12.片時も:川瀬匠海はその感情を拒絶した
俺、川瀬匠海の大学入って最初の夏休みは、なんつーか、めちゃくちゃに忙しかった。
バイトと宿題に忙殺されていたからだ。
くっそ、誰だよ、大学生が暇とか言ったやつ!
高校から続けていた中華屋のバイトと、大学で募集してたレストランの下ごしらえのバイトを、「まあいけるっしょ」なんて気軽に掛け持ちしたら、見事に倒れそうな日々になった。
それに加えて、宿題も山ほど出た。
必修の基礎教養系はもちろん、栄養とか調理や食事の歴史とかの調べ物やレポートもある。いつやるんだよ、それ。
家事を美海と詩音ちゃんが分担してくれてるおかげで生活できてるけど、そうじゃなかったら確実に破綻してた。
親も相変わらず仕事とじいさんばあさんの介護やら見舞いやらで忙しいから、家のことは隣家の夜と夜の母親が手を貸してくれていた。
夜は小生意気なガキんちょだけど、美海を大事にしているのは知ってるし、夜の母親にも昔から世話になっていて、どうにもあの一家には頭が上がらない。
お盆前、俺はいつも通り日付が変わる頃にふらつきつつ帰宅した。
「匠海さん、おかえりなさい!」
扉を開けると、上がりかまちに詩音ちゃんが座っていた。
「ただいま。え、どしたの。なんかあった?」
「なんもないけど、匠海さんが帰ってくるの待ってた」
ニコニコしながら言われると、俺の心の柔らかいところがどうにも緩む。
「……ただいま。えっと、手ぇ洗ってくる」
「うん。あ、晩ごはんは食べた?」
「食べた。でも結構前だから腹減ってきた」
「そう言うと思ってたんだ。手を洗ったら台所に来てね」
詩音ちゃんは笑顔のまま廊下の向こうに消えていった。
急いで手を洗って追いかけると、台所のカウンターに湯気が上がっていた。
「夜のお友達がお土産にってラーメンをたくさん持ってきてくれたんだ。晩ごはんに食べて美味しかったから、匠海さんにも」
詩音ちゃんの手元を覗くと、ラーメン鉢のスープに麺を入れているところだった。
近くの小皿に、ほうれん草や玉子、チャーシューが用意されている。
一通り盛り付けて、箸も添えて、詩音ちゃんは鉢を俺に差し出した。
「お待たせしました」
「ありがとう。いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
薄暗いリビングで向かい合った。
詩音ちゃんは麦茶を飲みながら俺を見ていた。
「おいしい?」
「うん。すっごい美味い」
「横浜家系だって」
「へえ。初めて食べた」
「美味しかったから、今度は匠海さんの部屋でも作ってよ」
「おう。ベースは豚骨と醤油なんかな」
「袋持ってくるよ」
持ってきてもらったラーメンの袋の成分表示を見て、作り方を考えた。
まあ、普通に横浜家系ラーメンのレトルトを買ってきて、具材乗せたらいいんだろうけど。
全部食べ終えたら、詩音ちゃんが鉢を下げた。
「自分で洗うよ」
「いいよ。匠海さん疲れてるでしょ? 詩音が片付けるから、シャワー浴びておいでよ」
「でもさ」
「迷惑かけてばかりだから、これくらいするよ」
……たぶん疲れてたからだと思うけど、なんか無性にイラッときた。
詩音ちゃんがたまに自虐的になるのには慣れてたはずなのに。
「迷惑じゃない」
強めに言うと、詩音ちゃんはきょとんと顔を上げた。
「俺は詩音ちゃんのこと、迷惑だなんて思ったことねえよ」
「……ありがとう、匠海さん」
あ、これ分かってねえやつだ。
たぶん「匠海さんは優しいから」とかなんとか思ってる。千円くらい賭けてもいい。
詩音ちゃんは少し困ったように笑ってから、台所でラーメン鉢と俺の箸を洗い、水切り籠に立てかけた。
自分が汗だくなのは分かってたけど、詩音ちゃんがあんな困った顔のままでいるのを放っておけなかった。
「詩音ちゃん」
「……うん」
「もう、そういうこと言うな。言われると、悲しくなるから」
「……わかった。ごめんなさい」
「おいで」
寄ってきた詩音ちゃんの頭を撫でる。
そのまま抱き寄せて腕の中に入れると、詩音ちゃんは少し肩をふるわせて、俺の胸元に顔を寄せた。細い腕が背中に回って、汗でぐっしょり濡れたシャツをつかんだ。
震えが止まるまで抱きしめて、詩音ちゃんの髪を撫で続けた。
先生のレストランに行ったときより、また少し髪が伸びて、今は肩に着くくらいになっていた。
「詩音ちゃん」
「うん」
「髪型かわいい。似合ってる」
「……ありがとう、匠海さん」
「あのな、俺が優しいからじゃなくて、本気でそう思って言ってるから」
「……うん。あの、嬉しいけど、恥ずかしいので、あんまり褒めないでもらって」
「やだよ。詩音ちゃんはかわいいんだから、もうちょっと自信持てよ。美海みたいに胸張ってくれ。前を向けないなら、俺が手え引っ張るから」
「うん……うん。ありがとう、匠海さん」
最後にぎゅうっと抱きしめて体を離すと、詩音ちゃんは照れたような困ったような顔で俺を見上げていた。
それを見た瞬間、思わず喉が鳴った。
あれだ。
すげーキスしたくなった。
危ない。
実家じゃなくて、俺の部屋だったら、たぶんしてた。それで、そのまま――。
唾を飲み込んで、手を離した。
「えっと、じゃあ、おやすみ。風呂入ってくる」
「おやすみなさい。お風呂は温め直してあるから、ゆっくりしてきて」
詩音ちゃんはニコッと笑って台所から出て行った。
しゃがみ込みたかったけど、なんとか脱衣所までたどり着く。
「やべえやべえ」
なんかもう、本当にいろいろヤバい。
風呂出たらさっさと寝よう。
翌朝、つっても昼前に起きて顔を洗ってたら夜が顔を出した。
「匠海さん、こんにちは」
「よお。あ、ラーメンありがと。うまかったわ」
「よかった。詩音が作った?」
「……うん」
それで昨晩のことを思い出した。
顔をしかめた俺に、夜が不思議そうな顔になる。
「詩音と何かあった?」
「いや……なんも。あ、昼飯用意するわ」
「詩音が作ってたよ。僕も手伝おうと思って、手え洗いに来たんだ」
「なら俺が手伝うわ。お前は宿題でもしてろよ」
「今日の分は終わったよ。……ねえ、匠海さん。一個聞いていい?」
夜はキョロキョロしてから、静かに洗面所の扉を閉めた。
「なに」
「匠海さんは詩音のこと好き?」
「そりゃ、まあ」
「んー、僕が美海のことを好きなのと同じように好き?」
答えに詰まった。
そんなの、答えようがない。
「詩音は、匠海さんのこと好きみたいに見えるけど」
「ばーか。そりゃ、保護されて懐いてるだけだよ」
それ以上考えたくなくて、咄嗟に誤魔化した。
って言うか、詩音ちゃんの好意はそういうもんだと思ってる。
子供が保護者に懐くのと同じで、俺が保護したから嫌われないようにしてるだけだ。けど夜は困ったように眉を下げた。
「それだけかな」
「それだけだろ。俺だってそうだよ」
勢いに任せて続けた。
そうであってほしいと、そうでなくてはいけないと、自分に言い聞かせるみたいに。
「中学生だぞ。俺が詩音ちゃんに好意があって保護したのなら、ただのグルーミングでしかないし、そもそも犯罪だっての」
「匠海さんが大学生だから?」
「そうだよ」
吐き捨てるように言った。
夜がますます困ったような顔になったけど、それでも言葉が止まらなかった。
「俺はもう十八で、誕生日が来たら十九だ。まともな大人……じゃないかもしれないけど、それでも大学生が中学生に恋なんかしない」
「……そっか。ごめん、変なこと聞いて。詩音が匠海さんのことを嬉しそうに話すから、どうなのかなって思っただけなんだ」
「いや……悪い。俺もムキになった。……やっぱり昼飯はお前が手伝ってくれ。俺の分は後で食うから冷蔵庫に入れといてよ」
「わかった」
手を洗って洗面所から出て行く夜を見送った。
あーやだやだ。
中学生相手にムキになって、あんなにキツく否定して。
ため息をついて、洗面所から出た。
台所の方から詩音ちゃんの声が聞こえて、顔が見たかったけど、唇を噛んで二階に戻った。
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