ex.1 とある日の午後の夫婦の時間
前回の余韻をぶち壊す感じのお話&お産の話なので、不要と思う方はそっとお戻りください。
その日、ノエルは昼食後、談話室のカウチソファで本を読んでいた。
もう臨月で、お腹もずいぶん大きくなり、いつ生まれてきてもおかしくない状態だ。
外出するのも憚られ、食事を済ませた後はこうして本を読むことが増えた。
――そして、この時間。それを阻止しようとする者との戦いの時間でもあったりする。
「ノエル、少し立ってくれないか」
文字を追っていた目を上げると、いつの間にかやってきたらしい背の高い夫がこちらを見下ろしていた。
「? はい、なんでしょう」
大きなお腹では立つのも一苦労だが、何の疑問も抱かず、ノエルはよいしょと素直に身を起こす。
そして、夫――サフィールの次の行動に目を剥いた。
「!?」
彼はあろうことか、ノエルを立たせた後、彼女が今しがた座っていた場所へ、なんの躊躇いも無くどんと腰を下ろした。
(え? 場所、取られた? 隣、空いてたのに?)
彼の意味不明な行動に、思わず「何がしたいんだ」と苦言を言おうとすると、サフィールはおもむろに自身の膝と膝の間をぽんぽんと叩き、「さあ、いいぞ」と声をかけてきた。
「すみません、サフィール様。意味がわかりません」
「なぜだ。私を背もたれにするのは嫌なのか」
「……」
ノエルは本を持っていない方の手でこめかみを押さえ、天井を仰いだ。
(今日はこう来たか……)
最近のサフィールは、一緒に出掛けることができないノエルに対し、こうして謎のスキンシップを取ることが増えた。
毎回手を変え品を変え、ノエルの読書タイムを邪魔してくるのだ。
まだお腹が目立たなかった頃は、ノエルの膝枕で昼寝をするのが、休日の彼の日課だった。
だが、お腹が大きくなるにつれ、彼のほうから遠慮するようになり――
その結果、明後日の方向へ進化した“かまってちゃん”が誕生してしまったのである。
「……嫌というわけではないのですが。サフィール様も本を読むんですよね?
それなら、隣同士で仲良く並んで座ったほうが、お互い集中できると思うのですが」
「なんだその拷問は。文字の内容がひとつも頭に入ってこないのが容易に想像できるぞ」
「私は、身体を密着させているほうが集中できないんですが……」
「大丈夫、邪魔はしない」
サフィールはそう告げるが、まったく信用ならない。
間違いなく、後ろから抱きしめられて、ちょっかいをかけられる未来が見えている。
どうしようかと、ノエルがなかなか座ろうとしないでいると、予想外にもサフィールは、寂しいと言わんばかりに少し眉を下げてみせた。
たいていはここで、ノエルが何か折衷案を出すか、あるいは彼の行為を阻止するべく動くのだが――今日は違った。
彼女が本気で困っていると捉えてしまったのだろう。
いつでも妻ファーストな彼は、自分がノエルを困らせてしまったと、心の中で絶望しているに違いない。
……なぜなら、その顔に、次第に悲愴の色が浮かんできたのだから。
本当に、わかりやすい性格をしている。
(ああ……今日も私の負け)
「じゃあ、失礼します……」
結局、ノエルは彼の膝の間にすぽりと収まった。
遠慮なく背に体重を預けると、頭の上から彼の息遣いが落ちてくる。
(やっぱり、私が集中できないわ……)
内心でざわめきを感じつつも、少し斜めにもたれかかり、彼の胸に顔を預けたまま本の続きを読むことにした。
サフィールは、妻と触れ合えることで満足したのか何も言わず、ひじ掛けに置いてあった自分の本を、器用にも片手で広げて読み始めた。
空いた手は、もちろんノエルの髪をいじっている。
邪魔をしないと言ったのに、どうやらこれは邪魔に入らないらしい。
たまに聞こえる彼の喉が鳴る音に、ノエルは何度も意識を引き寄せられてしまう。
ページを追う目は何度も滑り、同じ文を繰り返しなぞっていく。
しかも、彼の落ち着いた鼓動とあたたかな体温が心地よく、次第にうとうとと微睡みはじめていた。
そしてとうとう――ノエルの手から本が滑り落ちた。
――パサリ。
「あっ、すみません」
本が落ちた衝撃で、舟を漕いでいた意識が一瞬で引き戻される。
ノエルがサフィールの腿の上に落ちた本を拾い上げようとすると、その目の前で本を取り上げられてしまった。
「……少し寝るか?」
「え、ええと……」
「君の好きな体勢でいい。ソファで横になりたいなら、ブランケットを持ってこよう」
「あ、いいえ。……このまま、サフィール様の胸をお借りしてもいいですか?」
がっつり眠いわけではない。
けれど、覚醒するには惜しい――いまの体勢は、絶妙に心地よかった。
「……もちろん、かまわない」
「ふふ、ありがとうございます」
起こした身体を再び彼の胸に預け、静かに目を閉じる。
添えた手から伝わる彼の鼓動は、なぜか先ほどよりも少し早く感じられた。
――まるで、彼のほうが落ち着かないかのように。
一定のリズムで頭を撫でる手の感触。
それが心地よい眠気を誘い――ノエルは、あっという間に夢の中へと落ちていった。
◇
(私はきっと、そのうち聖人になれるに違いない)
腕の中で、愛しい妻がすやすやと可愛らしい寝息を立てている。
もちろん、出産を間近に控えた妻に無体なことなどできるはずもなく……
この数か月、サフィールはノエルに対する溢れ出る欲を、彼女を構い倒すことでなんとか発散させていた。
(というより、聖女なのはノエルのほうか)
彼女は、自分の鬱陶しい絡みを聞き流すでもなく、すべて受け止めようとした上で、ときに話し合い、ときに諭し、ときに叱り、受け入れてくれた。
こんなどうしようもない自分に、どんなときでも真剣に向き合おうとしてくれる彼女は、間違いなく聖女に違いなかった。
妻への愛情は、留まることを知らない。
……自分でも、少し引くくらいに。
同時に、お腹の子への愛情もただ大きくなるばかりだ。
サフィールは、子どもの性別や、どちらに似てほしいかなど、何のこだわりもなかった。
それは、この子が二人の愛の証であることに変わりはないからだ。
(――ただ、私はきっと、この子に嫉妬する日が来るのだろう。
それがなぜかはわからないが、私の勘が、そう告げている……)
あまり触るとお腹が張ると言われているため、彼女の腹には許可なく触れないようにしている。
いつ生まれてきてもおかしくない――来るべき時に備え、自分なりに心の準備もしてきた。
ついこの前まで子どもに返っていた自分が父親になるなど、なかなかに滑稽だと思う。
だが、こちらとて彼女に世話を焼かれたという稀有な経験があるのだ。実際の子育てに活かさない手はない。
(とはいえ、その経験が役に立つのは、あと五年ほど先になるのだろうが)
◇
(……痛い)
どのくらい眠っていたのだろうか。
まだ眠たいのに、定期的に訪れる下腹部の痛みに、ノエルは思わず「んっ」と声を漏らした。
「おはよう、目が覚めたか」
頭上から聞こえた声に、ノエルは視線を合わせた。
「サフィール様……。
じつはさっきから、一定間隔で痛みが来ている気がします……」
前にも似た痛みはあったが、今回はかなり間隔も短い。これは――いよいよである。
「なんだとっ!?」
ノエルの言葉に血相を変えたサフィールが、ゆっくりと彼女の身体を起こし、自身も立ち上がる。
そして部屋の隅に用意してあったタオルを取りに行くと、それを彼女に手渡した。
「下腹部に当てて。今から分娩用の部屋に移動する」
サフィールはノエルの身体を支えるようにして、ゆっくりと扉へと歩を進める。
彼の言う分娩用の部屋とは、談話室の隣にある客室の一室のことだ。
ここでお産ができるよう、あらかじめ部屋を整え、必要な備品も準備してあった。
「……いたた、……ありがとうございます……」
ノエルは、陣痛が来たら自分も夫もきっとパニックになるのだろうと思っていた。
けれども、想像以上に夫が落ち着いており、自分もそれに引きずられるように慌てずにいられている。
ただ、ひたすらに痛みと、出産への不安だけが押し寄せてくる。
移動の途中、サフィールはアレックスに産婆へ連絡するよう指示を出し、マーサにはお湯の準備を命じた。
「サフィール様、なんだか手慣れてますね……」
痛みは次第に強くなっていたが、気づけばそんな軽口を口にしていた。
「頑張って予習していたからな。万事抜かりなしだ。
もし産婆が来なくても、私が立派に取り上げてみせる。
来たとしても、きちんと君のそばについて支えるつもりだ」
「えーと……」
――正直、夫にそこまでは望んでいない。
むしろ、いきんで叫んでいる姿をサフィールに見られたくないため、できれば産婆が来たら速やかに交代し、退席してほしかった。
だが、彼は有言実行の人だ。
さっき部屋を出る前、彼が読んでいた本のタイトルが、
『素人でも玄人に! 妻の妊娠から出産立ち合いまでを徹底解説』
という、いかにもなものだったことを、ノエルはしっかりと目にしていた。
(どうやったら傷つけずにサフィール様を部屋から追い出せるかしら……)
痛みが来れば、そのたびに痛み逃しに必死になり、痛みが引けばサフィールの退出方法について頭をフル回転させる。
できれば出産にすべての意識を向けたいのに、ノエルの頭は余計なことで大忙しだった。
ほどなくして、産婆がやってきたと告げられる。
それと同時に、マーサが「ほら坊ちゃん! 旦那は黙って外で祈りを捧げるに限ります!! 奥様を集中させてあげてください!」と大声でまくしたて、彼を回収してくれた。
「な、私はここで立ち合いして、この手で我が子を――、!」
「はいはいはいはい。坊ちゃん、廊下に椅子をご用意しておきましたよ」
「アレックスまで! 誰か私の味方はいないのか! おまえら、後で覚えていろっ!」
廊下でわあわあと夫の声が聞こえるが、ノエルの耳には、もはや何も届いていなかった。
◇
キングリーの屋敷に、夕方、小さな産声が響き渡った。
初産だというのに何の問題もなく、するりと生まれた。産婆もお墨付きの安産だった。
それまでの緊迫感が嘘のように、屋敷は一転してお祝いムードに包まれる。
産婆によって取り上げられた赤子は、綺麗に拭われ、いまは出産を終えたばかりのノエルの腹の上に抱かれている。
驚くほど小さな我が子に、ノエルは壊れ物を扱うかのようにそっと触れた。
と、そこへ――ようやく入室の許可が下りたらしいサフィールがやってきた。
「……お疲れ様。ありがとう」
彼の言葉は少なかった。
ただ、声は震え、頬にははっきりと涙が伝っていた。
「あらあら……ほら、こちらに来て下さい。涙を拭って差し上げます」
五歳に戻っていた頃の影響か、それとも元から涙もろい人だったのかはわからない。
ただ、元に戻ってからのサフィールは――これはノエルも人のことを言えないが――かなり涙もろくなっていた。
彼はノエルに近付くと、ベッドの脇にしゃがみ込み、甘んじて彼女が袖で自身の涙を拭ってくれるのを受け入れた。
「……君が無事でよかった。それに、彼女が無事に生まれてきてくれてよかった……」
サフィールが「彼女」と言ったとおり、生まれてきた子は女の子だった。
金の巻き毛をしていることから、どうやらキングリー家の血筋が濃いらしい。
ノエルは腹の上で抱き留めている我が子を見て、それからサフィールに向かって微笑んだ。
「はい、このとおり、母子ともに元気ですよ。今日まで私たちを支えてきてくださって、ありがとうございました」
「待て。その言い方は語弊がある。私が君たちを支えていくのは、これからが本番なのだが」
「まあ、それはそうなんですが……」
ノエルはそれから「あ」と、今しがた思い出したことを口にした。
「そうだ、お伝えし忘れてました。私、しばらくはここの部屋で寝泊まりするので、サフィール様はご自身の部屋で寝てくださいね」
「は!? 何を言っている。私も世話をするから、同室で問題ないだろう」
「そうは言っても、この子は二、三時間おきに起きますし、そのたびにあなたが起きてしまうと、お仕事に支障を来してしまうでしょう?
それに、この子はちょっとした物音でも起きてしまうと思うので、朝が早いあなたに逆に起こされてしまうと思うんです」
「そ、そんな……!」
「なるべく乳母を使わずに育てたいなんて言った私のわがままを聞いてくださって、ありがとうございます。
この子がまとまって寝るようになったら、夫婦の寝室で三人で寝ましょうね」
「まとまって寝るようになったらって……確か、生後三か月から半年……」
自分で口にしてみて、サフィールはその期間の長さにショックを受けた。
彼の肩が、わなわなと震えだす。
「子どもが生まれたら三人で一緒に寝る!」と夫が息巻いていたのを知っていたノエルは、サフィールの様子に少しばかりいたたまれない気持ちになる。
だが、決して彼を騙したわけではない。
ただ――その願いが叶う時期を、言わなかっただけだ。
「く、苦行すぎる……」
「大丈夫ですよ。ちゃんとサフィール様のベッドには、彼らが待っているでしょう?」
――猫ちゃんとクマちゃんが。
サフィールが愛する妻からの死刑宣告に言葉を失っていると、産後はまだ母体も安定していないからと、彼は部屋からけんもほろろに追い出され、しばらく入室禁止を言い渡された。
――サフィールはその日、二つのぬいぐるみを抱きしめ、めでたい日だというのに、寂し涙を流しながら眠った。
◇
翌日から、職場でのサフィールは“鬼の室長”の名をほしいままにし、荒れに荒れた。
シイルを筆頭に、職場の者たちは「え、お子さん生まれたんですよね……?」と、幸せの絶頂であるはずの上司が、自分たちの予想とは真逆の反応を示すことに、終始首を傾げていた。
一方、屋敷では――
サフィールの念願が叶うまでの間、赤子をそっちのけでノエルに甘え倒していた。
妊娠期間中の比ではない“かまってちゃん”っぷりに、ついにノエルはキレた。
「三十を超えたいい大人が、何赤ちゃん返りして対抗してるんですか!」
もちろん、屋敷中の皆からも、ノエル同様のツッコミをあちこちで受けた。
(私の味方が誰もいない――)
けれど、しゅんとしてしまう彼に癒やしを与えたのは、我が子であるソフィアだった。
彼女のふにゃふにゃの顔を見ると、それまでのことがどうでもよくなってしまう。
結局、サフィールの執着は二人に分散した。
――キングリー家は、今日も賑やかで、平和である。
そしてそれは、これからもきっと変わらない。
イチャイチャとドタバタを詰め込んだだけの話でした。
明日夜、もう一話追加予定です。




