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もう1つのロストテクノロジー  作者: 維岡 真
第3章 混沌と狂気

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復学手続き

中央塔の朝は、書類の匂いがした。


紙ではない。端末の画面に流れる決裁番号と、承認のスタンプ音。

それがこの都市の「現実」だった。


臨時対策室のスクリーンに、上層部からの通達が再表示されている。


志乃関連プロトコル停止:継続

復学手続:準備開始

公表文言:

「過敏症状への対応強化」「観測体制の最適化」

※外部位相干渉・第二核等の表現は禁止


三条はその文面を見たまま、しばらく動かなかった。


“中止”は命令で終わる。

だが“復学”は、都市が「終わったことにする」ための形になる。


制御主任が低く言う。


「都合がいいですね。異常は残っているのに、“対応した”顔が作れる」


「顔を作らないと、都市が崩れる」


三条の声は淡々としていた。


「崩れるのは霊気循環だけじゃない。生活も、秩序も、信用もだ」


言いながら、三条は自分がその言葉に飲まれているのを感じていた。

都市の言葉で志乃を動かすのは簡単だ。だがそれをやれば、志乃は二度と戻れない。


だから、彼は志乃の意思を聞くと言った。


——言ってしまった。


保護区画。


志乃は個室の椅子に座ったまま、制服の袖口を指でいじっていた。

袖口の感触だけが、まだ「学生」に繋がっている。


扉がノックされる。


入ってきたのは神代教官だった。中央局の簡易バッジを付けたまま。

教官というより、証言者の顔。


「三条から聞いた」


神代はそれだけ言い、志乃の向かいに座らない。立ったままだ。距離を取る癖が、もうここでは自然になっている。


「復学の話だな」


志乃は頷いた。


「戻れるって……言われました」


神代の目がほんの少しだけ細くなる。


「戻れる、という言葉は便利だ」


「……どういう意味ですか」


神代は一拍置き、言葉を選ぶように言った。


「戻っても、元には戻らない。お前の身体は覚えた。塔も覚えた。外も覚えた」


外。第三の位相。


志乃の胸の奥が、ほんのわずかに波打つ。


神代は続けた。


「だが、戻る価値はある。——判断はお前がしろ」


志乃は驚いた。

神代が“判断はお前”と言うのは、今までの彼からすると少しだけ不自然だった。


「私が残った方が……都市は安全なんですか」


神代は即答しない。


「安全、という言葉は嘘になる。今は」


その言い方が、逆に本当だった。

安全が保証できないからこそ、誰も断言しない。


神代は小さく息を吐き、別の方向から言った。


「お前が残れば、お前を中心に全てが回り始める。それは危険だ。

お前が戻れば、都市は別の手を探す。それも危険だ」


どちらも危険。

危険しかない。


志乃は目を閉じた。胸の波は、答えを出さない。


昼。


三条は志乃を“会議”ではなく、“面会”の部屋に案内した。

ガラス越しではない。壁の薄い、ただの小部屋。監視カメラはある。だが言葉の自由だけは、少し残る。


「条件を提示する」


三条が端末を机に置く。


復学:可

観察:継続(週次測定/通学同行/校内一定距離)

塔施設への常時収容:解除

志乃関連プロトコル:中止(上層部命令)


志乃は端末を見つめた。


戻れる。

閉じ込められない。

“実験”の手順から解放される。


「……それって、私にとっては、救いです」


志乃が言うと、三条は頷く。


「そうだ。救いだ。だから俺は、この選択肢をお前に渡す」


志乃は唇を噛む。


「でも、都市にとっては」


三条は答える。


「都市にとっては“都合のいい終わり方”にもなる。だがそれを理由に、お前が救われる道を捨てる必要はない」


志乃は顔を上げた。


「三条さんは、私に戻ってほしいんですか」


三条は一拍だけ沈黙した。


「……俺はお前に、壊れてほしくない」


それは願いだった。

中央局の人間としては、不純な願い。


「ただ、現実も言う」


三条は続ける。


「お前が塔施設を離れれば、外部干渉が“塔”ではなく“お前”を掴みに来る可能性が上がる。

塔は掴まれている。次は媒介を狙う」


媒介。

その言葉が、志乃の胸を冷やした。


「じゃあ、戻ったら危ない?」


「危ない。だがここにいても危ない。——だから、意思だ」


三条は視線を逸らさずに言った。


「志乃。俺は命令でお前を動かせる。だが、それをやらない。

お前が“戻る”と言うなら、戻す。“残る”と言うなら、上と戦う」


戦う。

簡単に言う言葉ではない。


志乃は喉の奥が痛くなるほど唾を飲んだ。


「……友だちに、会えますか」


三条の表情が、ほんのわずかに柔らかくなる。


「会わせる。短時間、塔内で。守秘は付くがな」


志乃は頷いた。


答えを出す前に、顔が見たかった。


夕方。


面会室の扉が開き、西野と古本が入ってきた。


二人とも、中央塔に似合わない顔をしている。

学院の廊下の匂いが、少しだけ混ざる。


西野が先に口を開いた。声が低い。


「……生きててよかった」


それだけ言って、言葉が続かない。

いつもの軽口が出てこない。


古本は、志乃の顔を一度見てから机の端を見た。端末の位置、カメラの角度、空調の音。

“ここが安全ではない”と理解している目。


志乃は笑おうとして、笑えなかった。


「戻れるかもしれないって、言われた」


西野の眉が跳ねる。


「戻れ。戻ってこい。今すぐ」


即答だった。感情の即答。


古本はすぐに言わない。代わりに短く聞いた。


「条件は」


志乃が答えると、古本は頷いた。


「……監視付きの通常生活だな」


西野が苛立つ。


「監視でもいいだろ。ここよりマシだ」


古本は西野を否定しない。


「マシだ。志乃の身体には」


それから、志乃に言う。


「ただ、現象は志乃から逃げない可能性が高い。相手は学習している。

志乃が塔から離れたら、塔を掴むのに志乃を使うか、志乃を掴むために塔を使う」


志乃の胸が小さく波打つ。


西野が唇を噛む。


「じゃあどうしろってんだよ」


古本は、珍しく言い切った。


「志乃が決めるしかない。——ここまで来たら、都市が決めると“都合”になる」


志乃は息を止めた。


古本の言う“都合”は、志乃を道具にする都合だ。

そして同時に、志乃を救う都合でもある。


西野が志乃を見る。


「怖いなら戻れ。怖いのが普通だ」


志乃は頷けない。


怖い。

でも、戻った先で「何もしない」ことも怖い。


古本が小さく付け足した。


「戻るなら、戻るで意味はある。塔施設内の手順は中止になる。相手に学習素材を与える速度は落ちる」


「じゃあ——」


志乃が言いかけた瞬間、胸の奥がひくりと痛んだ。


触りではない。

もっと深い、整いすぎる圧。


“掴まれた”感覚が、薄く再発する。


志乃は息を詰めた。

西野と古本は気づかない。だが古本が、志乃の目の動きで察したように一拍遅れる。


「……来たか?」


志乃は首を横に振った。


「違う。揺れじゃない。触りでもない」


言葉にすると余計に怖くなる。

けれど、否定できない。


——塔はまだ掴まれている。


志乃が戻っても、残っても、掴まれた事実は消えない。


西野が、苦しそうに言う。


「志乃。戻ってこい。俺、もうああいうの……嫌だ」


志乃は目を伏せた。


西野の「嫌だ」は、正しい。

普通の感情だ。守りたい感情だ。


古本が、静かに言う。


「戻っても終わらない。残っても終わらない。

だから志乃、“自分が壊れない方”を選べ」


その言葉が、志乃の胸の奥に落ちた。


自分が壊れない方。


都市のためでも、塔のためでもない。

自分のための判断。


それができるほど、志乃はまだ強くない。

でも、誰かのための判断だけで生きられるほど、もう弱くもない。


面会が終わり、志乃は個室に戻された。


扉が閉まる。空がない。白い壁。一定の音。


戻れる。

戻れない。

残る。

残らない。


選択肢は二つのようで、どちらも複数に枝分かれしている。


志乃はベッドに腰掛け、手を見た。


この手は、押し返せる。

押し返すほど鍵になる。

鍵になるほど、掴まれる。


そして今は、押し返しをしなくても塔が整いすぎる。

誰かの“手”が入っている。


志乃は結論を出せなかった。


戻れる未来が目の前にあるのに、そこへ足を出せない。

残る未来が怖いのに、そこから目を逸らせない。


迷いだけが、胸の波と同じリズムで続いていた。



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