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『彼女は家族同然なんだ』と繰り返すあなたへ。では、私は婚約者を辞めます  作者: 九葉(くずは)


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13/22

第十三話 公爵閣下のお越し

公爵閣下の馬車が、ヴァランス家の門を入る音を、私は応接室で聞いていた。


その日は、朝からよく晴れていた。


午前のうちに、私は王宮事務方からのご公務の書きを整理し、応接室の卓の上に、今日お預かりするべき紙だけを、ひと束にまとめておいた。客人帳の新しい頁は、家令に預けて、書斎の引き出しに収めてある。


公爵閣下が、ご当主自らヴァランス家へお越しになる。その席の書きが、お父様の書斎に正式に届いてから、二日。


私は、淡い灰青の昼の装いを選んだ。社交の催事に出かけるためのものではなく、応接室で人をお迎えするための、落ち着いた色合いの一着。母が、襟元の縫いを、念のため侍女に二度確かめさせた。


「クラリス」


応接室で待っているあいだ、お父様は、私の隣の椅子で、静かにお茶を飲んでいらした。


「はい」


「公爵閣下がいらっしゃる前に、ひとつだけ、お前に伝えておく」


「はい」


「今日の席で、公爵閣下からどのような言葉を頂戴したとしても、お前は、お前の言葉でお答えしなさい」


「承知いたしました」


「お父様が代わりに答えることはしない。お前は、ヴァランス家の令嬢として、私の隣に座る。けれど、お前の三年の話は、お前のものだ」


私は深く頷いた。


その短い言葉のなかに、お父様が長い三年で、ようやく娘を一人の人として扱う、というお気持ちが含まれていた。


家令が応接室の入口に立った。


「お父様、お嬢様。公爵閣下の馬車が、門を入られました」


「お通ししなさい」


家令は深く頭を下げて、玄関へ向かった。


私は、紅茶のカップを、軽く卓の上に置き直した。


馬車の車輪の音が、玄関のすぐ前で止まった。


公爵閣下が、ヴァランス家の玄関を、お一人で入っていらした。


ご当家の家令を、お一人だけ連れていらした。供は、馬車の脇で待ち、邸内まで入って来なかった。


応接室の入口で、家令が、深く頭を下げて、公爵閣下を迎えた。


「ヴァランス侯爵閣下、お嬢様。モンフォール公爵閣下、お越しでございます」


私とお父様は、席を立って、応接室の中央で迎えた。


「公爵閣下、お越しくださり、ありがとうございます」


お父様は、深く礼をした。


私もそれにあわせて、深くお辞儀をした。


公爵閣下は、応接室の入口で、ご自分の側からも、深く礼をされた。


それは、社交の場でご当主同士が交わすお辞儀よりも、わずかに深いお辞儀だった。


「ヴァランス侯爵閣下、お時間を頂戴し、ありがとうございます」


「いえ、こちらこそ、お忙しいなか」


「クラリス嬢」


公爵閣下の声は、私の名を、しっかりと呼んだ。


「お越しくださり、ありがとうございます、と、まずは申し上げたい」


私は、もう一度、深くお辞儀をした。


「公爵閣下、ようこそお越しくださいました」


公爵閣下は、席に進む前に、応接室の中央でしばらく立っていらした。


それから、ご自分の手元の小さな書類入れを、わずかに揺らされた。


「席につく前に、ひとつだけ、お伝えさせてください」


公爵閣下の声は、低く、けれど、はっきりと落ち着いていた。


「クラリス嬢、ヴァランス侯爵閣下。本日、私がこちらへ参りましたのは、ご公務の代理でも、社交の催事の代理でもございません。我がモンフォール家のご当主として、ヴァランス家への、ご訪問でございます」


「公爵閣下」


「訪問の趣旨を、席につく前にお伝えいたします」


公爵閣下は、深く息を吸われた。


「クラリス嬢、ヴァランス侯爵閣下。


我が家のロベルトが、三年のあいだ、クラリス嬢のお時間と、お席と、お労力を、自分の優先順位のなかで誤って預かってきたこと。


我が家として、これまでヴァランス家とクラリス嬢に申し上げるべき謝罪を、私自身の口で、まだ申し上げできていなかったこと。


この二つで、本日、ヴァランス家へ参りました」


公爵閣下は、応接室の中央で、もう一度、深いお辞儀をされた。


それは、席につく前の、深い深いお辞儀だった。


私は、その場でお返しのお辞儀をするのを、ためらった。


公爵閣下のお辞儀は、応接室の中央という、客人と主人のあいだの席で、本来交わす種類のお辞儀ではなかった。


お父様も、応接室の真ん中で、わずかに止まっていらした。


「公爵閣下」


お父様が声をかけられたのは、わずかな間のあとだった。


「まずは、席にお進みくださいませ」


公爵閣下は、深く頷かれた。


応接室の中央のソファに、公爵閣下が腰を下ろされた。


その向かいに、お父様と私が座った。


家令と公爵家のご家令が、紅茶を運んできた。


紅茶のカップが、それぞれの前に置かれた。


「ヴァランス侯爵閣下」


「公爵閣下」


「クラリス嬢」


「公爵閣下」


公爵閣下は、ご自分の手元の書類入れを、ソファの脇の小卓の上に置かれた。


書類入れから、一冊の覚書のような紙束を取り出された。


「本日、私がこちらに運びましたのは、これでございます」


公爵閣下の手のうえに、私には見覚えのある紙束があった。


それは、私が公爵家のお茶会のおりに整えていた、来年の社交シーズン用の覚書――婚約期間中、お正月明けに、ロベルト様にお渡ししたものだった。


「これは、クラリス嬢が昨年のお正月明けに、ロベルトに渡してくださった、来年の社交シーズン用の覚書でございます」


「はい」


「ロベルトの席の整え方を、一年分、先に示してくださっていたものでございます」


公爵閣下の口元が、わずかに固くなった。


「私は、これを、つい先日、ロベルトの書斎の机の上で見つけました」


「ロベルト様の机の上に、まだ置かれていたのですか」


「はい」


公爵閣下の声は、低くなった。


「ロベルトは、これを一度も開いていなかった。書斎の机の上に置いたままで、自分のお茶会の支度には、一度も使っていなかった、ということが、紙の汚れと折り跡の少なさから、はっきり見てとれました」


私は、紅茶のカップに伸ばしかけた手を、止めた。


「私は、これをロベルトの机の上で見つけたあと、書斎で、一度、頁を開きました」


「公爵閣下」


「クラリス嬢の手で、ひと月ごとの茶会、夜会、観劇、お祝いの催事、贈答の手配の全部が、整え書きされておりました」


公爵閣下は、紙束を、小卓の上に丁寧に置かれた。


「ロベルトが、これを一度も開かずにいた、ということは」


「はい」


「公爵家の昨年の茶会の席の整いが、たまたまではなく、必然として崩れていた、ということでございます」


応接室の中の空気が、わずかに重くなっていた。


公爵閣下は、ふたたび息を整えてから、続けられた。


「ロベルトは、これを開かないままで、リーゼ様の席ばかりを、自分の口で当日に組み直していた。クラリス嬢の手のうえで、一年分の整いが、すでに書かれていたにもかかわらず」


「公爵閣下」


「クラリス嬢」


「はい」


「我が家の名で、改めてお謝り申し上げる」


公爵閣下は、ソファのうえで、ふたたび深く頭を下げられた。


「ロベルトは、自分の優先順位を一人で決めていた。それを、私は、長く見過ごしてきた。父として、もっと早く問い詰めるべきでございました」


「公爵閣下」


「クラリス嬢、お受け取りくださいませ」


公爵閣下は、紙束を、卓越しに私のほうへ滑らせた。


「これは、クラリス嬢の手で整えてくださっていた覚書でございます。我が家に預かっていたものを、お返しいたします」


私は、紙束に手を伸ばすことができなかった。


それは、私が三年で、いちばん心を込めて整えた覚書のうちの一冊だった。お正月明けの寒い朝に、書斎でストーブを焚きながら、一日かけて書き写したものだった。


それを、ロベルト様は、一度も開かなかった。


私は、ようやく、紙束のうえに手を置いた。


紙の角は、ロベルト様の書斎の机の上で、一年動いていなかった折り跡のままで残っていた。


公爵閣下は、もう一度、深く頭を下げられた。


「クラリス嬢」


「公爵閣下」


「ヴァランス侯爵令嬢クラリス嬢の三年は、我がモンフォール家にとって、一冊の覚書、一席の席次、一品の贈答の格付け、すべての目に見えにくい仕事の積み重ねでございました。見えにくい仕事が、一年分、机の上で一度も開かれなかった、ということが、私にとって、お謝り申し上げる、いちばんの根拠でございます」


「公爵閣下」


「もうひとつ、お伝えしたいことがございます」


「はい」


「我がモンフォール家から、これから、ヴァランス家への謝罪を、正式な書面で整える手続きを進めてまいります。私の側から、ご当家の家へ、書面の形で整え書きを預ける段取りでございます」


「公爵閣下」


「ロベルトが自分の側からヴァランス家にお詫び申し上げることも、これから先、ロベルト本人にとっての、時間と言葉の整理が必要でございます。私は、ロベルトのお詫びを、急がせはいたしません。ロベルトが、一人で時間をかけて、ヴァランス家に運んでくるのを、待たせていただきたく存じます」


私は深く頷いた。


公爵閣下の言葉のあとには、お父様が、ようやくご自分の口を開かれた。


「公爵閣下」


「ヴァランス侯爵閣下」


「本日のお越しを、ヴァランス家としてお受けいたす」


「ありがとうございます」


「公爵閣下のお越しで、ご当主のお気持ちのご整理のことを、ヴァランス家として、十分に頂戴いたした」


「ありがとうございます」


「ロベルト様のお詫びは、当家のご都合の時間でお待ち申し上げる。これは、ヴァランス家として、急がせるものではない」


「お言葉に、感謝申し上げる」


お父様の声は、いつもどおりだった。けれど、声のうしろに、長く娘を見続けてきた父の、わずかな重みが含まれていた。


公爵閣下は、ソファのうえで、もう一度、深く頭を下げられた。


「もうひとつ、お伝えいたします」


「はい」


「我がモンフォール家から、ロベルトの婚約相手として、新しい家のご準備をすることは、当面いたしません」


「公爵閣下」


「ロベルトが、一人で自分の優先順位を整理する時間が必要でございます。婚約のことを、社交界の体裁のために急ぐのは、私の側で止めます」


「ご決断、お受けいたす」


お父様は深く頷いた。


応接室のうえに、紅茶の湯気が、静かに上がっていた。


私は、卓の上の紙束を、両手の上に、軽く取り上げた。


紙束の重みは、思っていたよりも軽く、一年分の重みが、紙のなかに薄く残っていた。


「公爵閣下」


「はい」


「紙束、受け取らせていただきます」


「ありがとうございます」


私は、紙束を、自分の側の膝の上に置いた。


紙束の角は、一年分の机の上の動きの少なさを、まだ示していた。


「公爵閣下」


「クラリス嬢」


「ひとつだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」


「はい」


「公爵家のお茶会、夜会の席は、これからいかがなさいますか」


公爵閣下の口元が、ほんの少しだけ、苦笑になった。


「我が家のお茶会は、当面のあいだ、親しい家だけの、小さな席として続ける予定でございます。大きな催事は、しばらく、整え担当として、一人前の方を置くまでは、控えます」


「整え担当を置かれるのですか」


「はい」


公爵閣下の声は、淡々としていた。


「我が家の侍従頭の下に、整えの担当を一人、雇います。茶会の席次、贈答の格付け、招待状の格を、整える公的な席に女性を置くことを、私自身、ようやく決めたところでございます」


「公爵閣下」


「クラリス嬢の仕事を、一人の担当に置き換えることは、できません。けれど、一人の席を、一人前の方に任せることで、我が家の茶会の整いを、一段、整え直すつもりでございます」


「公爵閣下」


「これは、クラリス嬢の仕事の重さを、ご家として、遅まきながら認める、ひとつの形でございます」


私は、両手の膝のうえの紙束を、軽く握り直した。


「ありがとうございます」


公爵閣下は、紅茶のカップを軽く取り上げて、ようやく口に運ばれた。


紅茶のカップの湯気は、薄くなっていた。


「ヴァランス侯爵閣下、お嬢様」


公爵閣下は、紅茶を半分ほど召し上がってから、もう一度、深く頭を下げられた。


「本日のお越しを、お受けくださり、ありがとうございました」


「公爵閣下」


公爵閣下の席が、ようやく立つ時間になった。


応接室の中央で見送る際、公爵閣下は、私の顔を、もう一度、見上げられた。


「クラリス嬢」


「公爵閣下」


「あなたの仕事を、私は一年、机の上で見過ごしていた父でございます」


「公爵閣下」


「これからのあなたが、ご当家ではない、別の席で、ご自分の三年の重みに見合う方に出会われますように」


私は深く頭を下げた。


「お言葉、頂戴いたします」


公爵閣下は、応接室の入口で、ご自分の手で、わずかに頭を下げて、ヴァランス家の玄関のほうへ進まれた。


家令が、玄関まで見送りに出た。


応接室の中に、お父様と、私と、紅茶のカップが残った。


「お父様」


「うん」


「公爵閣下のお越しは」


「ヴァランス家としてお受けすべきお越しだった」


「はい」


「クラリス。お前の三年は、今、公爵家から、一回り、重みを認めていただいた」


「お父様」


「ロベルト様のお詫びが、これから来るときは、お前の時間でお受けしなさい。お父様も、お母様も、お前のお気持ちの時間を、急がせない」


「ありがとうございます」


馬車の車輪の音が、ヴァランス家の門の外で、ゆっくりと遠ざかっていった。


家令が、応接室の入口で、深く頭を下げた。


「お父様、お嬢様。公爵閣下の馬車が、ご退出されました」


「ありがとう」


「お父様、お嬢様」


家令は、もう一度、低く声を入れた。


「公爵閣下が、ご退出の際に、ひと言だけ、私の側に言葉を残されました」


「家令に?」


「はい」


家令は、わずかに身体を、お父様と私のほうへ寄せた。


「『お父様にも、お嬢様にも、ヴァランス家に、一年、紙のうえだけでお預けしたままだった、一人のお嬢様の仕事を、ようやく返しに参りました』と」


「家令」


「『一年、紙のうえだけで、と申し上げたのは、お謝りの言葉ではなく、私自身への戒めでございます』と」


私は、膝の上の紙束を、もう一度、軽く握り直した。


家令は、もう一度、深く頭を下げて、応接室を出ていった。


応接室の中で、お父様は、紅茶のカップを、軽く卓に戻された。


「クラリス」


「はい」


「お疲れだろう」


「お父様」


「今日のお席を、お前は、お前の言葉で務めた」


「お父様」


「お母様にも、後ほど話す。今は、書斎へ戻って、紙束を、お前の書斎に納めなさい」


私は深く頷いた。


応接室を出る前に、私は、もう一度だけ、卓の上に残った、公爵閣下の召し上がりの紅茶のカップを見上げた。


紅茶のカップの中身は、半分ほど残されていた。


公爵閣下は、紅茶をいつもの席よりも早めに置いて、お辞儀をしていらした。


その飲み残しの紅茶のカップが、卓の上で、ゆっくりと冷めていくのを、家令が片付ける前に、私はしばらく見ていた。


書斎へ戻って、私は、机の上に紙束を置いた。


ロベルト様の机の上で、一年動かなかった紙束。


ヴァランス家の書斎の机の上で、これから別の意味で動かれていく紙束。


机の上で、紙束の角を、軽く整え直した。


書斎の窓の外で、午後の光が、わずかに傾き始めていた。


私の三年は、公爵家から、ようやく一年、机の上で見過ごされていた重みのまま、ヴァランス家の側に戻ってきていた。


その夜、書斎の窓を閉める前に、私は、もう一度だけ、紙束の表紙に手を置いた。


ロベルト様のお詫びのお越しは、まだ来ていなかった。


その日は、たぶん、いつか、別の日に来る。


公爵閣下が一人でヴァランス家の門を入っていらした馬車の音は、もう、ヴァランス家の門の外には残っていなかった。


書斎の机の上の紙束だけが、一年分の紙の重みで、静かに残っていた。


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