第一話 三十二回目の「君なら分かってくれる」
扇を閉じる音は、夜会では誰の耳にも届かない。
それでも私は、骨のひとつひとつが指の下でたたまれていく感触を確かめるように、ゆっくりと閉じた。掌の中で、白い羽根が静かに重なっていく。
モンフォール公爵家の大広間は、いつもどおりの夜だった。シャンデリアの蝋が長く垂れて、磨かれた床に薄い光の輪を落としている。給仕の若い男が、銀の盆を肩の高さで運んでいた。広間の奥では、すでに楽団が小さな音合わせを始めている。
私は壁際で、手元の席次表を三度目に確認していた。角がわずかに折れている。先ほど、廊下で侍従頭と話していたときに、片手で握ってしまった。
「クラリス様」
声をかけてきたのは、公爵家の侍従頭だった。年配のこの男は、私が婚約者として初めてこの邸を訪れた日から、変わらぬ礼でこちらを呼んでくれている。
「先ほど、お子爵令嬢のお名前で、馬車寄せにご到着の報せが」
「リーゼ様、ですね」
「はい。ロベルト様が、玄関までお迎えに出られるとのことで」
短い報せだった。けれど、その報せが、今夜の夜会の意味をすでに変えていることを、私は知っていた。
席次表に目を落とす。来賓の名前と席が、私の手で並べ直されている。広間の中央、楽団に最も近い席。婚約者として、私の名札と、ロベルト様の名札が、隣り合って置かれている席。
その隣に、リーゼ様の席はない。
「クラリス様」
別の声が、私の名を呼んだ。
ロベルト様だった。
濃い藍色の上着の襟を、いつもより少し低く整えている。整えたのはおそらくリーゼ様だろう。彼女は、ロベルト様の襟に手を伸ばすことに、何のためらいも持たない人だった。
「少しいいかな」
ロベルト様は、私が手にしている席次表を一瞥して、それから周囲に視線を走らせた。給仕が遠ざかるのを待ち、楽団の音合わせがひときわ高くなった瞬間に、声を低くした。
「リーゼが、来ているんだ」
「存じております」
「いや、その。馬車寄せで待たせていてね」
ロベルト様の言葉は、いつもこの間で詰まる。本題に入る前の、半歩の躊躇い。三年のあいだに、私はその癖を覚えてしまっていた。
「彼女は、家族同然なんだ」
「はい」
「今夜だけ、隣を譲ってあげてくれないか。君なら分かってくれるだろう」
楽団の音合わせが止んだ。
広間の天井の高さが、急に間延びして感じられた。シャンデリアの蝋の匂いと、壁際に活けられた百合の匂いが、混ざらないままで漂っている。
席次表の角が、私の指の下でまた少し折れた。
「君が用意してくれた席を、勝手に変えるのは申し訳ないと思っている。でも、リーゼには、ほら、あの席の高さじゃないと。馬車寄せから歩いてきて、楽団のすぐ脇は、彼女には音が大きすぎるかもしれない」
ロベルト様は、私が頷くのを当然と思っている顔をしていた。
私はそういう顔を、三年間で何度も見てきた。書類仕事の打ち合わせのときも、贈り物の格を相談するときも、彼の従姉妹の婚約式の出席を相談するときも、似たような顔を見てきた気がする。
そう、似たような顔を、私はもう何度も見てきた。
数えたのはいつだったか。去年の春の夜会だ。隣席を、招待主の許しもなく譲った夜だった。私は馬車の中で、何度それを譲ったかを、ただ何となく指で数えた。書斎に戻ってからは紙に書き出した。
二十七回。
それから、夏の観劇で一回。秋の収穫祭の茶会で一回。冬の貴婦人会で一回。新年の挨拶回りで一回。今年に入ってからの春の小夜会で一回。
ここまでで三十二回。
「クラリス?」
ロベルト様は、私の沈黙を、納得への前置きと取ったらしい。
「すまない。本当に、君なら分かってくれると思って」
「ロベルト様」
「うん」
「リーゼ様の席は、楽団の脇ではなく、こちらでよろしいのですね」
私は席次表を半歩ロベルト様の側へ傾けた。
中央寄り、二列目。婚約者の席のすぐ隣ではない。けれど、子爵令嬢が公爵家の大広間で座るには十分すぎる位置だった。先ほどまで、ボーモン家の親族として、確かにここに名札を置く予定だった場所。
「いや、その」
ロベルト様は、わずかに視線を逸らした。
「リーゼは、私の隣でないと、落ち着かないんだ」
「私の席を、ですか」
「君は、いつも上手にやってくれるだろう。だから、頼みたい」
楽団がまた音を出した。低い弦の音が、床を伝って踵まで届いた。
私はもう一度、席次表に目を落とした。中央の二席。私の名札と、ロベルト様の名札。私の細かい筆跡で書いた、二人分の名前。
譲るかどうかは、本当はもう、私の中で決まっていた。
三十二回目だった。
「承知いたしました」
「クラリス、ありがとう」
「ご案内は、私から侍従頭にお伝えします」
「すまない。本当に、君なら分かってくれると思っていた」
ロベルト様は、軽く息を吐いて、それからすぐにリーゼ様のほうへ歩いていった。馬車寄せのほうではなく、玄関のほうへ。たぶん、彼女はもう中まで入ってきている。
私は侍従頭に短く事情を伝え、私の名札を中央の席から外させた。代わりに、リーゼ様の名札を置かせた。
「クラリス様」
侍従頭は、新しい名札を私の手から受け取りながら、ほんの一瞬だけ、視線を席ではなく私の顔に向けた。何かを言いかけて、やめた。それから深く頷き、紙片を持って中央へ歩いていった。
その背中を見送りながら、私は壁際に下がった。
壁の鏡に、私自身の顔が映っていた。
笑っていなかった。怒ってもいなかった。ただ、夜会の婚約者として整えられた顔がそこにあって、私はその顔の向こう側にいる自分のことを、ふと、よく知らないと思った。
リーゼ様が入ってきた。
水色のドレスは、彼女の細い首によく似合っていた。ロベルト様にエスコートされて、彼女は中央の席まで、ためらいなく歩いていった。途中、私とすれ違ったとき、彼女はほんの少しだけ立ち止まって、首をかしげた。
「クラリスお姉様」
リーゼ様は、私のことをそう呼んだ。
私の家とボーモン家の間に、姉妹の関係はない。それでも彼女は、いつからかこの呼び方を使うようになっていた。最初に呼ばれたとき、私は訂正しなかった。ロベルト様の従姉妹のような立場の少女に、不機嫌な顔を見せたくなかったからだ。
「クラリスお姉様、ごめんなさい。今夜だけ」
「お気になさらず」
私は微笑んだ。鏡で見たままの、婚約者の顔で微笑んだ。
「リーゼ様の席は、ロベルト様の隣にご用意いたしました。どうぞ、ごゆっくり」
リーゼ様は、嬉しそうに頷いた。それから、ロベルト様の腕を取り直して、楽団のほうへ歩いていった。
私の隣には、しばらく誰も来なかった。
夜会の準備の段階で、私の左隣には伯爵夫人の席を置いていた。けれど、その夫人はまだ広間に入ってきていない。気づくと、私は壁際から少しだけ離れたところに立っていて、誰の同伴者でもないように見える位置にいた。
その時、左奥の窓際で、扇がひとつ、静かに開いた。
ローズリー伯爵夫人だった。
社交界で長く中心に立つこの夫人とは、私はそれほど親しいわけではない。けれど、夜会のたびに目礼を交わすことだけは続いていた。今夜も、いつもどおり、扇の縁越しに視線が合った。
伯爵夫人は、扇を開いた手のままで、中央の席を一度見た。リーゼ様が、ロベルト様の隣で、もう椅子に座っているところだった。
それから、伯爵夫人は私を見た。
何も言わなかった。けれど、扇の角度がほんの少し変わった。閉じかけて、また開く。私はその動きを、たぶん、私だけが読み取った。
伯爵夫人は何も言わずに、頷くように目を伏せた。
私はそれを、見ていてくださったのだ、と受け取った。
それから先の夜会のことは、よく覚えていない。
楽団が予定どおりに演奏を始めて、踊りの輪ができて、来賓の挨拶がひと回りした。私は壁際で笑顔のまま、何人かの夫人と短い言葉を交わした。リーゼ様は、楽団のすぐ脇の席で、ロベルト様と楽しそうに話していた。音が大きすぎる、という心配は、結局、彼女の中にはなかったらしい。
馬車寄せから帰りの馬車に乗ったのは、夜半を過ぎた頃だった。
ヴァランス家の御者は、私の顔を見て、いつもどおりの挨拶をした。馬車の扉を閉めるとき、私は彼に「今夜は遠回りせず、まっすぐお願いします」とだけ告げた。御者は何も訊かずに頷いた。
馬車が動き出した。
夜の街は、思ったよりも静かだった。窓の外を、街灯の橙が等間隔に流れていく。私は、まだ手に持ったままだった席次表を、膝の上で開いた。
中央の席、リーゼ様の名前が書かれた紙片の隣に、ロベルト様の名札があった。
その右隣の、もうひとつの席は、本来、私の席だった。
紙の上では、私の名札はまだそこに残されている。
侍従頭が新しい名札と差し替えたあとも、控えの席次表には、私の名前が書かれたまま残っていたのだ。気を利かせて、そうしてくれたのだろう。
私は、その紙片を、指の先でほんの少しだけ撫でた。
それから、席次表をたたんで、膝の上に置いた。
車輪が石畳を踏む音が、規則正しく響いていた。
三十二回目だった。
私は窓の外を見るのをやめて、膝の上の席次表を見ていた。紙の角が、ロベルト様と話していたときに折れたままになっている。
「もう、降りようと思います」
声に出してみた。
御者には聞こえない大きさで、馬車の中の誰にも届かない高さで、私は自分の声で、そう言った。
言ってしまうと、不思議なことに、いつも夜会のあとに残る疲労が、少しだけ薄くなった気がした。
明日、お父様にお話ししよう。
三年分の席次表は、私の書斎の戸棚に、すべて残してある。贈答記録も、招待状の控えも、ロベルト様との打ち合わせのときに取った覚書も、全部、私の手元にある。
それは、私が婚約者として、公爵家を支えるために積み上げてきた紙の束だった。
明日からは、別のもののために使う。
馬車が、ヴァランス侯爵邸の門をくぐった。
門番が灯りをかかげて、低く礼をした。私はその顔を、初めてまっすぐに見返した気がした。御者が扉を開けてくれる前に、私は自分で、馬車の扉の取手に手をかけていた。
夜会の最後に開かれていた扇の角度を、私はもう一度だけ思い出した。
私の三十二回を、見ていた人がいた。
それだけで、今夜は十分だった。




