第十五話 ヴァランス侯爵家の決算
朝食の席で、父がいつもより少し早く本題を切り出した。
その朝は、空がよく晴れていた。庭の植え込みのうえに、初夏のはじめの強い光が、まっすぐに落ちている。
朝食室の卓には、母が活けた紫の小花の鉢と、家令が温めた紅茶と、いつもより一品多い焼き菓子があった。家令の話では、母が「今朝は、お父様のお話のお時間を、ゆっくり過ごせるように」と、台所に申し付けたそうだ。
「クラリス」
父は、紅茶のカップを置いてから、私のほうへ顔を向けた。
「はい」
「今朝は、ひとつ、お前に話したいことがあって、家令に先に支度をさせた」
「お父様」
「ヴァランス家の社交事業のことだ」
私は、紅茶のカップに伸ばしかけた手を、卓のうえに戻した。
ヴァランス家の社交事業。
それは、私が婚約期間中、断片的にしか名前を知らなかった、家の中の一区切りだった。お父様が、ヴァランス家の名で、王都の社交界のいくつかの催事の席を整えること。茶会、夜会、観劇の席のお取り次ぎ、贈答記録の管理、年に二度の社交界の名簿の更新。それらを、ヴァランス家の家令と、お父様の右腕の方が一緒に進めていらした。
私は、自分の婚約の席に集中するために、ヴァランス家の社交事業には、ほとんど手を出していなかった。お父様も、私の仕事を、娘の婚約期間中は、お父様の側で預けにしておくつもりでいらした。
「お父様」
「うん」
「ヴァランス家の社交事業の、何の話ですか」
父は、紅茶のカップを、もう一度、卓のうえに置いた。
「クラリス。ヴァランス家の社交事業を、お前に、正式に引き継いでもらいたい」
朝食室のなかで、母が、紅茶のカップを、ふと、軽く卓のうえに置いた。
その音は、いつもより、ほんの少しだけ、はっきりとしていた。
「お父様」
「ヴァランス家の母方の家の伝統だ」
父は、紅茶のカップに、もう一度手を伸ばしながら、続けた。
「お前のお母様の側の家、ベルロワ家の家系では、家のうち、社交の席を担当する令嬢が一人いることが、長く慣例だった。お母様の代では、お母様のお姉様が、社交事業の担当でいらした」
「伯母様が」
「ああ。私がヴァランス家の娘としてお母様を迎えたとき、ベルロワ家から、伯母様が、ヴァランス家の社交事業の引き継ぎの覚書を、お母様に預けてくださっていた」
母が、わずかに頷かれた。
「クラリス」
母の声は、いつもより落ち着いていた。
「私は、ヴァランス家に嫁ぐおりに、伯母様の覚書を、ヴァランス家の書斎に納めたまま、お父様に、社交事業の席を、家令の方々と一緒に進めていただいてきました」
「お母様」
「私自身が、社交事業の担当者として、席に立つことを、自分で選ばなかったのです。お父様が、ご当主として席に立たれるのが、ヴァランス家の慣例に合うと、お母様の代で、決めました」
「左様でございますか」
「けれど、お父様が、娘が婚約の席から離れた今、伯母様の預けの覚書を、書斎の棚で長く眠らせたままにしておくのは、私としては、本意ではございません」
母の声は、わずかに震えていた。
それは、悲しみの震えではなかった。母が、長く書斎の棚に納めたままだった預けを、ようやく娘の手に渡すことの、お気持ちの重みだった。
「お母様」
「クラリス。お母様の伯母様が、社交事業の覚書を、ご自分の家の娘ではなく、ベルロワ家から、ヴァランス家へ預けてくださったのは、伯母様が、社交の席を担当することは、ご家の名ではなく、一人の令嬢として引き継ぐべきだ、と決めていらしたからです」
「ご家の名ではなく、一人の令嬢、ですか」
「はい」
母の口元が、わずかに微笑になった。
「ヴァランス家で、社交事業の席を担当することは、家の名で動くことだけではありません。一人の令嬢として、席の話、紙の動き、贈答の整い、招待状の書きを、自分の手で整え直すこと。それが、社交事業の務めです」
母は、紅茶のカップを、ふたたび手に取った。
「クラリスが、婚約期間中の三年で整えてきたものは、まさに、社交事業の務めの形でいらっしゃいました。お母様としては、それを、書斎の棚で、ようやく、一人前の形で引き継いでもらう時間が来た、と、お父様と昨晩、話したのです」
「お父様、お母様」
私は、両手を、卓のうえで、軽く重ねた。
「ヴァランス家の社交事業の引き継ぎで、ひとつだけ、伺ってもよろしいでしょうか」
「うん」
「私が、王宮事務方のご公務を続けることとの重ねは、いかがお考えですか」
父は、紅茶のカップを、軽く卓に戻した。
「クラリス、それは、お前が、まず、考えるべきことだ」
「お父様」
「ヴァランス家の社交事業は、家の席として、年に四、五度の主要な催事の席のお取り次ぎが、務めの中心だ。王宮事務方のご公務も、年に四度の催事だ。席の時期が、お互いに重なる場合は、お母様と私で、席の調整を引き受ける、と、お母様と考えていた」
「お父様が調整くださるのですか」
「ヴァランス家の社交事業は、お父様が、これまでも家令と一緒に進めてきた。席の整いで、お前の手の動きを、いつでも支える」
「お父様」
「ヴァランス家の社交事業の務めは、娘が一人で背負うものではない。家の席として、お父様も、お母様も、家令も、一緒に務める」
私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「クラリス」
母が、私の名を軽く呼んだ。
「ヴァランス家の社交事業を引き継ぐにあたって、ベルロワ家の伯母様が預けてくださっていた覚書を、お母様が、今日、書斎の棚から取り出してまいりました」
母は席を立たれた。
朝食室の入口で、家令が、ベルロワ家の家紋の入った、古い革張りの覚書を、両手のうえに載せて立っていた。
家令が、覚書を、母の手に渡した。
母は、ご自分の手で、それを私のほうへ持ってきてくださった。
「クラリス」
「お母様」
「伯母様が、お母様へ預けてくださっていた覚書でございます」
「お預かりいたします」
私は、両手で、それを受け取った。
覚書の革の表紙は、お母様の伯母様の代から、二十数年の時間の重みで、わずかに擦れが残っていた。けれど、革の縁の縫いは、まだしっかりとしていた。
「クラリス」
「はい」
「お読みになるのは、一人で、時間をかけて読みなさい」
「お母様」
「読むことで、もう、社交事業の担当者として、家のうちで動くことが始まります」
私は、覚書を、軽く胸に抱いた。
革の表紙の重みが、両手のうえで、静かに休んでいた。
朝食を終えてから、私は、書斎へ覚書を運んだ。
ヴァランス家の書斎の机のうえに、覚書を置いた。
それから、家令を呼んで、ヴァランス家の社交事業の書きの預けの場所を、一度、お父様の書斎の隣の小さな部屋へ整え直すよう、頼んだ。
「お嬢様、ひとつだけ、よろしゅうございますか」
「はい」
「ヴァランス家の社交事業の書きの棚を、お父様の書斎の隣に整え直すのは、お父様にお確かめが」
「お父様には、私から伝えます」
「承知いたしました」
家令は、深く頷いて、書斎を出ていった。
私は、机のうえで、革張りの覚書を、ゆっくりと開いた。
最初の頁に、伯母様の手の字で、短い書きがあった。
「ヴァランス家の社交事業の覚書は、預ける先の令嬢が、自分の目で、読みなさい。席の取り次ぎは、紙のうえの整いと、席の人の整いと、一年の動きの整いで、成り立つ。紙のうえの整いは、一人で整えなさい。席の人の整いは、お互いの家で整えなさい。一年の動きの整いは、時代で整えなさい。ベルロワ家にて、伯母より」
伯母様の手の字は、母の字よりも、一段、力強かった。けれど、読みやすかった。
私は、覚書を、頁ごとに、一冊、読み進めた。
午前のうちに、最初の三章を読み終えた。
社交界の席の取り次ぎの基本。贈答記録の格付けの慣例。招待状の書きの体裁の整い。
これらは、私の婚約期間中、ヴァランス家の側で、家令と相談しながら、自分の手で試しに整えてきたものと、ほぼ同じだった。私は、覚書を読みながら、改めて、ヴァランス家の母方の家の伝統が、私の手の動きの背骨のうえに、長く残っていたことを、自分の中で見つけた。
午後になって、家令が、ふたたび声を入れた。
「お嬢様」
「はい」
「王宮から、別の便で、書きが届いてございます」
「ライナス殿下、ですね」
「いえ。本日は、ライナス殿下のお手紙ではございません」
「では」
「ライナス殿下が、午後の遅い時間に、ご公務の打ち合わせで、当家へお越しになる、と、王宮事務方の家令経由の書きでございます」
私は、紅茶のカップに伸ばしかけた手を、止めた。
「殿下が、応接室ではなく、お父様の書斎で、ご公務の打ち合わせですか」
「いえ。応接室ではなく、お父様の書斎で、お父様もご一緒に、ご公務の打ち合わせの席だと」
「お父様の書斎で、ご公務の打ち合わせ、ですか」
「左様でございます。席のなかで、お父様にも、席にお出になっていただくのが、ご公務の慣例として正式だ、との書きでございます」
私は、覚書を、机のうえに軽く置いた。
ライナス殿下が、ご公務の打ち合わせで、ヴァランス家のお父様の書斎にお越しになる。それは、ご公務の正式な手順としては、確かに慣例の範囲内だった。けれど、第二王子殿下が、お父様の書斎にお越しになるのは、ヴァランス家にとっても、めったにないことだった。
「家令」
「はい」
「お父様には、お知らせしてくれている?」
「お父様には、一時間ほど前に、王宮の家令から、先に伝えがあったとのことです」
「私が、お父様の書斎の席に出るのは」
「お父様が、ご公務の打ち合わせで、お嬢様が、席に出ることが、ご公務の中心だ、とのお考えです」
「私が、お父様の書斎に、出るのですね」
「左様でございます」
私は深く頷いた。
午後の遅い時間、ライナス殿下が、ヴァランス家の門を入られた。
殿下のご公務でのお越しは、ご公務の馬車に、王宮事務方の家令と、ご公務の書類入れを持つお側仕えを、一人ずつ連れていらした。
応接室ではなく、お父様の書斎へ、家令が案内した。
私は、母から頂いた紫の小花の鉢の隣の廊下で、お父様と一緒に、殿下のお越しを迎えた。
「殿下、お越しくださり、ありがとうございます」
「ヴァランス侯爵閣下、クラリス嬢。お時間を頂戴して、申し訳ない」
「いえ。お父様の書斎へ、どうぞ」
お父様の書斎は、ヴァランス家のうちで、最も静かな部屋だった。
殿下は、お父様の書斎の入口で、一歩、立ち止まられた。
それから、部屋の中を、ゆっくりと見渡された。
「ヴァランス侯爵閣下」
「殿下」
「立派な書斎でいらっしゃる」
「いえ、恐れ多いお言葉でございます」
殿下は、お父様の机の向かいの席に、腰を下ろされた。お父様は、ご当主の席に腰を下ろした。
私は、お父様の席の隣に腰を下ろした。
家令が、紅茶を運んできた。
殿下は、紅茶のカップを、手に取られた。
「クラリス嬢」
「殿下」
「先日、送ってくださった意見書を、王宮事務方の側で、正式に拝読いたしました」
「お読みくださり、ありがとうございます」
殿下は、ご公務の書類入れから、一冊の覚書を取り出された。
それは、私の手の覚書ではなく、王宮事務方の正式な覚書だった。
「来週の王宮の議事で、贈答記録の格付けの基準の議題の先に、クラリス嬢の意見書を、議事の紙のうえに載せることを、王宮侍従長と決めました」
「お父様、ご公務として、正式にご報告いただきます」
お父様は、深く頷かれた。
「殿下」
「ヴァランス侯爵閣下」
「娘が、ご公務で、王宮の議事の紙のうえに載るのは、ヴァランス家として、光栄に存じます」
「いえ、こちらこそ。クラリス嬢が、年三回の意見書を、ご公務の規定の正式な手順で続けてくださるよう、王宮事務方の側として、正式にお頼みしたく存じる、と、王宮侍従長と決めております」
「年三回の意見書、ですか」
「春期の正式夜会、夏期の宮内茶会、秋期の感謝祭夜会の催事の務めの記録の後に、一冊ずつ、議事の席に意見書を載せていただきます」
「ご公務の務めの範囲ですね」
「正式に、ご公務の務めの中身の改定で、決まりました」
お父様は、深く頷かれた。
「クラリス。お受けしなさい」
「お父様」
「続けての意見書は、ヴァランス家の社交事業にも役に立つ」
「はい」
「お受けいたします」
私は深く頭を下げた。
殿下は、ご公務の覚書を、卓のうえに、軽く置かれた。
「ヴァランス侯爵閣下」
「殿下」
「もうひとつ、ご公務の席ではなく、別の話で、お伝えしたいことがございます」
殿下の声を、一段、落とされた。
お父様の書斎の中で、紅茶のカップの湯気だけが、わずかに動いた。
「ヴァランス侯爵閣下、クラリス嬢」
「殿下」
「クラリス嬢の三年の覚書は、王宮事務方の紙のうえで、正式の規定の基礎になりつつあります」
「殿下」
「一席だけ、お父様に伺わせていただきたいことがございます」
「私にですか」
「はい」
殿下は、お父様の顔のほうへ視線をまっすぐ向けられた。
「クラリス嬢が、ご公務の規定の務めを続けてくださることで、これから先、いずれ、王宮事務方の側で、正式の席を持つことが、現実としてあり得る、と、王宮事務方の側で考えております」
「殿下」
「ヴァランス家として、娘が、王宮事務方で正式の席を持つことについて、ヴァランス侯爵閣下のお考えを、ご家として伺わせていただきたく存じます」
お父様の書斎の中で、紅茶のカップの湯気だけが、動いていた。
私は、卓のうえで、両手を軽く重ねた。
殿下が、ご公務の務めを通じて、私の将来の席が、王宮事務方の正式の席へつながる可能性を、お父様に伺ってくださっている。
「殿下」
お父様の声は、いつもより落ち着いていた。
「娘の将来の席を、ヴァランス家として決めるのは、家ではなく、娘の側の考えだ、と、私は思っております」
「ヴァランス侯爵閣下」
「娘が、王宮事務方の側で、正式の席を持つことについて、家として反対することは、ございません」
「左様でございますか」
「娘が、自分の意思で決めることを、私は、父として、家として、受け入れます」
殿下は、深く頷かれた。
「ヴァランス侯爵閣下、ありがとうございます」
「殿下」
「もう一席、お一席で続けてもよろしいでしょうか」
「はい」
殿下は、紅茶のカップを、卓のうえに軽く戻された。
「クラリス嬢」
「殿下」
「ヴァランス家として、家令を経由して、王宮事務方の側へ、ご家として続けてくださる社交事業の担当を、お嬢様が引き継ぐ、と、家令から先に伝えてくださっております」
「家令が、先に伝えてくれていたのですね」
「はい」
殿下は、わずかに微笑された。
「ヴァランス家として、家として続けてくださる社交事業の席は、王宮事務方の側として、家として信頼する側として、続けて、お預けいたします」
「光栄に存じます」
殿下は、深く頷かれた。
「クラリス嬢」
「殿下」
「ヴァランス家として、家として社交事業の席を続けてくださることが、ご両親として、正しく見ていらっしゃることだ、と、私は考えております」
殿下は、短く言葉を足された。
「ご両親が、正しく見ていらっしゃる」
私は深く頷いた。
殿下は、ようやく席を立たれた。
お父様の書斎を出る前に、もう一度、頭を下げられた。
「ヴァランス侯爵閣下、お時間を頂戴し、ありがとうございました」
「殿下、こちらこそ。遠いところを、お足のお運び、ありがとうございました」
家令が、玄関まで見送りに出た。
私はお父様と一緒に、お父様の書斎の入口で、もう一度頭を下げて、殿下の馬車の音が、ヴァランス家の門の外まで遠ざかっていくのを、聞いていた。
「お父様」
「うん」
「殿下のお越しは」
「ご公務として、正式に、ヴァランス家にお越しになることだった。お父様の書斎にお越しになるのも、ご公務の慣例の範囲だ」
「お父様」
「ただし、殿下が、ヴァランス家のお父様に、娘の将来の席を伺ってくださったのは、ご公務として、正式の範囲を、わずかに超えていた」
「お父様、それは」
「殿下は、娘を、ご公務として続けて預けるだけでなく、ご家として続けて話したい、というお考えなのだろう」
お父様は、私の顔をゆっくりと見上げられた。
「クラリス」
「はい」
「殿下の馬車の音を聞いているお前の顔の色が、今朝のうちで、いちばん落ち着いている」
「お父様」
「お父様は、娘の将来の席を決めるのは、娘の側の意思だ、と申し上げた」
「お父様」
「それは、お父様が、長く、娘を見続けてきた結論だ」
私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「殿下の馬車の音が、ヴァランス家の門の外まで遠ざかっていく前に」
家令が、お父様の書斎の入口で、声を低く入れた。
「殿下が、玄関で見送る際に、ひと言、言葉を残されました」
「家令、その言葉を、伝えてくれる?」
「『あの方は、よく見ていらっしゃるのね』」
家令は、声を低く、お母様の口の語調で再現した。
「奥様が、見送りの折に、玄関で殿下の馬車の音を聞いていらして、ひと言、小さく、微笑みながら、独り言で、おっしゃいました」
「お母様が、ご覧になっていたのね」
「左様でございます」
家令は深く頷いて、お父様の書斎を出た。
私は、お父様の書斎の入口で、もう一度だけ、お父様を見上げた。
「お父様」
「うん」
「ヴァランス家の社交事業を引き継いで、私が、一人前になるのが、始まりですね」
「ああ」
「お父様、ありがとうございます」
「クラリス」
お父様の声は、わずかに笑いを含んでいた。
「お父様は、娘が一人前になるのを見ているところで、お母様と一席、微笑みを交わしたところだ」
その晩、ヴァランス家の母方の伯母様が預けてくださっていた覚書を、私は、書斎の机のうえに、王宮事務方の規定の写しの隣に並べた。
ヴァランス家の社交事業の覚書。
王宮事務方のご公務の規定の写し。
それから、ライナス殿下の別便の書きの控え。
三つの紙の重なりが、書斎の机のうえで、これからの私の席で、並んでいた。
書斎の窓の外で、初夏のはじめの夜の空気が、ゆっくりと深くなっていった。
ヴァランス家の門の外で、馬車の音は、もう聞こえなかった。
机のうえの覚書の革の表紙の重みが、両手の指の内側で、まだ残っていた。
私は、書斎の窓の外を、しばらく見ていた。
母の口元の微笑みが、玄関で、私とお父様の見送りの折に、音にならずに、見守ってくださっていたことが、まだ、私の中に残っていた。




