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『彼女は家族同然なんだ』と繰り返すあなたへ。では、私は婚約者を辞めます  作者: 九葉(くずは)


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15/22

第十五話 ヴァランス侯爵家の決算

朝食の席で、父がいつもより少し早く本題を切り出した。


その朝は、空がよく晴れていた。庭の植え込みのうえに、初夏のはじめの強い光が、まっすぐに落ちている。


朝食室の卓には、母が活けた紫の小花の鉢と、家令が温めた紅茶と、いつもより一品多い焼き菓子があった。家令の話では、母が「今朝は、お父様のお話のお時間を、ゆっくり過ごせるように」と、台所に申し付けたそうだ。


「クラリス」


父は、紅茶のカップを置いてから、私のほうへ顔を向けた。


「はい」


「今朝は、ひとつ、お前に話したいことがあって、家令に先に支度をさせた」


「お父様」


「ヴァランス家の社交事業のことだ」


私は、紅茶のカップに伸ばしかけた手を、卓のうえに戻した。


ヴァランス家の社交事業。


それは、私が婚約期間中、断片的にしか名前を知らなかった、家の中の一区切りだった。お父様が、ヴァランス家の名で、王都の社交界のいくつかの催事の席を整えること。茶会、夜会、観劇の席のお取り次ぎ、贈答記録の管理、年に二度の社交界の名簿の更新。それらを、ヴァランス家の家令と、お父様の右腕の方が一緒に進めていらした。


私は、自分の婚約の席に集中するために、ヴァランス家の社交事業には、ほとんど手を出していなかった。お父様も、私の仕事を、娘の婚約期間中は、お父様の側で預けにしておくつもりでいらした。


「お父様」


「うん」


「ヴァランス家の社交事業の、何の話ですか」


父は、紅茶のカップを、もう一度、卓のうえに置いた。


「クラリス。ヴァランス家の社交事業を、お前に、正式に引き継いでもらいたい」


朝食室のなかで、母が、紅茶のカップを、ふと、軽く卓のうえに置いた。


その音は、いつもより、ほんの少しだけ、はっきりとしていた。


「お父様」


「ヴァランス家の母方の家の伝統だ」


父は、紅茶のカップに、もう一度手を伸ばしながら、続けた。


「お前のお母様の側の家、ベルロワ家の家系では、家のうち、社交の席を担当する令嬢が一人いることが、長く慣例だった。お母様の代では、お母様のお姉様が、社交事業の担当でいらした」


「伯母様が」


「ああ。私がヴァランス家の娘としてお母様を迎えたとき、ベルロワ家から、伯母様が、ヴァランス家の社交事業の引き継ぎの覚書を、お母様に預けてくださっていた」


母が、わずかに頷かれた。


「クラリス」


母の声は、いつもより落ち着いていた。


「私は、ヴァランス家に嫁ぐおりに、伯母様の覚書を、ヴァランス家の書斎に納めたまま、お父様に、社交事業の席を、家令の方々と一緒に進めていただいてきました」


「お母様」


「私自身が、社交事業の担当者として、席に立つことを、自分で選ばなかったのです。お父様が、ご当主として席に立たれるのが、ヴァランス家の慣例に合うと、お母様の代で、決めました」


「左様でございますか」


「けれど、お父様が、娘が婚約の席から離れた今、伯母様の預けの覚書を、書斎の棚で長く眠らせたままにしておくのは、私としては、本意ではございません」


母の声は、わずかに震えていた。


それは、悲しみの震えではなかった。母が、長く書斎の棚に納めたままだった預けを、ようやく娘の手に渡すことの、お気持ちの重みだった。


「お母様」


「クラリス。お母様の伯母様が、社交事業の覚書を、ご自分の家の娘ではなく、ベルロワ家から、ヴァランス家へ預けてくださったのは、伯母様が、社交の席を担当することは、ご家の名ではなく、一人の令嬢として引き継ぐべきだ、と決めていらしたからです」


「ご家の名ではなく、一人の令嬢、ですか」


「はい」


母の口元が、わずかに微笑になった。


「ヴァランス家で、社交事業の席を担当することは、家の名で動くことだけではありません。一人の令嬢として、席の話、紙の動き、贈答の整い、招待状の書きを、自分の手で整え直すこと。それが、社交事業の務めです」


母は、紅茶のカップを、ふたたび手に取った。


「クラリスが、婚約期間中の三年で整えてきたものは、まさに、社交事業の務めの形でいらっしゃいました。お母様としては、それを、書斎の棚で、ようやく、一人前の形で引き継いでもらう時間が来た、と、お父様と昨晩、話したのです」


「お父様、お母様」


私は、両手を、卓のうえで、軽く重ねた。


「ヴァランス家の社交事業の引き継ぎで、ひとつだけ、伺ってもよろしいでしょうか」


「うん」


「私が、王宮事務方のご公務を続けることとの重ねは、いかがお考えですか」


父は、紅茶のカップを、軽く卓に戻した。


「クラリス、それは、お前が、まず、考えるべきことだ」


「お父様」


「ヴァランス家の社交事業は、家の席として、年に四、五度の主要な催事の席のお取り次ぎが、務めの中心だ。王宮事務方のご公務も、年に四度の催事だ。席の時期が、お互いに重なる場合は、お母様と私で、席の調整を引き受ける、と、お母様と考えていた」


「お父様が調整くださるのですか」


「ヴァランス家の社交事業は、お父様が、これまでも家令と一緒に進めてきた。席の整いで、お前の手の動きを、いつでも支える」


「お父様」


「ヴァランス家の社交事業の務めは、娘が一人で背負うものではない。家の席として、お父様も、お母様も、家令も、一緒に務める」


私は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「クラリス」


母が、私の名を軽く呼んだ。


「ヴァランス家の社交事業を引き継ぐにあたって、ベルロワ家の伯母様が預けてくださっていた覚書を、お母様が、今日、書斎の棚から取り出してまいりました」


母は席を立たれた。


朝食室の入口で、家令が、ベルロワ家の家紋の入った、古い革張りの覚書を、両手のうえに載せて立っていた。


家令が、覚書を、母の手に渡した。


母は、ご自分の手で、それを私のほうへ持ってきてくださった。


「クラリス」


「お母様」


「伯母様が、お母様へ預けてくださっていた覚書でございます」


「お預かりいたします」


私は、両手で、それを受け取った。


覚書の革の表紙は、お母様の伯母様の代から、二十数年の時間の重みで、わずかに擦れが残っていた。けれど、革の縁の縫いは、まだしっかりとしていた。


「クラリス」


「はい」


「お読みになるのは、一人で、時間をかけて読みなさい」


「お母様」


「読むことで、もう、社交事業の担当者として、家のうちで動くことが始まります」


私は、覚書を、軽く胸に抱いた。


革の表紙の重みが、両手のうえで、静かに休んでいた。


朝食を終えてから、私は、書斎へ覚書を運んだ。


ヴァランス家の書斎の机のうえに、覚書を置いた。


それから、家令を呼んで、ヴァランス家の社交事業の書きの預けの場所を、一度、お父様の書斎の隣の小さな部屋へ整え直すよう、頼んだ。


「お嬢様、ひとつだけ、よろしゅうございますか」


「はい」


「ヴァランス家の社交事業の書きの棚を、お父様の書斎の隣に整え直すのは、お父様にお確かめが」


「お父様には、私から伝えます」


「承知いたしました」


家令は、深く頷いて、書斎を出ていった。


私は、机のうえで、革張りの覚書を、ゆっくりと開いた。


最初の頁に、伯母様の手の字で、短い書きがあった。


「ヴァランス家の社交事業の覚書は、預ける先の令嬢が、自分の目で、読みなさい。席の取り次ぎは、紙のうえの整いと、席の人の整いと、一年の動きの整いで、成り立つ。紙のうえの整いは、一人で整えなさい。席の人の整いは、お互いの家で整えなさい。一年の動きの整いは、時代で整えなさい。ベルロワ家にて、伯母より」


伯母様の手の字は、母の字よりも、一段、力強かった。けれど、読みやすかった。


私は、覚書を、頁ごとに、一冊、読み進めた。


午前のうちに、最初の三章を読み終えた。


社交界の席の取り次ぎの基本。贈答記録の格付けの慣例。招待状の書きの体裁の整い。


これらは、私の婚約期間中、ヴァランス家の側で、家令と相談しながら、自分の手で試しに整えてきたものと、ほぼ同じだった。私は、覚書を読みながら、改めて、ヴァランス家の母方の家の伝統が、私の手の動きの背骨のうえに、長く残っていたことを、自分の中で見つけた。


午後になって、家令が、ふたたび声を入れた。


「お嬢様」


「はい」


「王宮から、別の便で、書きが届いてございます」


「ライナス殿下、ですね」


「いえ。本日は、ライナス殿下のお手紙ではございません」


「では」


「ライナス殿下が、午後の遅い時間に、ご公務の打ち合わせで、当家へお越しになる、と、王宮事務方の家令経由の書きでございます」


私は、紅茶のカップに伸ばしかけた手を、止めた。


「殿下が、応接室ではなく、お父様の書斎で、ご公務の打ち合わせですか」


「いえ。応接室ではなく、お父様の書斎で、お父様もご一緒に、ご公務の打ち合わせの席だと」


「お父様の書斎で、ご公務の打ち合わせ、ですか」


「左様でございます。席のなかで、お父様にも、席にお出になっていただくのが、ご公務の慣例として正式だ、との書きでございます」


私は、覚書を、机のうえに軽く置いた。


ライナス殿下が、ご公務の打ち合わせで、ヴァランス家のお父様の書斎にお越しになる。それは、ご公務の正式な手順としては、確かに慣例の範囲内だった。けれど、第二王子殿下が、お父様の書斎にお越しになるのは、ヴァランス家にとっても、めったにないことだった。


「家令」


「はい」


「お父様には、お知らせしてくれている?」


「お父様には、一時間ほど前に、王宮の家令から、先に伝えがあったとのことです」


「私が、お父様の書斎の席に出るのは」


「お父様が、ご公務の打ち合わせで、お嬢様が、席に出ることが、ご公務の中心だ、とのお考えです」


「私が、お父様の書斎に、出るのですね」


「左様でございます」


私は深く頷いた。


午後の遅い時間、ライナス殿下が、ヴァランス家の門を入られた。


殿下のご公務でのお越しは、ご公務の馬車に、王宮事務方の家令と、ご公務の書類入れを持つお側仕えを、一人ずつ連れていらした。


応接室ではなく、お父様の書斎へ、家令が案内した。


私は、母から頂いた紫の小花の鉢の隣の廊下で、お父様と一緒に、殿下のお越しを迎えた。


「殿下、お越しくださり、ありがとうございます」


「ヴァランス侯爵閣下、クラリス嬢。お時間を頂戴して、申し訳ない」


「いえ。お父様の書斎へ、どうぞ」


お父様の書斎は、ヴァランス家のうちで、最も静かな部屋だった。


殿下は、お父様の書斎の入口で、一歩、立ち止まられた。


それから、部屋の中を、ゆっくりと見渡された。


「ヴァランス侯爵閣下」


「殿下」


「立派な書斎でいらっしゃる」


「いえ、恐れ多いお言葉でございます」


殿下は、お父様の机の向かいの席に、腰を下ろされた。お父様は、ご当主の席に腰を下ろした。


私は、お父様の席の隣に腰を下ろした。


家令が、紅茶を運んできた。


殿下は、紅茶のカップを、手に取られた。


「クラリス嬢」


「殿下」


「先日、送ってくださった意見書を、王宮事務方の側で、正式に拝読いたしました」


「お読みくださり、ありがとうございます」


殿下は、ご公務の書類入れから、一冊の覚書を取り出された。


それは、私の手の覚書ではなく、王宮事務方の正式な覚書だった。


「来週の王宮の議事で、贈答記録の格付けの基準の議題の先に、クラリス嬢の意見書を、議事の紙のうえに載せることを、王宮侍従長と決めました」


「お父様、ご公務として、正式にご報告いただきます」


お父様は、深く頷かれた。


「殿下」


「ヴァランス侯爵閣下」


「娘が、ご公務で、王宮の議事の紙のうえに載るのは、ヴァランス家として、光栄に存じます」


「いえ、こちらこそ。クラリス嬢が、年三回の意見書を、ご公務の規定の正式な手順で続けてくださるよう、王宮事務方の側として、正式にお頼みしたく存じる、と、王宮侍従長と決めております」


「年三回の意見書、ですか」


「春期の正式夜会、夏期の宮内茶会、秋期の感謝祭夜会の催事の務めの記録の後に、一冊ずつ、議事の席に意見書を載せていただきます」


「ご公務の務めの範囲ですね」


「正式に、ご公務の務めの中身の改定で、決まりました」


お父様は、深く頷かれた。


「クラリス。お受けしなさい」


「お父様」


「続けての意見書は、ヴァランス家の社交事業にも役に立つ」


「はい」


「お受けいたします」


私は深く頭を下げた。


殿下は、ご公務の覚書を、卓のうえに、軽く置かれた。


「ヴァランス侯爵閣下」


「殿下」


「もうひとつ、ご公務の席ではなく、別の話で、お伝えしたいことがございます」


殿下の声を、一段、落とされた。


お父様の書斎の中で、紅茶のカップの湯気だけが、わずかに動いた。


「ヴァランス侯爵閣下、クラリス嬢」


「殿下」


「クラリス嬢の三年の覚書は、王宮事務方の紙のうえで、正式の規定の基礎になりつつあります」


「殿下」


「一席だけ、お父様に伺わせていただきたいことがございます」


「私にですか」


「はい」


殿下は、お父様の顔のほうへ視線をまっすぐ向けられた。


「クラリス嬢が、ご公務の規定の務めを続けてくださることで、これから先、いずれ、王宮事務方の側で、正式の席を持つことが、現実としてあり得る、と、王宮事務方の側で考えております」


「殿下」


「ヴァランス家として、娘が、王宮事務方で正式の席を持つことについて、ヴァランス侯爵閣下のお考えを、ご家として伺わせていただきたく存じます」


お父様の書斎の中で、紅茶のカップの湯気だけが、動いていた。


私は、卓のうえで、両手を軽く重ねた。


殿下が、ご公務の務めを通じて、私の将来の席が、王宮事務方の正式の席へつながる可能性を、お父様に伺ってくださっている。


「殿下」


お父様の声は、いつもより落ち着いていた。


「娘の将来の席を、ヴァランス家として決めるのは、家ではなく、娘の側の考えだ、と、私は思っております」


「ヴァランス侯爵閣下」


「娘が、王宮事務方の側で、正式の席を持つことについて、家として反対することは、ございません」


「左様でございますか」


「娘が、自分の意思で決めることを、私は、父として、家として、受け入れます」


殿下は、深く頷かれた。


「ヴァランス侯爵閣下、ありがとうございます」


「殿下」


「もう一席、お一席で続けてもよろしいでしょうか」


「はい」


殿下は、紅茶のカップを、卓のうえに軽く戻された。


「クラリス嬢」


「殿下」


「ヴァランス家として、家令を経由して、王宮事務方の側へ、ご家として続けてくださる社交事業の担当を、お嬢様が引き継ぐ、と、家令から先に伝えてくださっております」


「家令が、先に伝えてくれていたのですね」


「はい」


殿下は、わずかに微笑された。


「ヴァランス家として、家として続けてくださる社交事業の席は、王宮事務方の側として、家として信頼する側として、続けて、お預けいたします」


「光栄に存じます」


殿下は、深く頷かれた。


「クラリス嬢」


「殿下」


「ヴァランス家として、家として社交事業の席を続けてくださることが、ご両親として、正しく見ていらっしゃることだ、と、私は考えております」


殿下は、短く言葉を足された。


「ご両親が、正しく見ていらっしゃる」


私は深く頷いた。


殿下は、ようやく席を立たれた。


お父様の書斎を出る前に、もう一度、頭を下げられた。


「ヴァランス侯爵閣下、お時間を頂戴し、ありがとうございました」


「殿下、こちらこそ。遠いところを、お足のお運び、ありがとうございました」


家令が、玄関まで見送りに出た。


私はお父様と一緒に、お父様の書斎の入口で、もう一度頭を下げて、殿下の馬車の音が、ヴァランス家の門の外まで遠ざかっていくのを、聞いていた。


「お父様」


「うん」


「殿下のお越しは」


「ご公務として、正式に、ヴァランス家にお越しになることだった。お父様の書斎にお越しになるのも、ご公務の慣例の範囲だ」


「お父様」


「ただし、殿下が、ヴァランス家のお父様に、娘の将来の席を伺ってくださったのは、ご公務として、正式の範囲を、わずかに超えていた」


「お父様、それは」


「殿下は、娘を、ご公務として続けて預けるだけでなく、ご家として続けて話したい、というお考えなのだろう」


お父様は、私の顔をゆっくりと見上げられた。


「クラリス」


「はい」


「殿下の馬車の音を聞いているお前の顔の色が、今朝のうちで、いちばん落ち着いている」


「お父様」


「お父様は、娘の将来の席を決めるのは、娘の側の意思だ、と申し上げた」


「お父様」


「それは、お父様が、長く、娘を見続けてきた結論だ」


私は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「殿下の馬車の音が、ヴァランス家の門の外まで遠ざかっていく前に」


家令が、お父様の書斎の入口で、声を低く入れた。


「殿下が、玄関で見送る際に、ひと言、言葉を残されました」


「家令、その言葉を、伝えてくれる?」


「『あの方は、よく見ていらっしゃるのね』」


家令は、声を低く、お母様の口の語調で再現した。


「奥様が、見送りの折に、玄関で殿下の馬車の音を聞いていらして、ひと言、小さく、微笑みながら、独り言で、おっしゃいました」


「お母様が、ご覧になっていたのね」


「左様でございます」


家令は深く頷いて、お父様の書斎を出た。


私は、お父様の書斎の入口で、もう一度だけ、お父様を見上げた。


「お父様」


「うん」


「ヴァランス家の社交事業を引き継いで、私が、一人前になるのが、始まりですね」


「ああ」


「お父様、ありがとうございます」


「クラリス」


お父様の声は、わずかに笑いを含んでいた。


「お父様は、娘が一人前になるのを見ているところで、お母様と一席、微笑みを交わしたところだ」


その晩、ヴァランス家の母方の伯母様が預けてくださっていた覚書を、私は、書斎の机のうえに、王宮事務方の規定の写しの隣に並べた。


ヴァランス家の社交事業の覚書。


王宮事務方のご公務の規定の写し。


それから、ライナス殿下の別便の書きの控え。


三つの紙の重なりが、書斎の机のうえで、これからの私の席で、並んでいた。


書斎の窓の外で、初夏のはじめの夜の空気が、ゆっくりと深くなっていった。


ヴァランス家の門の外で、馬車の音は、もう聞こえなかった。


机のうえの覚書の革の表紙の重みが、両手の指の内側で、まだ残っていた。


私は、書斎の窓の外を、しばらく見ていた。


母の口元の微笑みが、玄関で、私とお父様の見送りの折に、音にならずに、見守ってくださっていたことが、まだ、私の中に残っていた。


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