【崩れゆく信念】
数日後。
英人は日本から再び現地へ渡り、政府の庁舎を訪れていた。
案内された応接室には、重厚な机と革張りの椅子が置かれていた。
その向かい側に、一人の男が腰を下ろしていた。
年齢は50代半ばほど。
白髪の交じった黒髪を斜め後ろへ撫でつけ、銀縁の丸眼鏡をかけていた。
グレーのワイシャツに黒いネクタイ、黒のスラックス。足元には、磨き上げられた革靴。
隙のない身なりと落ち着いた物腰からは、政府高官らしい威厳が漂っていた。
開発調整局長、アディ・プラナタだった。
「英人さん。今回の件については、すでに説明を尽くしたはずですが」
アディは、どこか面倒くさそうに口を開いた。
「承知しています。ですが、どうしても再検討していただきたいことがあるんです」
「再検討?」
「保全区域の指定についてです」
アディは小さく息を吐いた。
「その件なら、すでに結論は出ていますよね?」
「ですが、道路の建設ルートを一部変更すれば、重要な生息地を守ることができます。開発そのものを止める必要はありません」
英人は持参した資料を差し出した。
しかし、アディは手を伸ばさなかった。
「またその話ですか」
呆れたように首を振ると、椅子の背もたれに体を預けた。
「あなたはずいぶん熱心ですね。ですが、研究者の理想にいつまでも付き合っている余裕はないんですよ」
「理想だけで言っているわけではありません。長年の調査結果に基づいた提案です」
「分かっていますよ。資料は何度も見せていただきました」
「でしたら、なぜ……!」
「英人さん」
アディは英人の言葉を遮った。
「あなたの提案したルートでは、工業団地へのアクセスが悪くなる。それでは物流の効率が落ち、開発に参加する企業にも影響が出るんです」
「それは理解しています。ですが、あの森林には希少な動植物が数多く生息し、豊かな生態系が形成されています。私たちの提案したルートなら、生態系への影響を大幅に抑えられます。費用についても、できる限り負担を減らせるよう検討してきました!」
「……はあ」
アディはため息をつき、首を横に振った。
「あなたは本当に動物のことばかりですね」
その口元には、薄い笑みが浮かんでいた。
英人は眉をひそめた。
「……どういう意味ですか?」
「もっと広い視野で物事を考えた方がいい。道路が整備されれば物流が改善され、工業団地には新たな企業が進出する。」
「そうなれば、雇用も生まれ、長年貧困に苦しんできた地域の経済が発展するんです」
アディは得意げに笑みを浮かべた。
「これほど地域のためになる話が、ほかにありますか?」
「だからといって、森林を破壊していい理由にはなりません!」
「もちろん、自然環境への配慮は必要でしょう。ですが、経済発展のためには、ある程度の犠牲も避けられない」
「なるほど……。では、本当に地域の発展だけが目的なんですか?」
「……どういう意味ですか?」
アディは怪訝そうに眉をひそめた。
英人は相手の反応を確かめるように、しばらくその顔を見つめた。
「……ウィラジャヤ・グループの関連会社が、開発予定地の周辺にある土地を買い集めていたそうですね」
アディの表情が、わずかに変わった。
「それが何か?」
「その会社の役員に、あなたの弟さんがいます」
一瞬、部屋に沈黙が落ちた。
やがてアディは、薄く笑みを浮かべた。
「ずいぶんと余計なことまで調べたようですね」
「今回の土地利用方針の変更と、関係があるんじゃないですか?」
「私の家族が民間企業で働くことに、何か問題でも?」
「問題なのは、あなたがその企業に利益をもたらす立場にいることです!」
英人は思わず声を荒らげた。
「道路が建設されれば、周辺の土地の価値は上がります。ですが、私たちの保全計画が承認されれば、開発できる土地は制限される。だから、最初から計画を潰すつもりだったんじゃないですか!?」
アディの表情から笑みが消えた。
「……言葉には気をつけた方がいいですよ」
「答えてください!」
「あなたは何か勘違いしているようですね」
アディは机に肘をつき、指を組んだ。
「私は政府の方針に従って仕事をしている。それだけです。あなたの憶測に付き合うつもりはありません」
「では、保全計画の最終審査が終わる前から、なぜ別の道路建設に向けた測量が行われていたんですか?」
「開発事業には、さまざまな事前調査が必要です。それの何が問題なのでしょう?」
「問題なのは、私たちが提出した案とは違う場所で、すでに測量が進められていたことです! 最初から開発を優先するつもりだったんじゃないですか!?」
アディは答えなかった。
代わりに、机の上の資料へと視線を落とした。
「……英人さん。あなたの所属する団体は、今後もこの国で調査を続ける予定でしょう?」
突然話題を変えられ、英人は戸惑った。
「……それが何ですか?」
「外国の研究者が活動するには、我々の協力も必要です。調査許可の更新だって、当然審査があります」
アディは眼鏡の位置を直し、英人を見据えた。
「これ以上、根拠のない疑惑を広めるようなら、今後の活動にも影響が出るかもしれませんね」
英人は耳を疑った。
「……脅しているんですか?」
「忠告ですよ」
アディは平然と答えた。
「あなた一人の行動で、ほかの研究者たちまで困ることになっては気の毒でしょう?」
アディは口元に薄い笑みを浮かべた。
「それに、あなたが何より大切にしている自然保護活動も、続けられなくなるかもしれませんよ」
英人は拳を強く握りしめた。
ここでさらに追及すれば、自分だけでなく、ほかの研究者たちの調査活動にも影響が及ぶかもしれない。
そうなれば、現地で進められている自然保護事業まで妨げられる恐れがある。
それだけは、何としても避けなければならなかった。
アディは英人の沈黙を見て、満足げに微笑んだ。
「あなたは優秀な研究者だと聞いています。しかし、政策を決める立場ではない」
そう告げると、机の上の資料を英人の方へ押し返した。
「本日の話は、これで終わりです」
英人は資料を受け取った。
言い返したいことは山ほどあった。
だが、ここで感情に任せて行動しても、状況が好転するとは思えなかった。
英人は奥歯を噛みしめ、込み上げる怒りを必死に抑え、立ち上がった。
庁舎を出た後も、アディの言葉が頭から離れなかった。
『あなたは優秀な研究者だと聞いています。しかし、政策を決める立場ではない』
――結局、権力を持つ人間の都合ですべてが決まるのか……。
英人は振り返り、そびえ立つ庁舎を見上げた。
あの男が不正に関与していると断定できる証拠は、まだない。
しかし、土地利用方針の変更によって、ウィラジャヤ・グループが大きな利益を得ることは明らかだった。
そして、そのために失われようとしているものがある。
五年間、必死に守ろうとしてきた森林。
そこに生きる、数え切れないほどの動植物たち。
――あいつらにとって、自然なんて金儲けのために利用するものでしかないのか……。
英人の胸の奥で、激しい怒りが渦巻いていた。
* * *
帰国してから、しばらくが過ぎた。
英人は、現地で活動する同僚に連絡を取った。
計画の継続が絶望的になったとはいえ、五年間にわたって守ろうとしてきた森林がどうなっているのか、気になって仕方がなかった。
「……開発工事は、もう始まっているのか?」
電話の向こうで、同僚はしばらく黙っていた。
「ああ。数日前から、一部の区域で伐採が始まっている」
英人は息を呑んだ。
「……どの辺りだ?」
「君が何度も調査に入っていた区域だ」
英人は言葉を失った。
しばらくの沈黙の後、重い口を開いた。
「……現場の様子は分かるか?」
「ああ。記録用に撮影した映像がある」
「送ってくれないか」
同僚は、すぐには答えなかった。
「……英人。本当に見るつもりか?」
「ああ」
「君がどれほどあの場所を大切にしていたか、俺も知っている。無理して見る必要はないんだぞ」
英人は静かに目を閉じた。
確かに、見ればつらくなるだろう。
それでも、自分が守ろうとしていた森林がどうなったのか、知らずにいることはできなかった。
「……頼む。自分の目で確かめたいんだ」
「……分かった。送るよ」
通話を終えて間もなく、一本の動画が届いた。
英人は、しばらく画面を見つめていた。
そして、意を決して再生ボタンを押した。
画面に映し出されたのは、見覚えのある森林だった。
何度も現地調査で訪れた場所だ。
高くそびえる木々。
密集する熱帯植物。
その間を縫うように続く、細い獣道。
英人は、この場所で数え切れないほどの生物を観察してきた。
そのすべてが、英人にとってかけがえのない存在だった。
しかし、動画に映る景色は、英人の記憶とは大きく異なっていた。
巨大な重機が森林の中を進み、次々と木々が切り倒されている。
地面には伐採された樹木が散乱し、緑に覆われていた大地には無残な伐採跡が広がっていた。
何十年、何百年とかけて育ってきた木々が、容赦なく倒されていく。
英人は画面を見つめたまま、動けなくなった。
――あの場所に生息していた動物たちは、どうなったんだ……。
無事に逃げられたのだろうか。
それとも、すでに……。
ふと、画面の端に目が留まった。
一本の大木が、伐採されようとしていた。
その木を見た瞬間、英人は息を呑んだ。
見覚えがあった。
かつて現地調査で、何度も訪れた場所だった。
あの木の周辺では、希少な鳥類の生息を確認していた。
巣を作り、子育てをする姿も観察した。
英人は、その光景を今でも鮮明に覚えていた。
しかし、画面の中では、作業員がその大木を切り倒そうとしていた。
やがて太い幹がゆっくりと傾き、周囲の枝を巻き込みながら地面へと崩れ落ちた。
轟音とともに土煙が舞い上がる。
英人は思わず目を背けた。
そして、動画を止めた。
これ以上、見ることができなかった。
五年もの歳月を費やしてきた。
生態系を分析し、保護区域を選定し、開発と保全を両立させるための方法を考え続けた。
何度も現地へ足を運び、研究者たちと協力しながら、計画の実現に向けて努力してきた。
すべては、この場所に生きる命を守るためだった。
それなのに……守りたかった森林が、今まさに破壊されている。
英人の脳裏に、かつて小学校の授業で見た映像がよみがえった。
森林伐採によって住処を失う動物たち。
密猟によって殺される野生動物。
あれから二十年近くが経った。
森林とそこに生きる動植物を守るため、ひたすら努力を重ねてきた。
――必ず、守ってみせる。
そう自分に誓っていた。
それなのに。
五年もの歳月を費やし、ようやく実現目前までたどり着いた計画は、無残にも打ち砕かれた。
英人は唇を強く噛みしめた。
胸の奥から、抑えきれない悲しみと悔しさが込み上げてきた。
しかし、やがてその感情は、激しい怒りへと変わっていった。
――絶対に許せない……。
自分たちの利益のために、平然と自然を踏みにじる人間たちが。
脳裏に、薄笑いを浮かべたアディ・プラナタの顔がよぎった。
「私利私欲にまみれた人間どもが!」
誰もいない部屋に、英人の怒声が響いた。
森を切り開き、海を汚し、数え切れないほどの生き物たちから住処を奪う。
それでいて、自分たちの行いを発展や繁栄という言葉で正当化する。
英人には、それがどうしても許せなかった。
――やはり、人間という生き物は……。
幼い頃から抱き、心の奥底に押し込めていた思想が、再び強く頭をもたげた。
――人間さえ存在しなければ、この世界はもっと豊かになる。
――俺にもっと力があれば……。
人間の身勝手な行いから、自然を守り抜ける圧倒的な力があれば……。
英人は机の上に置かれた保全計画の資料に目を落とした。
その表紙に、そっと手を置く。
ふと、あの日、腕の中で息を引き取った白黒の野良猫の姿が浮かんだ。
「……ごめんよ」
声がかすかに震えた。
「……結局、俺は何もできなかった」
英人は力なく崩れるようにうなだれた。
頬を伝う涙が、机の上の資料にぽつり、ぽつりと落ちていった。




