第1話 昔は、僕が奢っていた
たかしは、自分の人生が壊れ始めた瞬間を、正確には覚えていない。
大きな事故があったわけでもない。
誰かに裏切られたわけでもない。
ある朝、突然すべてを失ったわけでもない。
振り返ってみれば、たぶん最初は、本当に小さなことだった。
「たかし、今日暇?」
そんな電話だった。
それだけだった。
たったそれだけの電話が、何年も何年も続いていった。
そして気がついたときには、たかしは仕事を失い、家を失い、片脚を失い、北海道の冬を路上で迎えようとしていた。
けれど、このときのたかしは、そんな未来を知らない。
まだ三十九歳。
まだ、自分にも何かが残っていると思っていた。
――少なくとも、友達だけは。
◇
高校時代。
たかしには五人の親友がいた。
まさと。
ひろし。
なおと。
ながと。
りょうた。
六人は高校時代、いつも一緒にいた。
昼休みも一緒。
放課後も一緒。
休日も一緒。
くだらない話をして、笑って、時には喧嘩もした。
卒業の日、六人で撮った写真は、今でもたかしの大切な宝物だった。
写真の中の六人は、全員笑っている。
誰も将来のことなんて考えていなかった。
年収がいくらになるとか。
どんな会社に入るとか。
結婚するのか。
子供を何人持つのか。
そんなことは、どうでもよかった。
「俺ら、ずっとこのままだよな」
誰かがそう言った。
六人は笑った。
「当たり前やろ」
「じじいになっても飲んでそうやな」
「その頃には全員ハゲてるわ」
そんなくだらない会話をしていた。
たかしは、その頃の自分たちが好きだった。
そして、今でも好きだった。
◇
高校を卒業すると、六人の進路は分かれた。
たかしは大学には進まなかった。
家の事情もあり、すぐに働き始めた。
まだ十代だった。
右も左も分からないまま、社会人になった。
一方、五人は大学へ進学した。
まさとは美容師を目指した。
ひろしは車が好きだった。
なおとは営業職に興味を持っていた。
ながとは銀行員を目指した。
りょうたは弁護士になると言っていた。
「お前ら、大学行くんか」
卒業前、たかしが言った。
「うん。俺、弁護士になるから」
りょうたが笑った。
「すげえな」
「たかしは?」
「俺は働く」
「じゃあ、たかしが一番金持ちになるかもな」
みんな笑った。
実際、その通りだった。
少なくとも、最初の頃は。
◇
社会人になって数年。
たかしは五人より先に給料をもらっていた。
まだ大した給料ではなかった。
それでも、大学生だった五人からすれば、自由に使える金を持っているたかしは少し羨ましい存在だった。
ある日、りょうたから電話がかかってきた。
「たかし」
「ん?」
「今日、飲みに行かん?」
「ええけど」
電話の向こうから、少し沈んだ声が聞こえた。
「……俺、司法試験の勉強、全然うまくいかん」
「そうなん?」
「向いてないんかな」
たかしは少し考えた。
「そんなことないやろ」
「でも、周りはどんどん先に行ってるし」
「一回飲みに行こうや」
「金ない」
「ええよ。俺が出すから」
たかしは何気なく言った。
その言葉が、後の人生を大きく変えることになるとは知らなかった。
◇
その夜。
二人は安い居酒屋に入った。
「何飲む?」
「ビール」
「じゃあ俺も」
乾杯。
りょうたは最初こそ沈んでいたが、酒が進むにつれて少しずつ笑うようになった。
「たかしってさ」
「ん?」
「昔から優しいよな」
「そうか?」
「そうやってすぐ奢るやん」
「別にええって」
「いや、ありがとう」
その言葉を聞いて、たかしは嬉しかった。
誰かの役に立てた。
それだけでよかった。
会計は、たかしが払った。
数千円だった。
たかしにとっては、それほど大きな金額ではなかった。
店を出ると、りょうたが言った。
「今日はほんまありがとう」
「ええって。また行こうや」
「うん」
二人は別れた。
たかしは一人で駅へ向かった。
夜風が気持ちよかった。
そのときのたかしは、満足していた。
友達を助けることができた。
自分にも、人を喜ばせることができる。
そんな小さな自信があった。
◇
数週間後。
今度はまさとから電話が来た。
「たかし、今日空いてる?」
「空いてるけど」
「飲みに行こうや」
「ええよ」
まさとも悩みを抱えていた。
美容師として働き始めたばかりで、先輩との人間関係に疲れていた。
「もう辞めようかな」
「ええやん。まさとならできるって」
「ほんま?」
「うん」
その日も、たかしが支払った。
まさとは何度も礼を言った。
「たかしってほんま優しいな」
また、その言葉を聞いた。
たかしは笑った。
「友達やからええって」
◇
それから、少しずつ同じことが増えていった。
ひろしが悩んでいる。
なおとが仕事で落ち込んでいる。
ながとが大学のことで悩んでいる。
りょうたが試験に落ち込んでいる。
誰かが苦しんでいるとき、たかしは一緒に飲みに行った。
「今日は俺が出すよ」
いつしか、それがたかしの口癖になっていた。
そして五人も、それを当然だとは思っていなかった。
少なくとも、最初は。
「ありがとう」
「今度返すから」
「次は俺が奢る」
そんな言葉があった。
たかしも、
「ええって」
と笑っていた。
◇
年月が流れた。
五人は大学を卒業した。
就職した。
それぞれの道を進んだ。
まさとは美容師として頭角を現した。
ひろしは高級車のディーラーになった。
なおとは不動産会社で営業成績を伸ばした。
ながとは銀行員になった。
りょうたは司法試験に合格し、弁護士になった。
そして、五人は次々と結婚した。
子供も生まれた。
たかしは、結婚式に何度も呼ばれた。
スーツを着て、祝福した。
「おめでとう」
「ありがとう」
「子供できたんか」
「うん」
「ええな」
たかしは笑った。
本心だった。
羨ましいとは思った。
でも、妬ましいとは思わなかった。
むしろ嬉しかった。
高校時代から知っている友達が幸せになっていく。
それは、自分のことのように嬉しかった。
◇
ある日の飲み会。
六人で集まった。
昔と同じように、くだらない話をしていた。
その中で、たかしが何気なく言った。
「俺も結婚したいな」
「彼女は?」
「おらん」
「じゃあ紹介してやるよ」
まさとが言った。
「ほんま?」
「うん。今度な」
「俺も探しとく」
ひろしも言った。
「俺の知り合いにもおるかもしれん」
なおと。
「銀行にも結構いるぞ」
ながと。
最後にりょうたが笑った。
「たかしなら、絶対いい子見つかるって」
たかしは照れくさそうに笑った。
「ほんまに?」
「ほんま、ほんま」
「じゃあ頼むわ」
「任せとけ」
その夜。
たかしは久しぶりに、未来のことを考えた。
自分にも、いつか家庭ができるかもしれない。
妻がいて。
子供がいて。
仕事から帰ったら、
「おかえり」
と言ってもらえる。
そんな生活。
たかしには、それが夢だった。
◇
だが、その「いつか」は来なかった。
一年経っても。
二年経っても。
三年経っても。
誰も女性を紹介してくれなかった。
それでも、たかしは催促しなかった。
「そういえば、女の子の話どうなった?」
そんなことを聞くのは、厚かましい気がした。
だから待った。
友達が忙しいのだと思った。
そのうち紹介してくれる。
きっと。
そう思っていた。
◇
たかしが三十九歳になった頃。
五人は、さらに成功していた。
まさとは人気美容師になり、年収は2,000万円を超えていた。
ひろしも高級車を次々と販売し、年収2,000万円を超えていた。
なおとは不動産営業のトップクラス。
ながとはエリート銀行員。
りょうたは弁護士。
全員が年収2,000万円を超えていた。
そして全員、家庭を持っていた。
休日には家族で出かける。
子供の話をする。
学校の話。
習い事。
運動会。
誕生日。
たかしには、どれも縁のない話だった。
一方のたかしは、年収約300万円。
資格なし。
遅刻や無断欠勤が増え、会社からの信用も失っていた。
そして、2,000万円を超える借金を抱えていた。
それでも五人と会えば、たかしは笑った。
「最近どう?」
「まあまあ」
「仕事頑張ってる?」
「うん」
「資格取った?」
「……まだ」
「早く取れよ」
「うん」
怒らない。
言い返さない。
笑う。
昔からそうだった。
◇
ある日。
りょうたから電話が来た。
「たかし、今日飲もうぜ」
「今日?」
「うん。明日休みやから」
「……分かった」
たかしは電話を切った。
そのときは、まだ知らなかった。
それが、たかしの人生を少しずつ壊していく「日常」の始まりだったことを。
そして、このときのりょうたも知らなかった。
自分が「週一回」だと思っている飲み会が、たかしにとっては週の始まりにすぎなかったことを。
日曜日の夜。
まさと。
月曜日の夜。
ひろし。
火曜日の夜。
なおと。
水曜日の夜。
ながと。
木曜日の夜。
りょうた。
五人とも、それぞれ自分だけがたかしを誘っていると思っていた。
だから誰も疑わなかった。
たかしが、週に五回飲んでいることを。
たかし自身も、まだ深く考えていなかった。
ただ、電話が鳴れば、
「うん」
と言う。
誘われれば、
「行くよ」
と言う。
会計になれば、
「俺が出すよ」
と言う。
そして最後に、
「たかしは昔から優しいよな」
と言われる。
その言葉を聞くたびに、たかしは少しだけ嬉しくなる。
自分には、これしかない。
そう思っていた。
優しさしか、取り柄がない。
その思い込みが、やがてたかし自身を縛る鎖になることを――。
このときのたかしは、まだ知らなかった。




