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「お兄様は外に出られないのに」と母が言うので、兄へのお土産に公爵閣下を連れて帰りました【連載版】  作者: みれいぬ


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薬の時刻【コンスタンサ視点】

 朝の薬の時刻になると、わたくしの足は、勝手にマテオの部屋へ向かいます。


 銀の匙を持って、廊下を歩いて、扉を開けます。開けてから、寝台が空なのを思い出します。マテオが北へ発って、もう十日になるというのに、毎朝同じことをしています。


 部屋は、冷えていました。


 出発の朝、先生の言いつけで開けた窓を、わたくしはその晩のうちに閉めました。誰もいない部屋に夜の風を入れても、仕方がありませんから。けれど暖炉には、火を入れていません。入れようとして、火掻き棒を持ったところで、手が止まりました。誰を温めるのか、分からなくなったのです。


 十七年、わたくしの一日は、この部屋の暖かさで測られてきました。


 朝の薬。昼の薬。咳が三つ続いたら背中をさする。熱があれば額の布を替える。夜中に息の音が変われば起きる。マテオの胸が上下するのを見ているあいだだけ、わたくしは安心していられました。部屋の外のことは、どれも、そのあいだに片付ければいいことでした。


 イネスのことも。


 あの子は、丈夫でした。生まれたときから声が大きくて、乳をよく飲んで、熱ひとつ出さない子でした。マテオが熱を出した冬、あの子は三つでしたけれど、わたくしは一度も、あの子の寝顔を見に行きませんでした。見に行く必要が、なかったのです。


 丈夫な子は、心配しなくていい子でした。


 それが、いつから、マテオを看る手になったのか。わたくしにも、よく分かりません。


 ただ、あの子が帽子をかぶって外へ出ていくのを見ると、胸の中がざらつきました。わたくしは、この部屋を出られないのに。マテオは、この部屋を出られないのに。あの子だけが、外の光の中へ、軽い足取りで出ていくのです。お兄様は外に出られないのに、と口にするたび、わたくしは本当は、わたくし自身のことを言っていたのかもしれません。


 でも、仕方がなかったのです。


 あの子は丈夫なのですから。


 ――そこで、いつも考えは止まります。止めておけば、それ以上、考えなくて済みますから。


* * *


 窓際の棚に、あの子が持って帰った物が並んでいます。


 蝋燭の燃えさし。縞のある石。皺を伸ばした赤い紙。どれも、あの子がマテオの頼みで出かけて、持ち帰ってきた物です。何の日の物なのか、わたくしは一つも聞いたことがありません。聞こうと思ったことも。


 一番端に、隙間が一つ空いていました。


 何があったのだったか、思い出せませんでした。思い出せないまま、わたくしは匙を持って、部屋を出ました。


* * *


 その日の午後は、久しぶりに外へ出かけました。


 少なくなった招きの中の一つ、古いお付き合いのある夫人の茶会でした。マテオがいないのですから、断る理由がありません。


 客間には、顔見知りの奥様方が何人か。お茶が注がれて、天気の話が済むと、一人が扇の陰で、楽しそうに言いました。


「そういえば、ベラルデ伯爵夫人。お嬢様のお加減は、もうよろしいの?」


 別の奥様が、くすりと笑いました。


「蹄鉄を提げてお歩きになれるくらいですもの、ねえ」


「泥の付いた、ネーベ号の。うちの主人が、厩の通路で見たんですって。それはもう、平気なお顔で」


「お嬢様、頬がとても赤いそうね。健康そうで、何よりだわ」


 皆さん、笑っていらっしゃいました。意地の悪い笑いではありません。面白い話を聞いたときの、明るい笑いでした。それが、いちばん応えました。


 わたくしは、何と答えたのでしょう。覚えていません。お茶はまだ半分残っていたのに、頭痛がすると言って、先に失礼しました。


 帰りの馬車の中で、扇の骨が一本、折れていました。いつ折ったのかも、覚えていません。


* * *


 屋敷に戻ると、玄関の広間で、イネスが手紙を読んでいました。


 帽子もかぶらず、階段の下に立ったまま、一枚の便箋を両手で持って。あの子の頬は、たしかに赤くて、口元が笑っていました。


「お母様。お帰りなさいませ」


 あの子は顔を上げて言いました。


「閣下からのお手紙です。お兄様が、北の館に着かれたそうです。旅のあいだ、一度も咳をしなかったって」


 わたくしは、その便箋に目をやりました。宛名は、イネスでした。


 わたくしの息子のことを、わたくしは、娘の手紙で知るのです。


「……そう」


 それだけ言って、わたくしは二階へ上がりました。あの子が何か言いかけたのが、背中で分かりました。振り向きませんでした。


* * *


 晩餐は、三人でいただきました。


 食堂で夫と娘と向かい合うのは、何年ぶりだったでしょう。マテオが部屋から出なくなってから、わたくしと夫は、たいていマテオの部屋で、盆に載せた皿をつついていましたから。


 長い卓の上で、銀の食器の音ばかりが鳴りました。夫はスープを口に運びながら、ときどきイネスのほうを見て、何か言おうとして、やめました。イネスは、北の高原は夏でも朝は冷えるそうです、と一度だけ言いました。閣下の手紙に書いてあったのでしょう。


「そう」


 と、わたくしはまた言いました。


 それ以上、話すことが見つかりませんでした。この子と二人きりで、何を話していたのだったか。マテオの具合のこと以外に、何か一つでも、この子と話したことがあったでしょうか。


 甘い物の皿が運ばれてくる前に、わたくしは席を立ちました。


* * *


 夜、マテオの部屋の小卓の前に座って、明日の朝の薬を量りました。


 瓶を傾けて、匙に一回分。いつもの量です。目を閉じていても、手が覚えています。


 量り終えて、匙を持ったまま、わたくしはしばらく動けませんでした。


 この一匙を、誰に飲ませるのでしたか。

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