残留
中央塔の夜は、白い。
昼と同じ白で、時間だけが違う。
窓がないから、夜が来ても「夜になった」と身体が納得できない。
志乃は個室の椅子に座っていた。
机の上には端末。復学手続の画面が開いたまま、薄い光を放っている。
復学:可
観察:継続(週次測定/通学同行/校内一定距離)
常時収容:解除
志乃関連プロトコル:中止
戻れる。
戻れない。
その二つが同じ画面に並んでいる。
志乃は指先で画面の縁をなぞった。
触れたところで、決まることは何もない。
胸の奥の波は、今日も静かに動いている。
塔の応答はある。整いすぎる重さが、そこに居座っている。
——掴まれている。
それが、答えを急がせた。
ノック。
扉が開き、三条が入ってくる。
いつも通り無表情。いつも通りの距離。
「決まったか」
志乃は一度だけ息を吸って、吐いた。
「……残ります」
三条の表情は変わらない。
まばたきの回数も、口元の形も。
それでも、志乃にはわかった。
三条の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
端末を持つ指の角度が、わずかに緩む。
嬉しい、と言わない嬉しさ。
三条は短く返した。
「理由は」
志乃は視線を端末から外し、三条を見た。
怖さは消えていない。消えたら嘘だ。
でも、怖いまま言える。
「私ができることがあるなら……微力でも手伝いたいです」
三条は頷く。
志乃は続けた。
「それに、仲間を危険な目にあわせたくない」
西野の声。古本の目。
面会室の空気。あの「戻ってこい」の切実さ。
戻って、何もしないで、また誰かが巻き込まれるくらいなら。
自分がここにいた方がいい。
三条は何も言わない。
否定もしない。肯定もしない。
志乃は最後の理由を、少しだけ遅れて口にした。
「……それから」
一拍。
「ここまで塔に近づいて、真実が知りたくなりました」
知りたい。
その欲求を口にするのは、少し恥ずかしい。
でも嘘ではない。
欠損の向こう。参照先。掴まれた成立点。
自分の胸に残った別色の断片。
ここまで来て、目を閉じたまま戻ることはできない。
三条が、ほんの少しだけ息を吐いた。
「分かった」
言い方は平坦だ。
けれど、返事がいつもより速い。
「……でも、上層部は中止を命じたんですよね」
志乃が言うと、三条は即答する。
「掛け合う」
志乃は眉を動かす。
三条は続けた。
「“実験”は中止だ。上の言い分は正しい。
だから形を変える。これは実験じゃない。危機対応としての運用だ」
志乃は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
運用。
それはまた、志乃が装置に近づく言葉だ。
三条は、志乃の反応を見たのか見ていないのか、視線を外さずに言った。
「そのために必要なのは、お前の意思だ」
「……私の?」
「自発的同意。撤回権。安全限界。第三者の監督。ログの封印区分」
三条の口から出る単語は、どれも都市の言葉だった。
都市の言葉でしか、都市は動かない。
でもその中に、志乃の居場所を作ろうとしているのがわかった。
「志乃」
三条が名前を呼ぶ。短く。
「残るなら、残り方を決めろ。お前が壊れないように」
志乃は頷いた。
「……わかりました」
三条は踵を返す。
扉に向かう歩幅が、いつもより少しだけ速い。
迷っている歩幅ではない。
「今すぐ行く。上と話す」
「三条さん」
志乃が呼ぶと、三条は扉の前で止まった。
志乃は言葉を探して、結局、正直に言った。
「怖いです」
三条は振り返らないまま答える。
「怖くていい。怖くない方が危ない」
それだけ言って、扉を開けた。
—
志乃はひとりになった。
端末の画面はまだ「復学:可」を表示している。
それを閉じれば、戻る道が消えるわけではない。けれど、いま閉じたら自分が逃げる気がした。
志乃は画面を閉じなかった。
胸の奥の波が、静かに一拍打つ。
塔の応答が、それに重なる。
整いすぎる重さは、まだ消えない。
掴まれた中心は、まだここにある。
志乃は天井を見上げる。
残ると決めた。
それは勇気ではない。
怖いまま、知りたいまま、守りたいまま、ここにいる選択だ。
そしてその選択は、都市の言葉に翻訳され、上層部の机に運ばれる。
三条が掛け合う。
——その結果がどうあれ、もう一度だけ、波は来る。
志乃はそう確信していた。




