07. 一組:矢崎詩音はあまりのことに声が出なかった
ゴールデンウィークが終わって、少し経った六月頭の夜。
私……矢崎詩音のスマホが震えた。表示されたのは匠海さんの名前で、慌てて寮の部屋を出て一階の電話室へと走った。
「はい! もしもし、匠海さん?」
『こんばんは、詩音ちゃん。あのさ、来週末って空いてる? ちょっと付き合ってほしいんだけど』
「空いてるよ!」
何かと思ったら、匠海さんの担任の先生が手がけているレストランのペアチケットをもらったから誘ってくれたらしい。
『ドレスコードのある店だから、ちゃんとした服がいいんだけど、そういう服って持ってる?』
「じゃあ制服で行くね」
『助かる。当日は寮まで迎えに行くから待ってて』
「わかったよ。待ってるね。誘ってくれてありがとう」
『いや、こっちも助かった。同じ班の連中は彼女と行くだのなんだのって言ってて、困ってたんだ。でも美味しいものが食べられると思うから楽しみにしてて』
その後は少しおしゃべりしておしまい。
部屋に戻って、寧々子に話したら、
「せっかくだし、午前中にヘアサロン行ってきたらどう?」
って言われた。
「ちゃんとしたマナーが必要なお店なんでしょう? 詩音、髪が伸ばしっぱなしでボサボサしてきてるし、彼氏とか彼氏の先生に見られるなら、きれいにしたほうがいいよ」
「か、彼氏じゃないし!」
「でも、他の人は彼女連れて行ってるんでしょ? ってことは詩音がその匠海さんのパートナーなんじゃない?」
「そ……そうなのかなあ?」
ちょっとわかんないけど、確かに髪はそろそろ整えたい。
ずっとショートにしてきたけど、匠海さんがかわいいって言ってくれるなら、美海みたいなボブや寧々子みたいなロングに憧れがないわけじゃない。
「ちょっと、予約できるか電話してくるね」
「うん、行ってらっしゃい。あ、当日は軽くお化粧もしてあげるねえ」
「そこまでしなくてもいいのに」
「詩音には洒落っ気が足りないよ。女の子なんだよ? かわいくしてなんぼでしょ」
「うーん……?」
寧々子のお説教が始まりそうになったから、部屋を出てヘアサロンを予約した。
当日、制服にはブラシをかけたし、髪もきれいに整えてもらった。顔も結局寧々子に軽くお化粧してもらって、なんだかすごく張り切ってるみたいで、ちょっと恥ずかしい。
「なに言ってるのよ。きれいにしない方が恥ずかしいでしょうが!」
「そうかなあ」
「そうなの! あ、詩音、スマホ鳴ってる」
「わわ、ほんとだ。行ってくる!」
満面の笑みの寧々子に見送られて、私はカバンを持って部屋を出た。
帰りが遅くなりそうで、匠海さんの部屋に泊めてもらう約束をしているから、地味に荷物が多い。
寮を出ると、スーツ姿の匠海さんが立っていた。
「お待たせしました! ……匠海さん、だよね?」
「全然待ってねえけど……何か変か?」
匠海さんは困った顔で自分のスーツを見下ろした。
「ううん。変じゃないけど、かっこよくてびっくりした」
「そうかな」
「そうだよ。すごくスーツ似合ってるし、かっこいいのに、一緒に行くのが私で大丈夫?」
つい聞いちゃったら、匠海さんは少し呆れた顔で私の頭を撫でてくれた。
「そんなこと言ってくれるの詩音ちゃんだけだって。ほら、カバンちょうだい。うちに置いてから行こう」
匠海さんはカバンを受け取ると、反対の手で私の手を取って歩き出した。
すごい、スマートだ。
匠海さんは背が高いし、肩幅が広いから、かっちりしたスーツがよく似合っていた。
私の身長が百六十ないくらいで、それより頭一個分くらい大きいから百八十近いのかな?
妹の美海は百五十くらいで小柄だから、兄妹でどうしてこんなに差があるのか不思議だ。
……匠海さんは、美海が小さいのが自分のせいだと思ってるみたいだから、私は聞かないけど。
二人でバスに乗って匠海さんの部屋に私のカバンを置き、またバスに乗った。
電車で少し大きい駅に行って、駅前のホテルに向かった。
「シャンデリアすげー」
ホテルに入ってすぐ、匠海さんは天井を見上げてぽかんと口を開けた。
「大きいねえ。レストランは……最上階だって」
「行こうか」
匠海さんの手が離れた。
見上げると、柔らかく微笑んで腕が向けられる。
「かっ……!」
「どした!?」
「ごめん、かっこよすぎてめまいがしちゃった」
「何言ってんだよ。詩音ちゃんもかわいいよ。髪と顔、ちゃんとしてきてくれたんだろ?」
匠海さんは笑って、私の顔の横で揺れる髪を指先で軽く梳いた。
何食べたらこんなにかっこよくなるのさ。
今度、美海に確認してみよう。
「そ、その……変じゃない? 詩音が、こんなの」
「全然、変じゃない。すごくきれいでかわいい。ありがと、詩音ちゃん。俺のために」
「……うん。匠海さんのために、きれいにしてきたの。えへ……気づいてくれて嬉しい」
「気づくよ。ほら、そういうの気づかないと美海に怒られるから」
「たしかに。ふふ、でも美海、夜に言われるとすっごいテンパるんだよね」
「ほんとだよ。あのキザな小僧、美海が前髪を五ミリ切っただけで気づくからな」
匠海さんは笑って、また腕を私に向けた。
「お手をどうぞ、お嬢さん」
「ありがとう、匠海さん」
手を、そっと太い腕にかけた。
ゆっくり並んで歩き、エレベーターに乗った。
……匠海さんに見合う私になれているといいなあ。確認はできなかったけど。
上がった先は広々としたエントランスで、その向こうに大きな窓が広がっていた。
匠海さんが名前を告げると、窓際の席へと案内された。
メニューを見た匠海さんが、声を潜めて私の方に顔を向けた。
「フレンチのコースらしいんだけど、食べ方分かる?」
「えっと、最低限は。学校でマナー講座があったから」
「マジか。俺、全然わかんないから助けて」
そう言って眉を下げた匠海さんはいつもの匠海さんで、ちょっとかわいくて、つい笑っちゃった。
「ふふ、わかった。えっとね、ここメイン料理が魚とお肉、それぞれ選べるから、注文の時にどれがいいか伝えよう。あと飲み物と、食後のコーヒーと紅茶も選べるね」
「な、なるほど……?」
「分からなければ聞いちゃって大丈夫だと思うよ。匠海さんの先生からもらったチケットなんだよね?」
「うん。そっか、そうだよな。これも授業だわ。ありがと、詩音ちゃん」
匠海さんは落ち着いた表情に戻り、背筋を伸ばした。
手を軽く上げて店員さんを呼んだ。
「えっと、メニューの内容について教えてもらってもいいですか?」
「かしこまりました。当店のコースは七品のお料理を順次お出ししておりまして、まずはアミューズと呼ばれる先出しからお出ししております。本日は季節の野菜をふんだんに使用した――」
匠海さんは真剣な表情で頷きながら聞いていた。
かっこいいなあ。
私はほとんど説明を聞かず、匠海さんの顔ばかり見ていた。
「ご丁寧にありがとうございます。そうしたら、俺……私は魚料理はこちらで、肉料理は……をお願いします。詩音ちゃんは何にする?」
「あ、はい。私は……」
注文を終え、メニューを返す。
匠海さんは軽く息をつき、苦笑した。
「やー、いろいろ聞けて楽しかったけど緊張したわ」
「ふふ、かっこよかったよ」
「どこが? もう焦っちゃって冷や汗止まんなかったよ」
「真剣にメニューの話を聞いてるところ。匠海さん、本当に料理や食べ物のこと好きなんだね」
私がそう言うと、匠海さんは照れたような表情で横を向いてしまった。
つられて窓の外を見ると、遠くの海が光って見えた。
「すごい、いい眺めだね」
「だな。夜景もすごいんだろうな」
「そりゃそうよ」
低い声がして振り向くと、コック姿のおじいさんが笑っていた。
匠海さんは目を丸くして、頭を下げた。
「先生! あ、えっと、お邪魔してます……?」
「よせよせ、硬くならなくていい。今日は気楽に楽しんでいってくれ」
「ありがとうございます。料理、楽しみにしてます」
「そちらは、妹さんか?」
先生が私を見た。
匠海さんは笑って首を振った。
「妹の友達です。学校近くの女学院に通ってて、寮暮らしなので、たまに飯に付き合ってもらってます」
「矢崎詩音です。川瀬さんにはお世話になっています」
頭を下げると先生が首を傾げた。
「矢崎……? 矢崎重工のお嬢さん、か?」
匠海さんが怪訝そうに私を見た。
だから曖昧に頷く。
「……はい。ただ私は父の仕事については詳しくなくて。兄と姉がいるので、任せきりなんです」
「そうかい。矢崎のお嬢様の口にも合う、絶対美味いものを出している自信があるから、楽しんでいってくれ」
「はい、ありがとうございます」
もう一度軽く頭を下げて先生を見送った。
匠海さんは手元の水を飲んでから私を見た。
「詩音ちゃんって、もしかしてけっこうなお嬢様?」
「……どうかなあ」
あーあ。
匠海さんにはバレたくなかった。
世間から見たら矢崎のお嬢様かもしれないけど、家の中では詩音は見捨てられてて、いないも同然の扱いなのに。
「ごめんね、匠海さん。黙ってて。その……私、あんまり」
「いーよ、言わなくて」
匠海さんが明るく笑った。
笑顔が眩しくて、目がしょぼしょぼする。
「無理に言わなくていいよ。そんな顔すんなって。あ、来たよ。アミューズだっけ。美味そうだし、先生が作ったんなら絶対美味いから」
「うん。いただきます」
出てきた料理はどれも、本当に美味しかった。
さっきの先生の腕がいいのはもちろんなんだけど……やっぱり匠海さんが笑ってくれるから美味しいんじゃないかな。
たぶん、同じものを親や兄姉と食べてもこんなに美味しくないと思う。
食べ終えて、もう一度先生に挨拶をしてホテルを出た。電車に乗ってから、匠海さんの腕から手を離した。
「詩音ちゃん、お腹いっぱいになった?」
「うん。なったし、すーっごく美味しかった」
「そりゃよかった。朝飯買って帰ろうぜ」
「そうしよう。あのね、コンビニに初夏の新作出てるから食べたい」
「マジで。探そう」
離した手を迷わせていたら、匠海さんの手に掴まれた。
きゅっと握ったら強く握り返してくれて、嬉しい。
手をつないだまま電車を降りてコンビニに寄って、匠海さんの部屋に戻った。
着替える前に一緒に写真を撮っておく。お化粧が崩れちゃってるから、先に撮っておけばよかった。
お風呂を済ませて、一緒にベッドに横になる。
「詩音ちゃん、ちょっと髪伸びた?」
大きな手が乾かしたばかりの髪をゆっくり梳いた。
温かくて、眠くなってくる。
「うん、ちょっとだけ」
「ショートも似合ってたけど、これくらいでもかわいいよ」
「そうかな」
「かわいいよ」
「ありがと、匠海さん。……ありがと」
匠海さんの胸元に顔を埋めた。
温かくて、大きくて、いい匂いがした。
瞼が重たくて持ち上がらない。
なんとか腕を持ち上げて、匠海さんの背中に回した。
「おやすみ、詩音ちゃん」
「うん、おやすみなさい」
優しく抱き寄せられて、同じくらいの力で寄り添って。
寝るのがもったいないくらい、幸せだった。
「ドレスコード」「ちゃんとした格好」と言われて、「じゃあ制服で行くね」と即答できるのが詩音の育ちの良さです。
***
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