改訂呼吸
学院から届いた改訂案は、紙に印刷すると拍子抜けするほど薄かった。
条件分岐と上限値と、責任の所在を医療監督へ寄せるための文言。都市の文章。
位相整流室の空気は、薄い金属臭がした。抑制環の温度が上がっている。
制御主任が眉間に皺を寄せたまま言う。
「“本人が戻す前に外側が戻す”……つまり、先回りで再固定を掛ける。そんなことをしたら、志乃さんの操作感が崩れる」
医療監督が淡々と返した。
「崩れるのは操作感だけで済みます。崩れるべきは、身体のほうです。身体が先に崩れる兆候が出ている」
志乃は椅子に座ったまま、指先を見た。
昨夜から、握り込む癖が抜けない。抜けないことを直そうとして、また力が入る。
直す、という行為がすでに微修正だ。
三条は改訂案の末尾を指で叩いた。
「監査が来る前に、これを“医療監督判断枠”で走らせる。記録は全部残せ。名目は負荷軽減。実態は、解除窓の短縮だ」
制御主任が渋い声を出す。
「上は“方針変更”と見なす。止めに来ますよ」
「止めに来たら」三条は言った。「止めた責任を取らせる」
言い切りの声が、今日も揺れない。揺れないから、志乃は安心できない。
モニターに新しい表示が出た。
基準位相:間欠維持(試行)—改訂
方式:短時間解除+再固定(乱数)
追加:身体トリガによる解除窓自動短縮(医療監督)
トリガ:握力上昇/筋電跳ね/呼吸一定化兆候/再固定遅延
目的:解除時間超過の抑止・身体負荷の分散
注意:外部参照再侵入リスク/制御介入増による学習材料化
志乃は目を閉じた。
(呼吸)
座り続けるのではなく、座り直す。
そのために、今度は“自分の身体”が座り直す前に、外側が椅子の角度を変える。
カウント。
3。
2。
1。
緩む。
胸の奥の席が浮く。息が入る。
同時に、背中の寒さが来る。空気の端の歪み。
志乃が「戻す」と思うより早く、抑制環がわずかに鳴った。音ではない。圧の変化。
再固定。
席が沈む。歪みが薄れる。
志乃の身体が追い付く前に、戻されている。
それは救いで、同時に不安だった。自分が手を出さないほど、外側が手を出している。
ログ。
間欠維持:成功(改訂 N=01)
解除:0.49s(短縮)
再固定:0.21s
身体反応:握力上昇(軽)→トリガ作動
歪み兆候:あり(微)
参照侵蝕指標:微減
医療監督が言う。
「解除は短くなった。身体反応も、跳ねたところで切れてる」
制御主任が不満げに言う。
「切れてるだけだ。本人が“戻す”感覚を失えば、いざというときに――」
「いざというときが来る前に壊れます」医療監督が遮った。「今は“身体が遅れて解除が伸びる”のが最悪です」
志乃は息を吐いた。吐いた息が少し震える。震えを整えたくなる衝動が来て、すぐ止めた。
整えない。一定にしない。
二回目、三回目。
解除は短い。戻しは先回りで切れる。
そのたびに、志乃の胸の奥が「助かる」感覚を覚えるのがわかった。
助かる感覚が増えるほど、依存になる。依存は固定へ寄る。
そして、歪みは消えない。むしろ、解除のたびに“同じ場所”で薄く立ち上がる。
志乃は理解する。
解除の長さだけが隙間じゃない。
「席が浮く」という事実そのものが、誰かにとっての合図になっている。
そのとき、整流室の扉が開いた。
黒いスーツの一団。監査だ。
先頭にいる男が、名札を出す。
「上層監査室。安全確認のため、手順とログを提示してください」
制御主任の顔が固まる。
医療監督は一歩前に出た。
「医療判断の範囲です。患者の負荷軽減を目的とした緊急措置。責任は私が負います」
監査の男が目を細める。
「患者?」
その一語が、志乃の胸に冷たく刺さった。
患者。守るべき対象。保護されるべき対象。つまり、発言権を削りやすい対象。
三条が横から言う。
「撤回権を伴う措置です。志乃本人の意思で継続している。止めるなら、その責任をあなた方が引き取ることになる」
監査は笑わない。笑わないまま、視線を志乃へ移す。
「綾崎志乃。あなたの意思で、これを続けていると?」
志乃は目を開けた。
言葉を選ぶと遅れる。遅れると、胸の奥の席が余計に重くなる。
「はい」
「理由は」
志乃は短く言った。
「固定のままだと、削れるからです」
監査の男が書類に目を落としたまま言う。
「削れる、という表現は曖昧だ。安全確認にならない」
三条が代わりに言う。
「参照侵蝕です。混線頻度も計測されている。ログを見れば分かる」
監査が手を伸ばし、ログの一部を要求する。
医療監督が端末を回転させる。三条はその動きを止めない。止めれば、それが“隠し”になる。
監査の男が読み上げる。
「解除窓、0.49秒。……改訂前より改善。だが、歪み兆候は増加傾向……外部位相ノイズは検出不能のまま」
検出不能。変化なし。
それが一番嫌な言葉だった。見えないまま、こちらだけが介入を増やしている。
監査が言った。
「続行は条件付きだ。解除回数上限、厳格化。監査立ち会いのもとでのみ許可する」
医療監督が食い下がる。
「回数を絞れば侵蝕が進みます。短い解除を積むことで負荷を逃がしている。回数を絞るなら、代替措置が必要です」
監査の男は、答えない。
答えないまま、書類だけを残す。都市のやり方だ。
志乃は椅子の上で、腰の奥がまた軋むのを感じた。
改訂は効いているのに、軋みは消えない。軋みは“溜まっている”感覚に変わっていく。
解除のたび、戻しは外側がやる。
それでも、戻しの“準備”だけは志乃の身体がやめない。
準備は、止められない。
止めようとする努力が、また修正になる。
その晩。
志乃は個室で、腕を抱えた。抱えると楽になる。楽になる姿勢を探すこと自体が、基準に寄り添う行為になっている気がして、すぐ離した。
耳の奥に、あの声が薄く触れる。
「……戻して」
今日は、匂いが濃い。紙とインク。
白い部屋の輪郭が、眠りの縁に浮かぶ。
志乃は息を止めた。
(明日……持つかな)
問いが、身体の軋みに埋もれていく。




