第十三話 公爵閣下のお越し
公爵閣下の馬車が、ヴァランス家の門を入る音を、私は応接室で聞いていた。
その日は、朝からよく晴れていた。
午前のうちに、私は王宮事務方からのご公務の書きを整理し、応接室の卓の上に、今日お預かりするべき紙だけを、ひと束にまとめておいた。客人帳の新しい頁は、家令に預けて、書斎の引き出しに収めてある。
公爵閣下が、ご当主自らヴァランス家へお越しになる。その席の書きが、お父様の書斎に正式に届いてから、二日。
私は、淡い灰青の昼の装いを選んだ。社交の催事に出かけるためのものではなく、応接室で人をお迎えするための、落ち着いた色合いの一着。母が、襟元の縫いを、念のため侍女に二度確かめさせた。
「クラリス」
応接室で待っているあいだ、お父様は、私の隣の椅子で、静かにお茶を飲んでいらした。
「はい」
「公爵閣下がいらっしゃる前に、ひとつだけ、お前に伝えておく」
「はい」
「今日の席で、公爵閣下からどのような言葉を頂戴したとしても、お前は、お前の言葉でお答えしなさい」
「承知いたしました」
「お父様が代わりに答えることはしない。お前は、ヴァランス家の令嬢として、私の隣に座る。けれど、お前の三年の話は、お前のものだ」
私は深く頷いた。
その短い言葉のなかに、お父様が長い三年で、ようやく娘を一人の人として扱う、というお気持ちが含まれていた。
家令が応接室の入口に立った。
「お父様、お嬢様。公爵閣下の馬車が、門を入られました」
「お通ししなさい」
家令は深く頭を下げて、玄関へ向かった。
私は、紅茶のカップを、軽く卓の上に置き直した。
馬車の車輪の音が、玄関のすぐ前で止まった。
公爵閣下が、ヴァランス家の玄関を、お一人で入っていらした。
ご当家の家令を、お一人だけ連れていらした。供は、馬車の脇で待ち、邸内まで入って来なかった。
応接室の入口で、家令が、深く頭を下げて、公爵閣下を迎えた。
「ヴァランス侯爵閣下、お嬢様。モンフォール公爵閣下、お越しでございます」
私とお父様は、席を立って、応接室の中央で迎えた。
「公爵閣下、お越しくださり、ありがとうございます」
お父様は、深く礼をした。
私もそれにあわせて、深くお辞儀をした。
公爵閣下は、応接室の入口で、ご自分の側からも、深く礼をされた。
それは、社交の場でご当主同士が交わすお辞儀よりも、わずかに深いお辞儀だった。
「ヴァランス侯爵閣下、お時間を頂戴し、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、お忙しいなか」
「クラリス嬢」
公爵閣下の声は、私の名を、しっかりと呼んだ。
「お越しくださり、ありがとうございます、と、まずは申し上げたい」
私は、もう一度、深くお辞儀をした。
「公爵閣下、ようこそお越しくださいました」
公爵閣下は、席に進む前に、応接室の中央でしばらく立っていらした。
それから、ご自分の手元の小さな書類入れを、わずかに揺らされた。
「席につく前に、ひとつだけ、お伝えさせてください」
公爵閣下の声は、低く、けれど、はっきりと落ち着いていた。
「クラリス嬢、ヴァランス侯爵閣下。本日、私がこちらへ参りましたのは、ご公務の代理でも、社交の催事の代理でもございません。我がモンフォール家のご当主として、ヴァランス家への、ご訪問でございます」
「公爵閣下」
「訪問の趣旨を、席につく前にお伝えいたします」
公爵閣下は、深く息を吸われた。
「クラリス嬢、ヴァランス侯爵閣下。
我が家のロベルトが、三年のあいだ、クラリス嬢のお時間と、お席と、お労力を、自分の優先順位のなかで誤って預かってきたこと。
我が家として、これまでヴァランス家とクラリス嬢に申し上げるべき謝罪を、私自身の口で、まだ申し上げできていなかったこと。
この二つで、本日、ヴァランス家へ参りました」
公爵閣下は、応接室の中央で、もう一度、深いお辞儀をされた。
それは、席につく前の、深い深いお辞儀だった。
私は、その場でお返しのお辞儀をするのを、ためらった。
公爵閣下のお辞儀は、応接室の中央という、客人と主人のあいだの席で、本来交わす種類のお辞儀ではなかった。
お父様も、応接室の真ん中で、わずかに止まっていらした。
「公爵閣下」
お父様が声をかけられたのは、わずかな間のあとだった。
「まずは、席にお進みくださいませ」
公爵閣下は、深く頷かれた。
応接室の中央のソファに、公爵閣下が腰を下ろされた。
その向かいに、お父様と私が座った。
家令と公爵家のご家令が、紅茶を運んできた。
紅茶のカップが、それぞれの前に置かれた。
「ヴァランス侯爵閣下」
「公爵閣下」
「クラリス嬢」
「公爵閣下」
公爵閣下は、ご自分の手元の書類入れを、ソファの脇の小卓の上に置かれた。
書類入れから、一冊の覚書のような紙束を取り出された。
「本日、私がこちらに運びましたのは、これでございます」
公爵閣下の手のうえに、私には見覚えのある紙束があった。
それは、私が公爵家のお茶会のおりに整えていた、来年の社交シーズン用の覚書――婚約期間中、お正月明けに、ロベルト様にお渡ししたものだった。
「これは、クラリス嬢が昨年のお正月明けに、ロベルトに渡してくださった、来年の社交シーズン用の覚書でございます」
「はい」
「ロベルトの席の整え方を、一年分、先に示してくださっていたものでございます」
公爵閣下の口元が、わずかに固くなった。
「私は、これを、つい先日、ロベルトの書斎の机の上で見つけました」
「ロベルト様の机の上に、まだ置かれていたのですか」
「はい」
公爵閣下の声は、低くなった。
「ロベルトは、これを一度も開いていなかった。書斎の机の上に置いたままで、自分のお茶会の支度には、一度も使っていなかった、ということが、紙の汚れと折り跡の少なさから、はっきり見てとれました」
私は、紅茶のカップに伸ばしかけた手を、止めた。
「私は、これをロベルトの机の上で見つけたあと、書斎で、一度、頁を開きました」
「公爵閣下」
「クラリス嬢の手で、ひと月ごとの茶会、夜会、観劇、お祝いの催事、贈答の手配の全部が、整え書きされておりました」
公爵閣下は、紙束を、小卓の上に丁寧に置かれた。
「ロベルトが、これを一度も開かずにいた、ということは」
「はい」
「公爵家の昨年の茶会の席の整いが、たまたまではなく、必然として崩れていた、ということでございます」
応接室の中の空気が、わずかに重くなっていた。
公爵閣下は、ふたたび息を整えてから、続けられた。
「ロベルトは、これを開かないままで、リーゼ様の席ばかりを、自分の口で当日に組み直していた。クラリス嬢の手のうえで、一年分の整いが、すでに書かれていたにもかかわらず」
「公爵閣下」
「クラリス嬢」
「はい」
「我が家の名で、改めてお謝り申し上げる」
公爵閣下は、ソファのうえで、ふたたび深く頭を下げられた。
「ロベルトは、自分の優先順位を一人で決めていた。それを、私は、長く見過ごしてきた。父として、もっと早く問い詰めるべきでございました」
「公爵閣下」
「クラリス嬢、お受け取りくださいませ」
公爵閣下は、紙束を、卓越しに私のほうへ滑らせた。
「これは、クラリス嬢の手で整えてくださっていた覚書でございます。我が家に預かっていたものを、お返しいたします」
私は、紙束に手を伸ばすことができなかった。
それは、私が三年で、いちばん心を込めて整えた覚書のうちの一冊だった。お正月明けの寒い朝に、書斎でストーブを焚きながら、一日かけて書き写したものだった。
それを、ロベルト様は、一度も開かなかった。
私は、ようやく、紙束のうえに手を置いた。
紙の角は、ロベルト様の書斎の机の上で、一年動いていなかった折り跡のままで残っていた。
公爵閣下は、もう一度、深く頭を下げられた。
「クラリス嬢」
「公爵閣下」
「ヴァランス侯爵令嬢クラリス嬢の三年は、我がモンフォール家にとって、一冊の覚書、一席の席次、一品の贈答の格付け、すべての目に見えにくい仕事の積み重ねでございました。見えにくい仕事が、一年分、机の上で一度も開かれなかった、ということが、私にとって、お謝り申し上げる、いちばんの根拠でございます」
「公爵閣下」
「もうひとつ、お伝えしたいことがございます」
「はい」
「我がモンフォール家から、これから、ヴァランス家への謝罪を、正式な書面で整える手続きを進めてまいります。私の側から、ご当家の家へ、書面の形で整え書きを預ける段取りでございます」
「公爵閣下」
「ロベルトが自分の側からヴァランス家にお詫び申し上げることも、これから先、ロベルト本人にとっての、時間と言葉の整理が必要でございます。私は、ロベルトのお詫びを、急がせはいたしません。ロベルトが、一人で時間をかけて、ヴァランス家に運んでくるのを、待たせていただきたく存じます」
私は深く頷いた。
公爵閣下の言葉のあとには、お父様が、ようやくご自分の口を開かれた。
「公爵閣下」
「ヴァランス侯爵閣下」
「本日のお越しを、ヴァランス家としてお受けいたす」
「ありがとうございます」
「公爵閣下のお越しで、ご当主のお気持ちのご整理のことを、ヴァランス家として、十分に頂戴いたした」
「ありがとうございます」
「ロベルト様のお詫びは、当家のご都合の時間でお待ち申し上げる。これは、ヴァランス家として、急がせるものではない」
「お言葉に、感謝申し上げる」
お父様の声は、いつもどおりだった。けれど、声のうしろに、長く娘を見続けてきた父の、わずかな重みが含まれていた。
公爵閣下は、ソファのうえで、もう一度、深く頭を下げられた。
「もうひとつ、お伝えいたします」
「はい」
「我がモンフォール家から、ロベルトの婚約相手として、新しい家のご準備をすることは、当面いたしません」
「公爵閣下」
「ロベルトが、一人で自分の優先順位を整理する時間が必要でございます。婚約のことを、社交界の体裁のために急ぐのは、私の側で止めます」
「ご決断、お受けいたす」
お父様は深く頷いた。
応接室のうえに、紅茶の湯気が、静かに上がっていた。
私は、卓の上の紙束を、両手の上に、軽く取り上げた。
紙束の重みは、思っていたよりも軽く、一年分の重みが、紙のなかに薄く残っていた。
「公爵閣下」
「はい」
「紙束、受け取らせていただきます」
「ありがとうございます」
私は、紙束を、自分の側の膝の上に置いた。
紙束の角は、一年分の机の上の動きの少なさを、まだ示していた。
「公爵閣下」
「クラリス嬢」
「ひとつだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「はい」
「公爵家のお茶会、夜会の席は、これからいかがなさいますか」
公爵閣下の口元が、ほんの少しだけ、苦笑になった。
「我が家のお茶会は、当面のあいだ、親しい家だけの、小さな席として続ける予定でございます。大きな催事は、しばらく、整え担当として、一人前の方を置くまでは、控えます」
「整え担当を置かれるのですか」
「はい」
公爵閣下の声は、淡々としていた。
「我が家の侍従頭の下に、整えの担当を一人、雇います。茶会の席次、贈答の格付け、招待状の格を、整える公的な席に女性を置くことを、私自身、ようやく決めたところでございます」
「公爵閣下」
「クラリス嬢の仕事を、一人の担当に置き換えることは、できません。けれど、一人の席を、一人前の方に任せることで、我が家の茶会の整いを、一段、整え直すつもりでございます」
「公爵閣下」
「これは、クラリス嬢の仕事の重さを、ご家として、遅まきながら認める、ひとつの形でございます」
私は、両手の膝のうえの紙束を、軽く握り直した。
「ありがとうございます」
公爵閣下は、紅茶のカップを軽く取り上げて、ようやく口に運ばれた。
紅茶のカップの湯気は、薄くなっていた。
「ヴァランス侯爵閣下、お嬢様」
公爵閣下は、紅茶を半分ほど召し上がってから、もう一度、深く頭を下げられた。
「本日のお越しを、お受けくださり、ありがとうございました」
「公爵閣下」
公爵閣下の席が、ようやく立つ時間になった。
応接室の中央で見送る際、公爵閣下は、私の顔を、もう一度、見上げられた。
「クラリス嬢」
「公爵閣下」
「あなたの仕事を、私は一年、机の上で見過ごしていた父でございます」
「公爵閣下」
「これからのあなたが、ご当家ではない、別の席で、ご自分の三年の重みに見合う方に出会われますように」
私は深く頭を下げた。
「お言葉、頂戴いたします」
公爵閣下は、応接室の入口で、ご自分の手で、わずかに頭を下げて、ヴァランス家の玄関のほうへ進まれた。
家令が、玄関まで見送りに出た。
応接室の中に、お父様と、私と、紅茶のカップが残った。
「お父様」
「うん」
「公爵閣下のお越しは」
「ヴァランス家としてお受けすべきお越しだった」
「はい」
「クラリス。お前の三年は、今、公爵家から、一回り、重みを認めていただいた」
「お父様」
「ロベルト様のお詫びが、これから来るときは、お前の時間でお受けしなさい。お父様も、お母様も、お前のお気持ちの時間を、急がせない」
「ありがとうございます」
馬車の車輪の音が、ヴァランス家の門の外で、ゆっくりと遠ざかっていった。
家令が、応接室の入口で、深く頭を下げた。
「お父様、お嬢様。公爵閣下の馬車が、ご退出されました」
「ありがとう」
「お父様、お嬢様」
家令は、もう一度、低く声を入れた。
「公爵閣下が、ご退出の際に、ひと言だけ、私の側に言葉を残されました」
「家令に?」
「はい」
家令は、わずかに身体を、お父様と私のほうへ寄せた。
「『お父様にも、お嬢様にも、ヴァランス家に、一年、紙のうえだけでお預けしたままだった、一人のお嬢様の仕事を、ようやく返しに参りました』と」
「家令」
「『一年、紙のうえだけで、と申し上げたのは、お謝りの言葉ではなく、私自身への戒めでございます』と」
私は、膝の上の紙束を、もう一度、軽く握り直した。
家令は、もう一度、深く頭を下げて、応接室を出ていった。
応接室の中で、お父様は、紅茶のカップを、軽く卓に戻された。
「クラリス」
「はい」
「お疲れだろう」
「お父様」
「今日のお席を、お前は、お前の言葉で務めた」
「お父様」
「お母様にも、後ほど話す。今は、書斎へ戻って、紙束を、お前の書斎に納めなさい」
私は深く頷いた。
応接室を出る前に、私は、もう一度だけ、卓の上に残った、公爵閣下の召し上がりの紅茶のカップを見上げた。
紅茶のカップの中身は、半分ほど残されていた。
公爵閣下は、紅茶をいつもの席よりも早めに置いて、お辞儀をしていらした。
その飲み残しの紅茶のカップが、卓の上で、ゆっくりと冷めていくのを、家令が片付ける前に、私はしばらく見ていた。
書斎へ戻って、私は、机の上に紙束を置いた。
ロベルト様の机の上で、一年動かなかった紙束。
ヴァランス家の書斎の机の上で、これから別の意味で動かれていく紙束。
机の上で、紙束の角を、軽く整え直した。
書斎の窓の外で、午後の光が、わずかに傾き始めていた。
私の三年は、公爵家から、ようやく一年、机の上で見過ごされていた重みのまま、ヴァランス家の側に戻ってきていた。
その夜、書斎の窓を閉める前に、私は、もう一度だけ、紙束の表紙に手を置いた。
ロベルト様のお詫びのお越しは、まだ来ていなかった。
その日は、たぶん、いつか、別の日に来る。
公爵閣下が一人でヴァランス家の門を入っていらした馬車の音は、もう、ヴァランス家の門の外には残っていなかった。
書斎の机の上の紙束だけが、一年分の紙の重みで、静かに残っていた。




