【復讐の序曲】
天界から追放されたルシファーの堕ちた先は、地獄の最下層だった。
冷たい地面に投げ出された身体は、わずかに動かそうとするだけで激しく痛んだ。
かつて銀色の光を放っていた六枚の翼も、今は血と泥に汚れ、折れ曲がったまま地に伏している。
起き上がろうと、地面に手をついた。
だが、腕は身体を支えきれずに崩れた。
傷口から血があふれ、喉から苦悶の声が漏れる。
息を吸うたび、胸の奥が軋んだ。
それでも、ルシファーの眼差しから怒りが消えることはなかった。
「この程度の傷で……私は死なぬ……」
血に濡れた指が、地面を掻く。
「神々よ……私を滅ぼさずにおいた、その判断……必ず悔いることになろう……」
もはや、頭上に天界の光は見えなかった。
それでも彼は闇の向こうを睨み、震える身体を奮い立たせた。
「神々の時代は、終わりを迎える……これより天を統べるのは、このルシファーだ」
神々への憎悪に満ちた笑みを浮かべ、そう言い放った直後、彼の腕から力が抜けた。
巨躯は動かなくなり、意識は深い闇へと沈んでいった。
* * *
いったい、どれほどの時が流れたのだろう。
ルシファーは、静かに目を開けた。
身じろぎすると、身体の奥にまだ鈍い痛みが走った。
だが、意識を失うほどの痛みではもうなかった。
体中の傷も少しずつ塞がり始めていた。
折れた六枚の翼も形を取り戻し、その羽には、かすかな銀色の光が宿っている。
ルシファーは、ゆっくりと指を握り込んだ。
力が、戻りつつある。
地面に手をつき、上体を起こす。
今度は倒れなかった。
痛みに耐えながら立ち上がり、顔にかかった長い銀髪をかき上げる。
月光を思わせる髪が、肩を滑り落ちた。
透き通るような白い肌に、左右対称に整った端正な顔立ち。
その美貌は、まるで彫刻家が丹念に彫り上げた芸術品のようだった。
足元の水たまりには、ほのかな銀光を帯びた美しい顔が映っている。
背中の六枚の翼が震え、ゆっくりと広がった。
ルシファーは頭上を仰いだ。
見えるのは、果てのない闇だけ。
だが、その眼差しは揺るがない。
闇の遥か彼方にある天界を、睨み据えていた。
胸の奥で、復讐の炎が再び燃え上がる。
天界には、絶大な力を誇る神々が君臨している。
天界では、天を裂く雷を振るうゼウスを頂点に、
世界の海を支配するポセイドン、
あらゆる炎を生み出したカルドラス、
幻影と疫病を自在に操るオルディスなど、
強大な神々が君臨している。
彼らをはじめとする強大な神々が、その圧倒的な力と権威によって天界の秩序を支えていた。
さらに、神々の玉座を守るのは、大天使ミカエルをはじめとする天界の守護者たちだ。
正面から挑めば、分が悪いのは明らかだ。
怒りに任せて立ち向かったところで、再び地に叩き落とされるだけだろう。
「……何も、天界そのものを打ち砕く必要はあるまい」
復讐とは、形を選ばぬものだ。
ルシファーの瞳に、冷たい光が宿る。
彼の脳裏に浮かんだのは、神々の庇護を受ける現世――人間たちの生きる世界だった。
現世では、神々でさえ逆らえぬ掟が存在する。
人間界は、試練と選択の舞台。そこでは、神が本来の力を振るうことを固く禁じられていた。
ひとたび神が全力を解き放てば、空間は歪み、時間さえねじれ、現世そのものが崩壊しかねない。
ゆえに、世界を破滅にさらす行為は、神であっても許されぬ大罪とされた。
それは古より万物の理に刻まれた、絶対の戒めだった。
「ならば、その掟を逆手に取るまでのこと……」
ルシファーの唇に、かすかな笑みが浮かぶ。
「地上を我が城となし、復讐を遂げる舞台としよう」
そして、神々にはもう一つの弱点があった。
神々の力は、人間たちが寄せる信仰の深さによって左右される。
その信仰が失われれば、神々の力もまた衰えていく。
それこそが、ルシファーの計画の鍵だった。
神々にとって、人間は庇護すべき、愛すべき存在。
だが、ルシファーにとっては違う。
人間など、復讐を遂げるための駒にすぎない。
やがて、その唇に不敵な笑みが浮かんだ。
「では、参るとしようか」
六枚の翼を大きく広げ、ゆっくりと宙に浮かび上がる。
次の瞬間、翼が力強く羽ばたいた。
凄まじい突風が巻き起こり、ルシファーは闇の彼方へと飛び去った。




