君だけの分
六月の半ば、閣下が王都へ戻ってきた。
北から戻ったその足で、うちへ寄ってくださったらしい。乗馬上着の肩に、まだ街道の砂埃が白く残っていた。父は書斎から出てきて挨拶をし、それから、庭なら日が当たって気持ちがいいでしょう、と言って、私たちを庭へ出した。
前の父なら、言わなかったことだと思う。
ピラールが、薔薇の植えこみの向こうに控えた。声は届かないけれど、目は届く場所だ。ピラールはそういう場所を選ぶのがうまい。
「兄上から、言伝を預かってきた」
閣下は、ベンチの前に立ったまま言った。私が座るのを待ってから、自分は座らずに。
「朝の放牧を、館の窓から見た。明日は、柵まで歩く。厩には入れてもらえない。先生の言いつけを守っている。……少し不満そうだった」
私は笑ってしまった。厩に入れない兄の顔が、目に浮かぶようだった。
「それから、土産に、北の石を一つ送る、とも」
「お兄様が、私に、お土産を」
口に出してみると、不思議な響きだった。十二年、私が兄に持って帰るばかりだったお土産が、今度は北から、私のほうへ来る。
「旅のあいだ、兄上はずっと話していた。馬の話を」
閣下の声に、少しだけ笑いが混じった。
「五日のあいだ、宿でも、馬車の窓越しでも。私の知らない北の牧場の血統まで知っていた。最後の宿では、アンセルモ先生が、若様、もうお休みなさいまし、と何度も言った」
「兄は、二年分たまっていると申しておりましたから」
「二年分では、利かなかった気がする」
「北の牧場は、どんなところですか」
聞いてから、自分の声が思ったより弾んでいたことに気がついた。兄の分を聞くつもりだったのに、半分は、私が知りたかった。
閣下は、少し遠くを見るような目をした。
「朝が早い。夜明け前に厩の戸を開けると、馬が一頭ずつ出てきて、それから群れになって、丘を駆け下りる。水場まで。冷えた朝は、馬の背中から湯気が立つ」
「湯気が」
「兄上は、館の窓からそれを見て、しばらく口をきかなかった」
私は、その朝の兄の顔を思い浮かべようとした。うまくいかなかった。私の知っている兄の顔は、どれも、暖炉の火に照らされていたから。
それから閣下は、上着の内側から、小さな包みを取り出した。
「これは、私からだ」
薄い紙に包まれていた。開けると、鹿革の乗馬用の手袋が入っていた。やわらかくて、手のひらの側だけ、革が少し厚い。手綱を握るところだ。
手に取って、指を通してみた。
ぴったりだった。指の長さも、手のひらの幅も。私の手に合わせて作ったとしか思えなかった。
「どうして、手の大きさを」
「蹄鉄を持ったときに、見ておいた」
閣下はそれだけ言うと、私の顔は見ずに、包み紙を丁寧に畳み始めた。角と角を合わせて、折り目を指でなぞって。厩の通路で、ネーベ号の首を拭いていたときと、同じ手つきだった。
「秋までに、乗り方を教える」
畳み終えた包み紙を、閣下は自分の上着のかくしにしまった。
「今度は、君が自分で行く番だ」
* * *
手袋の指を一本ずつ確かめながら、私は、ふと気がついた。
これまで私が持って帰ったお土産は、どれも兄の分だった。木彫りの馬から、ネーベ号の蹄鉄まで。それから、閣下まで。
誰かが、私の分を持ってきてくれたのは、これが初めてだった。
八つの春から、ずっと、自分の分というものを考えたことがなかった。厩の通路で「あなたの分は」と聞かれたときも、答えられなかった。答えは、こうして向こうからやってきた。
胸の奥のほうが、少し痛かった。嬉しいのに、痛かった。
「私だけ、楽しんでもよろしいのでしょうか」
口に出してから、母の口癖の裏返しだと気がついた。あなただけ楽しむつもり、と、ずっと言われてきたのだ。
閣下が、手袋の上から私の手を取った。
大きな手だった。日に焼けて、手綱の当たるところが固くなっている。
「いい」
閣下は、まっすぐに私を見て言った。
「これは、君だけの分だ」
* * *
薔薇の向こうで、ピラールが咳払いをした。聞こえるように、ではなく、聞こえないように。それでも聞こえた。
閣下が手を離して、少しだけ、耳を赤くした。
「伯爵には、もう許しをもらってある。王立牧場で稽古をする。ベニートが引き綱を持つ。君の侍女も付いてくる」
「父が、許したのですか」
「断られなかった」
閣下は、少し考えるように間を置いた。
「断る理由を、伯爵はもう持っていない」
そうだった。娘は病弱ゆえ、と書く手紙は、もう父の机から出ていかない。
「閣下の分は」
思いついて、聞いてみた。
「閣下は、私に乗り方を教えてくださって、何を持って帰られるのですか」
閣下は、虚を突かれたような顔をした。間を置いて、口の端がわずかに上がった。
「君が乗れるようになったら、一緒に遠くまで行く。それが、私の分だ」
「最初の稽古は、次の水曜だ」
閣下は、北の砂埃の残る肩をすくめた。
「馬は、もう選んである」




