【砕かれた理想】
「……計画は中止だ」
会議室に、上司の低い声が響いた。
英人は、目の前に置かれた資料からゆっくりと視線を上げた。
「中止……ですか!?」
思わず声が裏返った。
「ああ。正確には、事業の中核となる保全区域の整備計画が凍結される。上層部の決定だ」
「一体どういうことですか!? 理由を聞かせてください!」
「事業方針の見直しによって、予定していた予算が確保できなくなった。このままでは計画を進められない」
英人は言葉を失った。再び資料に目を落とすと、震える手でその端を強く握りしめた。
そこには、5年もの歳月を費やして練り上げた国際森林保全計画の全容が記されていた。
東南アジアの広大な熱帯雨林を対象に、保護区域を設け、開発によって分断された森林をつなぎ直す。野生動物や植物の生息環境を長期的に守るための壮大な計画だった。
英人は幾度となく日本から現地へ足を運び、各国の研究者と協力しながら、調査と研究に没頭してきた。
関係機関との協議も進み、残すは最終承認のみ。長年追い求めてきた理想が、ようやく現実になろうとしていた。
――まさに、その矢先だった。
「予算については、すでに代替案を提出しています! 維持管理費も当初の試算より削減できる見込みです!」
「分かっている」
「だったら、なぜ中止なんですか?」
「英人……予算だけの問題じゃないんだ」
「どういう意味ですか?」
上司は一瞬、言葉に詰まった。
「これはもう決定事項なんだ……。分かってくれ」
「……5年もかけて、ここまで来たんですよ?」
「お前の気持ちは分かる。だが、これは私たちだけで決められる話じゃないんだ……」
それきり、上司は口を閉ざした。
英人は上司を睨みつけた。問いただしたいことは山ほどある。だが、これ以上何を言っても、答えは返ってこないだろう。
やがて、小さく息を吐いた。
「……分かりました」
そう告げると、すぐに席を立った。
納得など、できるはずがなかった。
* * *
英人、34歳。
彼は幼い頃から、少し変わった少年だった。
友達と遊ぶよりも、森で昆虫を観察したり、川を泳ぐ魚を眺めたりすることを好んだ。一匹のアリを何時間も観察し、ときには時間を忘れるほど空想にふけることもあった。
昆虫たちは、普段どんな生活を送っているのだろう。
この川には、どんな生き物たちが暮らしているのだろう。
英人にとって自然界は、尽きることのない好奇心をかき立てる世界だった。
しかし、そんな彼の目には、人間の行いがひどく醜く映ることもあった。
小学生の頃、英人は授業で環境破壊に関する映像を目にした。
森林伐採によって生息地を失う野生動物。
象牙を目的に殺されるゾウ。
海洋汚染や乱獲によって崩れていく生態系。
人間の利益のために、数え切れないほどの命が奪われていた。
英人は、画面に映し出される光景に言葉を失った。人間が自らの欲望のために自然を破壊し、多くの生き物の命を奪っている現実に、強い嫌悪感を抱いた。
それだけでなく、自分もまた、同じ人間として生まれたことにさえ絶望を覚えた。
――人間なんて絶滅してしまえばいいんだ。
そうすれば、動物も植物も安心して暮らせるのに……。
幼い英人は、そんなことを日常的に考えるようになっていた。
当然、周囲の子どもたちとは興味も関心も異なり、考え方も大きくかけ離れていた。その違いを感じるたびに、英人は孤独を深めていった。
――自分は、ほかの人とは違う……。
幼いながらにそう感じていた英人は、いつしか本当の自分を隠すようになっていた。
そんな彼の人生を大きく変える出来事が起きたのは、中学2年生のときだった。
当時、英人には学校帰りによく会う一匹の野良猫がいた。
白黒の毛並みをしたその猫は、片方の後ろ足に古傷があり、いつも足を引きずって歩いていた。
大きな鳥に襲われたのか、それとも人間に傷つけられたのか。原因は分からなかったが、その痛々しい姿を見るたび、英人は自分のことのように胸を痛めた。
最初は警戒していた猫も、英人が毎日声をかけるうちに、少しずつ心を開いていった。やがて、英人の姿を見つけると、自分から近寄ってくるようになった。
「よしよし。本当に君はかわいいな」
英人は優しく頭を撫でた。
「……その足、痛くないのか? 一体、どこでそんなけがをしたんだ?」
もちろん、猫が答えるはずもない。ただ、英人の足元に身を寄せ、気持ちよさそうに目を細めていた。
いつしか、この白黒の猫と過ごす時間は、英人にとって何よりも大切なものになっていた。
しかし、ある日の帰り道のことだった。
同じクラスの黒田翔太たち4人が、何やら騒いでいる姿が目に入った。
気になって近づくと、そこには信じられない光景が広がっていた。
あの白黒の野良猫が壁際に追い詰められ、逃げ場を失っていたのだ。
黒田と大塚健吾、杉本拓也の3人は猫を取り囲み、面白がって次々と石を投げつけていた。三浦直樹もその場にいたが、止めようとはしなかった。
「おい! 何やってんだ!」
英人が叫んだ。
だが、その直後だった。
黒田が投げつけた石が、猫の頭に直撃した。
鈍い音とともに、猫はその場に力なく倒れ込んだ。
「お前ら、ふざけんな!」
英人は4人を怒鳴りつけた。しかし、黒田たちは悪びれる様子もなかった。
「何そんなに怒ってんだよ」
黒田が面倒くさそうに言った。
「何でこんなことしたんだよ!」
「別に。面白かったから」
その言葉を聞いた瞬間、英人の中で激しい怒りが込み上げた。
目の前の連中を殴り倒して、二度と笑えないようにしてやりたい。
そんな衝動が頭の中を駆け巡った。
しかし、英人は必死に怒りを抑え、倒れた猫のもとへ駆け寄った。
猫はぐったりと横たわり、かすかに息をしていた。英人は慌ててその体を抱きかかえた。
「おい、大丈夫か! しっかりしろ!」
何度も必死に呼びかけたが、反応はなかった。
やがて、猫の呼吸が止まった。
英人は動かなくなった猫を、胸に強く抱き寄せた。
なぜ、こんなことになったのだろう。
何の罪もない、小さな命。
ただ生きていただけなのに……。
面白半分で痛めつけ、あげくの果てに命まで奪うなんて……。
どうして人間は、こんなにも残酷になれるのだろう。
ふと顔を上げると、4人の姿はすでになかった。いつの間にか、その場から立ち去っていたのだ。
事件の後、英人は両親にすべてを話した。両親は学校に報告し、黒田たち4人は教師から数時間にわたる指導を受けることになった。
しかし、それだけだった。
一つの命を奪っておきながら、教師に叱られるだけで済まされてしまったのだ。
英人は、その結末にどうしても納得できなかった。
もし、あの猫が人間だったら。
果たして、同じ結末になっていただろうか。
そう考えると、胸の奥に冷たい感情が広がっていった。
その数日後の放課後。
英人は校舎裏で、あの4人に呼び止められた。
「おい、英人。よくも先生にチクりやがったな!」
リーダー格の黒田が声を荒らげた。
「おかげで俺たち、何時間も説教されたんだけど」
隣にいた杉本も、不満げに口を挟んだ。
「……説教されたくらいで何だよ。あの子は、お前らのせいで命を落としたんだぞ!」
英人が言い返すと、ひときわ体格の大きい大塚が歩み寄り、胸ぐらをつかんで壁に押しつけた。
「猫一匹くらいで、大げさなんだよ!」
その言葉に、英人は耳を疑った。
「……一匹くらいだと?」
「ああ? うるせぇんだよ!」
次の瞬間、大塚の拳が英人の腹部にめり込んだ。
「ぐっ……!」
英人は腹を押さえ、その場に膝をついた。
少し離れた場所では、三浦が気まずそうに視線をそらしていた。しかし、止めようとはしなかった。
黒田はうずくまる英人に歩み寄ると、胸ぐらをつかんで無理やり引き起こした。
「お前、前から気持ち悪いんだよ! いっつも動物、動物ってよ! この動物オタクが!」
黒田は顔をしかめ、さらに言葉を続けた。
「猫一匹死んだくらいで、いちいち騒いでんじゃねぇよ!」
英人は黒田をにらみつけた。
「……お前らには、命の重さが分からないのかよ」
「はあ? 何言ってんだ、お前」
黒田は呆れたように鼻で笑うと、英人の胸ぐらから手を離した。
「もう行こうぜ。こんな動物オタク、相手にするだけ無駄だろ」
そう吐き捨てると、黒田はほかの3人を引き連れ、その場を去っていった。
英人の胸には、激しい怒りと憎しみが渦巻いていた。
彼らは猫の命を奪ったことを後悔するどころか、教師に叱られたことに腹を立てていた。
そのとき、ふと小学校の授業で見た映像が脳裏によみがえった。
密猟によって殺される野生動物。
大規模な伐採によって、次々と破壊されていく森林。
遠い世界で起きていると思っていた惨劇が、今、自分の目の前でも起きていた。
人間は、自分たちの都合で簡単にほかの命を奪い、その行為を正当化することさえある。
今回の事件によって、英人が以前から抱いていた考えは、さらに強まっていった。
――やはり、動物や植物にとって、人間は絶滅すべき存在だ。
もちろん、自然界にも弱肉強食の掟がある。動物たちが生きるために、互いの命を奪い合うことも知っていた。
だが、人間は違う。
生きるためだけではない。
金や欲望のため、時には単なる娯楽のために、ほかの命を奪う。
英人には、それが許せなかった。
何より耐えがたかったのは、自分もまた、あの生徒たちと同じ人間だという事実だった。そう考えるだけで、自分自身にさえ嫌悪感が湧いてきた。
ただ、自分が人間として生まれてしまった以上、せめてもの罪滅ぼしに、できることがあるはずだ。
そう考えた英人は、この件をきっかけに、自然環境を守る仕事に就くことを強く決意した。
もともと英人は、興味を持ったことにはとことん没頭する性格だった。目的が明確であれば勉強も苦にならず、物事を筋道立てて考えることも得意だった。
英人の願いは、ただ一つ。
自然を守りたい。
人間の身勝手な行動によって失われていく命を、少しでも救いたい。
その思いを胸に、英人は大学で環境科学や生態学を学び、卒業後は環境コンサルティング会社に就職した。
国内外の自然環境調査に携わり、現場で経験を積んだ後、国際自然保護団体へ転職した。
そこで東南アジアの森林保全事業に参加し、専門知識をさらに深めていった。
そして、29歳のとき。
英人は、広大な森林の保全を目指す新たな構想を提案した。
開発によって分断された森林をつなぎ直し、野生動物や植物が生息できる環境を長期的に守るという計画だった。
構想の実現に向け、英人は現地の研究者や関係機関と協力しながら調査を開始した。
広大な森林を何度も歩き、動植物の生息・生育状況や分布を調べた。森林の状態を分析し、保護すべき区域を選定していった。
ときには人里離れた場所に何日も滞在し、調査を続けることもあった。
そうして現地での調査を重ねるうちに、英人は森林が育む生命の豊かさを改めて実感した。
木々の間を器用に飛び移るサルたち。
色鮮やかな羽を持つ鳥たち。
草木の陰に潜む昆虫や爬虫類。
そして、川を群れで泳ぐ魚たち。
無数の生き物たちが互いに関わり合い、複雑な生態系を形成していた。
英人にとって、その光景は何物にも代えがたいものだった。
この豊かな自然を、絶対に守りたい!
その思いを胸に、英人は計画の実現に向けて全力を注いだ。
調査結果をもとに具体的な保全計画を策定し、各国の研究者や関係機関と協議を重ねた。
しかし、自然保護だけを優先するわけにはいかなかった。
地域経済の発展との両立を図るため、道路の建設ルートや保護区域の範囲などについて、何度も計画を練り直した。
こうした努力と専門性が認められ、33歳のときには国際共同事業の科学技術部門を任されるまでになった。
そして、構想を提案してから約5年。
関係機関との協議もまとまり、計画は最終承認を待つばかりとなっていた。
長年追い求めてきた理想が、ようやく現実になろうとしていた。
しかし、その矢先、突然計画の凍結が告げられた。
* * *
計画の凍結を告げられてから、数日が過ぎた。
しかし、英人は今もその決定に納得できずにいた。
予算不足という説明だけでは、どうしても腑に落ちなかった。
何か別の理由があるのではないか。
そう考えた英人は、現地で同じチームとして働いていた研究者に連絡を取った。
「今回の決定について、何か詳しいことは分からないか?」
「詳しいことは分からない。ただ、少し気になることがある」
「気になること?」
「ああ。計画が凍結される前から、保全予定地の一部で測量が行われていたんだ」
「測量?」
「道路建設に向けた調査らしい。だが、俺たちが提案した迂回ルートとは違う場所だった」
英人は眉をひそめた。
「……どういうことだ?」
「それは俺にも分からない。ただ、現地政府が数日前に新しい土地利用方針を公表している。確認してみてくれ」
「……分かった。ありがとう」
通話を終えた英人は、すぐに現地政府が公表した資料を調べ始めた。
そして、対象地域の新たな土地利用方針を見つけた。
保全対象となっていた森林の一部を、大規模な道路の建設予定地と産業開発区域に組み込むという内容だった。
現地政府は、物流の改善や雇用創出を理由に、開発事業を優先したのだ。
その結果、保全区域の指定は見送られ、国際支援団体も資金拠出を凍結することになった。
しかし、英人には腑に落ちない点があった。
道路の建設ルートが、以前の計画から大きく変更されていたのだ。
変更後のルートは、英人たちが重要な生息地として保護を求めていた区域を横断していた。
一方、周辺には新たな工業団地の建設が予定されている。
しかも、その開発事業を主導するのは、現地有数の巨大財閥、ウィラジャヤ・グループだった。
英人は、資料を読み進めた。
そこには、開発調整局長アディ・プラナタの名前が記されていた。
土地利用方針の変更を主導していた人物だ。
以前からアディは、英人の保全計画に難色を示していた。
英人は、同僚から聞いた測量の話を思い返した。
保全計画の最終審査が終わる前から、なぜ別の道路建設に向けた調査が行われていたのか。
不審に思った英人は、開発事業に関する現地の報道や企業情報を調べ始めた。
そして、ある事実に行き着いた。
現地の経済紙には、ウィラジャヤ・グループの関連会社が、道路建設予定地の周辺にある土地を以前から買い集めていたことが報じられていたのだ。
さらに、その関連会社の企業情報を調べると、役員の一人にアディの実弟が名を連ねていることが分かった。
英人は画面を凝視した。
道路が建設され、工業団地が整備されれば、周辺の土地の価値は大きく上がる。
その恩恵を受けるのは、開発予定地の土地を保有する企業だった。
そして、アディにはその企業と近しい関係があった。
もちろん、これだけで不正があったと断定することはできない。
だが、英人には偶然とは思えなかった。
「……クソッ、そういうことか!」
思わず声が漏れた。
自分たちが提出した迂回ルートでは、工業団地への直接的な接続が難しくなる。
だからこそ、アディは当初から反対していたのではないか。
自然保護のための計画が、彼らの利益を妨げる存在になっていたのだ。
英人は、これまでの経緯を頭の中で整理した。
計画凍結前から始まっていた測量。
突然変更された道路の建設ルート。
そして、開発によって利益を得る財閥とアディの関係。
すべてが偶然だとは、どうしても思えなかった。
英人は現地の関係者に連絡し、アディとの面会を申し入れた。




