馬の背の高さ
乗馬服が、なかった。
水曜の前の晩になって、そのことに気がついた。私は馬に乗ったことがない。乗ったことのない人間の衣装箱に、乗馬服が入っているはずがない。
「お嬢様の昼のドレスで乗ったら、裾が鞍に巻きこまれて、それこそ病人になって帰ってまいりますよ」
ピラールが腕組みをして言った。
二人で途方に暮れていると、廊下を通りかかった父が足を止めた。いつもなら、そのまま書斎へ行ってしまう父だった。
「乗馬服か」
「はい、お父様。明日の稽古に、着ていくものがございません」
父は少し黙ってから、天井のほうを見た。
「屋根裏の、北側の衣装箱だ。一番奥の、革の帯を巻いたのを開けてみなさい」
「屋根裏に、乗馬服が?」
「私の母のだ」
父は、それだけ言って書斎へ行きかけて、もう一度振り返った。
「母は、よく乗った。……おまえの年のころには、毎朝」
知らなかった。父方の祖母は私が生まれる前に亡くなっていて、肖像画の中で、いつも椅子に座っている人だった。
屋根裏の衣装箱の中に、濃い緑の乗馬服が、薄紙に包まれて眠っていた。裾の長い上着とスカートの一揃いで、樟脳の匂いがした。肩が少し狭くて、丈が少し長い。
「一晩あれば、何とかいたします」
ピラールは、そう言って針箱を開けた。本当に一晩で、何とかしてしまった。
* * *
王立牧場の馬場の柵の中で、真っ白な馬が待っていた。
「セニーサだ」
閣下が手綱を持っていた。
「年を取っている。もう二十を越えた。若いころは王家の姫君を何人も乗せて、今は、初めて乗る者を乗せる。この牧場で一番、落ち着いている」
セニーサは、私を見て鼻を鳴らした。耳がゆっくりこちらを向いて、また前へ戻った。値踏みされた気がした。
鞍は、横鞍だった。
閣下が一つずつ教えてくれた。鞍の左側に、角が上と下に二つある。右脚を上の角に掛けて、左脚は下の角の下へ入れる。鐙は左だけ。両脚とも馬の左側にそろえて、顔と胸は前を向く。
「右脚で、馬の腹を押せない。だから、右の合図はこれで出す」
閣下が、細い鞭を私の右手に渡した。
「叩くのではない。触れる。右脚の代わりだ」
鹿革の手袋の中で、鞭の柄は、思ったより手になじんだ。手のひらの厚い革が、ちょうど握るところに当たっていた。
ベニートが、セニーサの横で身をかがめて、両手を組んだ。
「お嬢様、ここへ左の膝を。いち、に、で上へ」
いち、に、で、体が持ち上がった。気がつくと、私は鞍の上にいた。
高かった。
地面が、遠かった。柵の横木が、自分の腰より下にある。セニーサが首を少し振っただけで、体ごと揺れた。右脚を上の角に掛けるのに、何度もやり直した。
「背を立てる。手は下げる。馬の耳の間を見る」
閣下の声は、厩の通路で聞いたときと同じに短かった。
ベニートが引き綱を持って、歩きだした。セニーサが一歩、踏み出す。鞍が前へ傾いて、後ろへ戻る。もう一歩。
(お兄様、馬の上って、こんなに揺れるのよ。前脚が出るたびに、右に、左に)
気がつくと、頭の中で兄に話していた。ネーベ号の跳び方を話したときと同じように、ひとつ残らず覚えて帰ろうとしていた。
柵の角を曲がったところで、私は、はっとした。
この揺れは、持って帰れない。
どんなに上手に話しても、兄の頭の中のセニーサは、揺れないだろう。この高さも、この風も、首筋の汗の匂いも、ここにしかない。今日、ここに乗っている、私にしかない。
「怖いか」
柵の外から、閣下が聞いた。
「高いです」
「高いのは、悪いことか」
私は、柵の向こうを見た。丘の斜面と、その上の空と、遠くの王都の屋根が、全部いつもより低く見えた。
「……いいえ」
* * *
引き綱のまま、柵沿いをゆっくり何周か回った。降りるときは、ベニートと閣下が両側から受け止めてくれた。地面に足が着いたとたん、膝が笑って、閣下の腕をつかんでしまった。
「すみません」
「初めての者は、皆そうなる。兄上もだろう」
「お兄様は、まだ乗っていないはずです」
「そのうち乗る。北の牧場の連中が、放っておかない」
ピラールが、柵の外で、なぜか私より誇らしげな顔をしていた。
閣下が、セニーサの首を叩きながら、私を見た。
「君の分は、何を持って帰る」
厩の通路で、同じことを聞かれた。あのときは、答えられなかった。
今は、答えがあった。
「今日の分は、この高さです」
閣下の目が、ふっとやわらいだ。それでいい、と言われた気がした。
* * *
帰りがけに、丘のふもとの囲いを見ていった。
母馬のそばに、レクエルドがいた。前に見たときより、ずいぶん大きくなっていた。煤けた灰色の毛並みの中に、目の周りだけ、白い毛がちらほら混じりはじめている。
「白くなりかけてる」
「目の周りからだ。いずれ、全身がそうなる」
兄に見せたい、と思った。それから、兄はいつか自分の目でこれを見るのだ、と思い直した。
* * *
屋敷の門の前で、父が待っていた。
手に、封書を一通持っていた。
「北からだ。おまえ宛てだ」
北の宿場の印の押された、少し角の擦れた封筒だった。宛名の字を見て、私は手袋をはめたまま受け取った。
兄の字だった。




