。
布を受け取ると、かがり目が、少しだけ不揃いだった。ピラールの手ではない。母の手だった。母が針を持つところを、私はもう何年も見ていなかった。
「お母様が、縫われたのですか」
「……マテオに、そう言わなくていいわ」
母はそれだけ言って、戸口から戻っていった。廊下の足音が、兄の部屋の前で一度止まって、それから遠ざかった。
私は、布を畳んで、鞄の一番上に入れた。
兄へのお土産が、一つ決まった。私が選んだ物ではないけれど。
* * *
八月の初めの朝、門の前に、馬の足音が止まった。
窓からのぞくと、閣下が馬上にいた。焦げ茶の乗馬上着の上に、旅の外套を羽織っている。うちの馬車の扉は、もうピラールが開けて待っていた。
玄関で、父が見送ってくれた。母は、階段の上の踊り場に立っていた。下りてはこなかった。けれど、私が玄関を出るまで、そこから動かなかった。
「行ってまいります、お父様、お母様」
楽しむのではありません、とは、言わなかった。
今度は、楽しみに行くのだ。




