玄関の外へ
出発の朝、兄の部屋の窓が開いていた。
アンセルモ先生が開けさせたのだ。五月の終わりの朝の風が入ってきて、カーテンの裾をふくらませていた。暖炉の火は、前の晩から落としてある。煙の匂いのしない兄の部屋に入ったのは、何年ぶりだろう。
「寒くない、お兄様?」
「寒くない。外は、こういう匂いなんだな」
兄は寝台の端に腰かけて、窓のほうへ顔を向けていた。部屋着ではなく、旅の上着を着ている。父の若いころの上着を詰めたもので、袖が少し短い。
荷造りは、ほとんど従僕のアントンが済ませていた。北まで兄に付いていく、うちで一番若い従僕だ。残っていたのは、棚の上の物だけだった。
「全部、置いていく」
兄は棚の前に立って言った。
「蹄鉄も?」
「ネーベの蹄鉄は、ここにあるのがいい。帰ってきたとき、ここにあってほしい」
兄は棚を端から端まで眺めて、一番端の、木彫りの馬だけを手に取った。小さな馬は、色が剥げて、耳が片方欠けている。兄が熱の下がるまで撫でていた馬だ。
「これだけ持っていく。北の馬に見せてやる」
兄はそう言って、木彫りの馬を上着の胸のかくしに入れた。
それから、アントンが鞄を下へ運んでいくのを待って、兄は私のほうを向いた。
「イネス。言いそびれてたことがある」
「何でございますか」
「縁談のこと。三つとも、僕は知ってた。知ってて、黙ってた」
兄は、棚の縁に指をかけたまま言った。
「言えば、君が苦しむだけだと思った。父上が同意しなきゃ、何も変わらないんだから。それで代わりに、土産を頼んだ。頼めば、君は外に出られるから。……でも、それは、僕の名前でしか君を外に出せないってことだった。ごめん」
客間で、兄が三つの家の名前を言ったとき、私は気づいていた。兄が知っていたことに。知っていて、蹄鉄を壁に掛けさせて、ネーベの跳び方を何度も話させたことに。
腹が立たなかったと言えば、嘘になる。あの晩、鏡に向かって言い返した言葉のいくつかは、本当は兄にも言いたかった。
「お兄様」
「うん」
「次からは、知らせてください。苦しむかどうかは、私が決めます」
兄の目が、少し大きくなった。それから、兄はゆっくり笑った。
「そうする。約束だ」
* * *
階段は、兄が一人で下りた。
手すりをつかみ、一段ずつ。あの日よりは、少しだけ速かった。広間で待っていた父も母も、今日は駆け寄らなかった。先生が、二人の前に立っていたからだ。
兄は、玄関の扉の前で立ち止まった。
ピラールが扉を開けた。
光が、広間の床の上にまっすぐ差しこんできた。兄は眩しそうに目を細めて、それから、敷居をまたいだ。
玄関の石段の上で、兄はまた止まった。
門の外の通りを、荷車が通っていく。パン屋の小僧が、籠を頭にのせて走っていく。どこかの家の窓から、誰かが誰かを呼ぶ声がする。兄はそれを、ひとつ残らず聞いているような顔をしていた。
「……音が、多いな」
「通りですもの」
「窓の中から聞いていたのと、同じ音なのに。全然違う」
兄は空を見上げた。薄い雲が、北のほうへ流れていた。
門の前には、旅の馬車と、閣下の馬が並んでいた。閣下は馬の手綱を持ったまま、こちらを見ていた。北の牧場まで、兄を自分で送っていくと言ったのは閣下だった。王家の一歳馬の様子も見てこなければならないから、ついでだ、と。ついでの顔ではなかった。
「マテオ殿。北までは五日かかる。疲れたら、遠慮なく言ってくれ」
「遠慮しません。二年分、言いたいことがたまってるんです。馬の話で」
「それは、楽しみだ」
* * *
母は、玄関の石段の下で、兄の膝掛けを抱えていた。
部屋で毎日兄の肩にかけていた、厚い毛織の膝掛けだ。房が何度も結び直されて、ところどころ不揃いになっている。
「マテオ。せめて、これを」
兄は、膝掛けを見た。それから、母を見た。
「北は、夏なんでしょう、母上。要りませんよ」
兄はやさしく笑って、膝掛けを受け取らなかった。母の腕の中で、膝掛けの房が揺れた。
父が、兄の肩に手を置いた。長いことを言いそうな顔をしていたのに、父の口から出てきたのは、短い一言だけだった。
「……先生の言うことを、聞くように」
「はい、父上」
兄が馬車に乗りこむ前に、私を振り返った。
「イネス」
「はい」
「今度は、僕が持って帰る。君の行けない場所から、君に一つ」
何のことか、私には飲みこめなかった。
「私の行けない場所なんて、ございますか」
「北の高原。まだ行ってないだろう」
兄は、いたずらを思いついたときの顔で、片目をつぶった。
「楽しみにしてて。今まで君がしてくれたのの、逆だ」
馬車の扉が閉まった。アンセルモ先生が向かいの席に、アントンが御者台に座った。
閣下が馬に乗った。手綱を取る前に、馬上から私を見下ろした。
「戻ったら、渡すものがある」
「何でございますか」
「戻ったら、だ」
それだけ言って、閣下は馬の首を門のほうへ向けた。
* * *
馬車が動きだした。窓が開いていて、兄の手が見えた。その手が、通りの角を曲がるまで、ずっと振られていた。
見えなくなっても、私はしばらく門の前に立っていた。
振り返ると、母が、まだ玄関の石段の下にいた。膝掛けを抱えたまま、角のほうを見ていた。父が「中へ入ろう」と言っても、動かなかった。
私は、二階を見上げた。
南の角の、兄の部屋の窓は、誰も閉めないままだった。カーテンが一枚、風に吸い出されて、窓の外でゆっくり揺れていた。




