26.二人の翌日
「今日は一人で寝る」
「え!? 一緒に寝ないんですか!? 一人で怖くないですか!?」
誕生日の日の夜。
すっかり隔たりはなくなったと思っていたのに、突然サフィール様がそんなことを言い出した。
「……猫ちゃんと、クマちゃんと寝るから、たぶん怖くない」
もじもじと視線を逸らしながら言う姿は、やっぱりまだ子どもで。
本当は――私のほうが、寂しい。
今日は、小さな彼を抱きしめながら、幸せな気持ちで眠るのだと。
勝手に、そんな時間を心待ちにしていたから。
「もし寂しくなったら、こっちへ来てくださいね。私はいつもの寝室で寝ていますから」
胸の奥に小さな空白を感じながらも、私は微笑んだ。
きっと、何か思うところがあるのだろう。
そこは、夫の意思を尊重することにした。
◇
(……眠れない)
今日はいつにもまして、目が冴えていた。
なにしろ――今日、夫から四度目のプロポーズを受けたのだから。
あの光景と言葉を思い出すだけで、胸がまた騒ぎ出す。
一面に広がるジル草のピンク。
あれは、きっと一生忘れない。
実家の畑で見た景色も、幼い私には宝物だった。
けれど今日のあの場所は――もしかすると、その記憶さえ塗り替えてしまったかもしれない。
(あれ……待って)
ふと、思考が止まる。
あのとき、サフィール様は言った。
「君の実家より?」と。
けれど――
この“実家で一面のジル草を見た話”をしたのは、旦那様のほうだ。
サフィール様には、話していないはず。
(また、アレックスかマーサのおせっかいね)
そう結論づけた瞬間、すっと力が抜けた。
さっきまで冴えていた瞼が、急に重くなる。
――今日は、あまりにも多くのことがありすぎた。
隣にいるはずの温もりがないことを、少しだけ寂しく思いながら、
気づけば、私の意識はゆっくりと、夢の中へと落ちていった。
◇
(――暑い)
すっかり春になったとはいえ、それにしても、だ。
それに、何かが頬を這う感触がした。
やわらかくて、あたたかくて――
(虫……?)
「やだやだやだ!!!!」
飛び起きて、顔に触れていたものを思いきり振り払う。
その瞬間、低く不機嫌な声が、布団の中から落ちた。
「……ひどい」
(え?)
聞き覚えがある。
ひどく、懐かしい声。
一年以上、夢の中でしか聞いていなかった音。
その一言が、閉じていた記憶の蓋を、乱暴にこじ開ける。
恐る恐る視線を落とす。
私の隣。
そこに――“大きなもの”が寝ていた。
長い手足。広い肩。アッシュブラウンの癖毛。
そして、整いすぎているその顔を三割ほど台無しにする、深い眉間のしわ。
「夫を虫扱いするなんて、君はひどい」
もう一度、責めるように言う。
間違いない。
その声も、その顔も。
私の――
「いえ……」
喉がひくりと鳴る。
「勝手に元に戻って、勝手に布団に潜り込んで、あまつさえ妻の顔を勝手に触って起こすなんて……あなたのほうが、よほどひどくないですか?」
強がって言い返す。
けれど、声はどうしようもなく震えていた。
「妻を好きなときに触れられるのは、夫の特権だ」
しれっと言い換えるその態度に、胸の奥が熱くなる。
「じゃあ、好きなときに夫を抱きしめられるのも、妻の特権ですよね!?」
言い放つなり、彼が言葉を返すより先に――飛びついた。
大きな胸元に顔を埋める。
固い。けれど温かい。
包み込むような腕の長さは、初めて触れるものだ。
大人の彼と、こうして抱き合うのは――これが初めて。
それなのに。
どこか、幼かった彼の懐かしい匂いがする。
胸の奥で絡まっていた一年という時間が、
嘘みたいに、静かにほどけていく。
彼は一瞬だけ驚いたように息を呑み、
それからゆっくりと、長い腕で私を抱き寄せた。
「……ああ」
低い声が、耳元で震える。
「君が好きなときに抱きしめてくれ。ただし、私も同じようにするからな」
ほんの少しだけ、腕に力がこもる。
逃がさない、とでも言うように。
「もう、遠慮はしない」
――それは困る。私の情緒が、すぐに持たない。
腕にグッと力を込め、彼の硬い胸を押しながら、私だけ上半身を起こす。
寝ている彼を見下ろして言った。
「遠慮してもらわないと困ります!」
「? なんでだ。減るもんじゃないし」
「それ! 私が昔言ったセリフ!
勝手に取らないでください!」
夜中だというのに、割と大きな声で応戦し合っている。
いや、正確には、私だけが大声を出し、夫は静かにかわしている状態だ。
「文句は、甘んじて受け付けよう」
「あ、当たり前です! というか、なんで元に戻ったんですか。まだその返事を聞いてませんっ」
ふうふうと肩で息をしながら言う私に、夫は肩肘を立て、「はぁ」と息をつき、こちらを見つめる。
「研究室で言っただろう。『心配しなくても大丈夫だ。私もずっとこの姿でいる気はない』と」
「一体いつの話してます!?」
「まあ……一年以上経ってしまったのは、誤算だった」
「大誤算です。もう……なんでそんなに落ち着いてるの……」
思わず片手で額を抑える。
昨日の私の涙と決意を返して欲しい。彼の誤算に、私はずっと翻弄され続けてたのだから。
そのとき、不意に腕を掴まれた。
頭を押さえていた方の手を引かれ、そのまま彼の身体へと引き寄せられる。
そして――
私の手のひらが、彼の胸に押し当てられた。
伝わってきた鼓動は、明らかに早鐘を打っている。
「落ち着いてなんかない。見ろ、この心拍数の速さを。
実は、ここに潜り込んだ時からずっと緊張していたんだ。
知っているだろう、私は臆病な男だと」
「臆病すぎますよ……普通、ここで抱き寄せるとかしませんか。
子供のあなたは、もっと積極的だったのに……」
そう言う私の視線に、夫の顔が少し苦く歪む。
「あれは……じゃれてただけだ。
君を抱きしめたくて、でも抱きつくしかできなかったあの頃のむなしさを、君は知らないだろう。
しかも、抱き着いたら抱き着いたで、君は慈愛に満ちた目で抱き返してくるし……
『そうじゃない』と何度思ったことか……」
「そ、それは……あなたが可愛すぎるから……あんなに純粋に慕われて、母性が働かない女性なんて、いません」
「私は、それが……ずっと苦しかったんだ。
でも、ようやく自分から抱きしめることができる。
……触れるぞ」
敢えて前もって宣言するあたり、やっぱり不器用な夫らしい。
「妻を好きなときに触れられるのは、夫の特権なんですよね。
――いくらでも、どうぞ」
私の言葉に、彼はごくりと唾を飲み込む。
そしてそっと、私を自分の胸へと抱き寄せた。
「やっと、君をちゃんと抱きしめることができた」
顔が彼の胸に埋まっていて表情は見えないけれど、間違いなく、そこに安堵があるのだとわかる。
私も片方の腕を彼の身体の下へ潜り込ませ、ぎゅっと強く抱きしめ返した。
「私も……ようやく、あなたを本当の意味で抱きしめることができました。
嬉しくて……このまま眠っちゃいそうです」
疲れと安心がどっと押し寄せる中、そこに夫の温もりが加わったのだ。眠くならないはずがない。
「ああ、ゆっくり眠ってくれ。ただ……そのまえに」
「はい、なんでしょうか?」
抱き合ったまま彼を見上げると、その瞬間、彼の唇が降ってきた。
あまりの突然の衝撃に、目を見開く。
「――おやすみ、ノエル。よい夢を」
彼は、サフィール様を彷彿とさせるような屈託のない笑顔で微笑み、身体の向きを変えて目を閉じた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
さっきまで全開だった眠気は、もちろん全てふっとんだ。
(ま、待って……)
「ね、寝れるわけないでしょう~っ!!!!」
ガバリと身体を起こし、彼の大きな身体をバシバシ叩く。
「起きてください、旦那様!
こうなったら朝までとことん話し合いましょう!
これまで、お互いに積もり積もった気持ちを、全部、洗いざらい言い合うんです!
『元に戻ったら覚えてろ』、は私のセリフでもあるんですからねっ!!」
起こされて振り向いた彼の顔。
眉間にはしわ――
……が寄っていない。
ただ、困ったように見えた。
そして、静かに言葉を告げる。
その目は、確実に熱を持って私を見つめていた。
「――私は、遠慮しないと、さっき君に言った」
「え、はい。そうですね」
「私はもう大人だ」
「はい、そうです。もうあなたは大人です」
そして次に夫の口から告げられた言葉に、
私は文字通り、彼が本当に大人になったのだと確信した。
「ここで寝ないという選択肢をとるなら、私は君を、確実に、抱く」
想定外の言葉に、思わずぽかんと口が開いた。
その瞬間を逃さず、熱い視線を向けたままの夫が、私を再度引き寄せ、一瞬で唇を奪った。
「……ッ!」
けれど、すぐに顔が離れ、抱き寄せていた腕の拘束も解かれる。
「――これまで我慢してきたんだ。そんなに急ぐ気はないさ。
ただ……君にとっては、眠ってしまったほうがいいんじゃないか?
私は寝込みを襲うほど、ヘタレではない」
そう言うと、くるっと身体の向きを変え、背中を向けて寝てしまった。
あまりの感情の波に、私はまったく心の中の自分の気持ちが追い付かなかった。
けれども、一つだけわかったことがある。
「……おい」
背中にひしっと身体をくっつけると、彼は不貞腐れたように言った。
「君は、私に嫌がらせがしたいのか」
「私も、寝込みを襲うほど、ヘタレじゃないんです。
――なんで、我慢していたのが自分だけなんだと思ってるんです?」
ずっと、抱きしめて欲しかった。
ずっと、甘い言葉を聞きたかった。
元の姿で――低い声で論理的に話す言葉も、眉間にしわを寄せて苦言を言う姿も、
すべてひっくるめて、夫という人を知り尽くしたかったのだ。
「旦那様。私の勘が告げています。ここで寝たら、あなたは一生後悔すると」
「――人のセリフをとってまで言ったということは、覚悟はできているんだろうな?」
「フフッ……どこかの小悪党のようなセリフですね。
互いの将来を交換し合った仲じゃないですか。それこそ、臨むところです。
私も、私の直感を信じて、あなたと一緒になったのですから、……ぁ」
……私の言葉は、最後まで続かなかった。
さっき、我慢できるといったのは、どこの旦那様だったのだろうか。
そうか、私の――
私だけの夫様だ。
◇
カーテンの外が、薄っすらと明るい。
廊下で、使用人が歩いていくような音が聞こえる。
「――前々から言って通り、私はすぐに大きくなって、君に追いついて、君を追い抜かしたろう」
身も心も一つになったあと、夫はポツリポツリと断片的に話を始めた。
「……まさか、昨日の今日でそうなるとは夢にも思いませんでしたが……」
『すぐに大きくなる』の『すぐ』が、たった一日だとは、普通誰も思わないだろう。
「昨日、私はこれからも君と思い出をたくさん作っていくと宣言した」
「はい、しました」
「今日は子作り記念日だ」
「やめてください、絶対に人に言えません」
「そうか……」
残念そうに眉を下げる旦那様は、昨日三十歳を迎えたばかりとは思えないくらいに幼い。
「ねえ、旦那様」
彼のほうを向いてそう呼びかけると、逆に「ノエル」と名前で呼びかけられた。
彼は私の髪をゆっくりと梳きながら、懇願するように告げた。
「できれば……名前で呼んでくれないだろうか。あの姿でいたとき、唯一報われたのは、君に名前で呼んでもらえることだった」
私は間髪入れずに、彼の名を呼んだ。
「サフィール様」
私の中の"サフィール様"は、屈託なく笑う六歳を迎えた夫だったが、目の前の夫を名前で呼んでも、自然と口に馴染んだ。
そこで、やはり夫はサフィール様でもあるのだと確信する。
ふわっと目尻が下がり、フフッと笑う夫は、サフィール様を大きくしただけ。
やはり、サフィール様という人はすごい。
いくらでも、私はこの人に惹かれてしまうのだから。
とうとう、カーテンに朝日が差し込んできた。
もう使用人たちが朝食の準備を終え、部屋に呼びに来る時間になる。
が、それでもまだ、起きて支度をする気にはなれなかった。
「今後のことなんだが――」
夫が枕に頭を沈めたまま、こちらを振り向く。
「あ、お仕事のことですか?」
私は彼の腕枕にそっと手を添えて返答をするも、彼は眉根を寄せて否定の言葉を口にした。
「違う。仕事はまだいい。結婚式が先だ」
「いや、そこは絶対に仕事が先でしょうに……」
第一グループの面々には早々に戻ったことを教えてあげたほうがいいのではないだろうか。
特に、シイル先生なんかは、贖罪のつもりで職まで辞してしまっている。
「子供ができて、ドレスが着られないのは君も嫌だろう」
「子供は授かりものなんで、そんなすぐにはできません!」
せっかち過ぎる夫に、思わず呆れて突っ込んでしまう。
彼はやれやれといった様子で妥協案を口にする。
「仕方がない……けれども、式を挙げるのは半年以内だ。それより先は許容できない」
「はいはい……」
「あと、君の実家のジル草畑を見に行きたい。こっちは、いますぐにでも行けるだろう」
「実家の都合もあるので、そこは事前に調整が必要です。私の仕事も調整しないと……」
やりたいことを次々と言葉にする夫の顔は、子供のようにあどけなく、どこか興奮しているようにも見える。
結婚した当初は、彼にこんな一面があるなんて知りもしなかった。
そして、それを愛しいと思ってしまう自分も。
私は、まだ喋り続けている夫を静かに抱き寄せ、告げた。
「私、あなたの妻になれました?」
夫は私の質問に目を丸くしたあと、穏やかに笑って口を開く。
わかりきった質問をした自覚はある。
彼がなんと返答したかは、私たち夫婦だけの秘密だ。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。一旦完結です。よろしければ評価、リアクション、ブクマお願いします。
明日の夜、後日談で、どうやって元に戻っていったか種明かし話を追加する予定です。
もし興味あれば、そちらもお楽しみください。




