復学手続き
中央塔の朝は、書類の匂いがした。
紙ではない。端末の画面に流れる決裁番号と、承認のスタンプ音。
それがこの都市の「現実」だった。
臨時対策室のスクリーンに、上層部からの通達が再表示されている。
志乃関連プロトコル停止:継続
復学手続:準備開始
公表文言:
「過敏症状への対応強化」「観測体制の最適化」
※外部位相干渉・第二核等の表現は禁止
三条はその文面を見たまま、しばらく動かなかった。
“中止”は命令で終わる。
だが“復学”は、都市が「終わったことにする」ための形になる。
制御主任が低く言う。
「都合がいいですね。異常は残っているのに、“対応した”顔が作れる」
「顔を作らないと、都市が崩れる」
三条の声は淡々としていた。
「崩れるのは霊気循環だけじゃない。生活も、秩序も、信用もだ」
言いながら、三条は自分がその言葉に飲まれているのを感じていた。
都市の言葉で志乃を動かすのは簡単だ。だがそれをやれば、志乃は二度と戻れない。
だから、彼は志乃の意思を聞くと言った。
——言ってしまった。
保護区画。
志乃は個室の椅子に座ったまま、制服の袖口を指でいじっていた。
袖口の感触だけが、まだ「学生」に繋がっている。
扉がノックされる。
入ってきたのは神代教官だった。中央局の簡易バッジを付けたまま。
教官というより、証言者の顔。
「三条から聞いた」
神代はそれだけ言い、志乃の向かいに座らない。立ったままだ。距離を取る癖が、もうここでは自然になっている。
「復学の話だな」
志乃は頷いた。
「戻れるって……言われました」
神代の目がほんの少しだけ細くなる。
「戻れる、という言葉は便利だ」
「……どういう意味ですか」
神代は一拍置き、言葉を選ぶように言った。
「戻っても、元には戻らない。お前の身体は覚えた。塔も覚えた。外も覚えた」
外。第三の位相。
志乃の胸の奥が、ほんのわずかに波打つ。
神代は続けた。
「だが、戻る価値はある。——判断はお前がしろ」
志乃は驚いた。
神代が“判断はお前”と言うのは、今までの彼からすると少しだけ不自然だった。
「私が残った方が……都市は安全なんですか」
神代は即答しない。
「安全、という言葉は嘘になる。今は」
その言い方が、逆に本当だった。
安全が保証できないからこそ、誰も断言しない。
神代は小さく息を吐き、別の方向から言った。
「お前が残れば、お前を中心に全てが回り始める。それは危険だ。
お前が戻れば、都市は別の手を探す。それも危険だ」
どちらも危険。
危険しかない。
志乃は目を閉じた。胸の波は、答えを出さない。
昼。
三条は志乃を“会議”ではなく、“面会”の部屋に案内した。
ガラス越しではない。壁の薄い、ただの小部屋。監視カメラはある。だが言葉の自由だけは、少し残る。
「条件を提示する」
三条が端末を机に置く。
復学:可
観察:継続(週次測定/通学同行/校内一定距離)
塔施設への常時収容:解除
志乃関連プロトコル:中止(上層部命令)
志乃は端末を見つめた。
戻れる。
閉じ込められない。
“実験”の手順から解放される。
「……それって、私にとっては、救いです」
志乃が言うと、三条は頷く。
「そうだ。救いだ。だから俺は、この選択肢をお前に渡す」
志乃は唇を噛む。
「でも、都市にとっては」
三条は答える。
「都市にとっては“都合のいい終わり方”にもなる。だがそれを理由に、お前が救われる道を捨てる必要はない」
志乃は顔を上げた。
「三条さんは、私に戻ってほしいんですか」
三条は一拍だけ沈黙した。
「……俺はお前に、壊れてほしくない」
それは願いだった。
中央局の人間としては、不純な願い。
「ただ、現実も言う」
三条は続ける。
「お前が塔施設を離れれば、外部干渉が“塔”ではなく“お前”を掴みに来る可能性が上がる。
塔は掴まれている。次は媒介を狙う」
媒介。
その言葉が、志乃の胸を冷やした。
「じゃあ、戻ったら危ない?」
「危ない。だがここにいても危ない。——だから、意思だ」
三条は視線を逸らさずに言った。
「志乃。俺は命令でお前を動かせる。だが、それをやらない。
お前が“戻る”と言うなら、戻す。“残る”と言うなら、上と戦う」
戦う。
簡単に言う言葉ではない。
志乃は喉の奥が痛くなるほど唾を飲んだ。
「……友だちに、会えますか」
三条の表情が、ほんのわずかに柔らかくなる。
「会わせる。短時間、塔内で。守秘は付くがな」
志乃は頷いた。
答えを出す前に、顔が見たかった。
夕方。
面会室の扉が開き、西野と古本が入ってきた。
二人とも、中央塔に似合わない顔をしている。
学院の廊下の匂いが、少しだけ混ざる。
西野が先に口を開いた。声が低い。
「……生きててよかった」
それだけ言って、言葉が続かない。
いつもの軽口が出てこない。
古本は、志乃の顔を一度見てから机の端を見た。端末の位置、カメラの角度、空調の音。
“ここが安全ではない”と理解している目。
志乃は笑おうとして、笑えなかった。
「戻れるかもしれないって、言われた」
西野の眉が跳ねる。
「戻れ。戻ってこい。今すぐ」
即答だった。感情の即答。
古本はすぐに言わない。代わりに短く聞いた。
「条件は」
志乃が答えると、古本は頷いた。
「……監視付きの通常生活だな」
西野が苛立つ。
「監視でもいいだろ。ここよりマシだ」
古本は西野を否定しない。
「マシだ。志乃の身体には」
それから、志乃に言う。
「ただ、現象は志乃から逃げない可能性が高い。相手は学習している。
志乃が塔から離れたら、塔を掴むのに志乃を使うか、志乃を掴むために塔を使う」
志乃の胸が小さく波打つ。
西野が唇を噛む。
「じゃあどうしろってんだよ」
古本は、珍しく言い切った。
「志乃が決めるしかない。——ここまで来たら、都市が決めると“都合”になる」
志乃は息を止めた。
古本の言う“都合”は、志乃を道具にする都合だ。
そして同時に、志乃を救う都合でもある。
西野が志乃を見る。
「怖いなら戻れ。怖いのが普通だ」
志乃は頷けない。
怖い。
でも、戻った先で「何もしない」ことも怖い。
古本が小さく付け足した。
「戻るなら、戻るで意味はある。塔施設内の手順は中止になる。相手に学習素材を与える速度は落ちる」
「じゃあ——」
志乃が言いかけた瞬間、胸の奥がひくりと痛んだ。
触りではない。
もっと深い、整いすぎる圧。
“掴まれた”感覚が、薄く再発する。
志乃は息を詰めた。
西野と古本は気づかない。だが古本が、志乃の目の動きで察したように一拍遅れる。
「……来たか?」
志乃は首を横に振った。
「違う。揺れじゃない。触りでもない」
言葉にすると余計に怖くなる。
けれど、否定できない。
——塔はまだ掴まれている。
志乃が戻っても、残っても、掴まれた事実は消えない。
西野が、苦しそうに言う。
「志乃。戻ってこい。俺、もうああいうの……嫌だ」
志乃は目を伏せた。
西野の「嫌だ」は、正しい。
普通の感情だ。守りたい感情だ。
古本が、静かに言う。
「戻っても終わらない。残っても終わらない。
だから志乃、“自分が壊れない方”を選べ」
その言葉が、志乃の胸の奥に落ちた。
自分が壊れない方。
都市のためでも、塔のためでもない。
自分のための判断。
それができるほど、志乃はまだ強くない。
でも、誰かのための判断だけで生きられるほど、もう弱くもない。
面会が終わり、志乃は個室に戻された。
扉が閉まる。空がない。白い壁。一定の音。
戻れる。
戻れない。
残る。
残らない。
選択肢は二つのようで、どちらも複数に枝分かれしている。
志乃はベッドに腰掛け、手を見た。
この手は、押し返せる。
押し返すほど鍵になる。
鍵になるほど、掴まれる。
そして今は、押し返しをしなくても塔が整いすぎる。
誰かの“手”が入っている。
志乃は結論を出せなかった。
戻れる未来が目の前にあるのに、そこへ足を出せない。
残る未来が怖いのに、そこから目を逸らせない。
迷いだけが、胸の波と同じリズムで続いていた。




