前倒し
翌日。
午前十時三十九分。
まだ、三分ある。
教室は妙に静かだった。
誰もが時計を意識している。意識していないふりを、全員が同じ精度でしている。
神代教官はいつも通り黒板に向かい、講義を進めている。
霊気は保存される
だが循環は外部要因に左右される
志乃はノートを取っていた。文字は書けているのに、指先だけがわずかに冷たい。
胸の奥のざわつきが、昨日より早い。時計より先に、身体が時間を数えている。
(まだ、時間じゃない)
隣の西野は机の下で端末を見ている。画面の明かりが指の間から漏れ、落ち着きなく消えては灯る。
古本は腕時計を外し、机の上に置いていた。秒針の音が、やけに大きい。
10:40
その瞬間だった。
窓の外――スカイ・ピラーの先端が揺らいだ。
昨日より、二分早い。
空気が、一瞬だけ重くなる。教室の容積が増えたみたいに、音が遠のく。
志乃の呼吸が止まる。
胸の奥で霊気が“押し上げられる”。内側から波がせり上がる感覚。吐き気に似ているのに、気持ち悪さではなく、圧だけがある。
(制御)
志乃は机の下で指を握り、意識を深く沈める。
深呼吸。光は出さない。出力しない。ただ抑える。
机の木目が、きし、と鳴った気がした。自分の耳が過敏になっているだけかもしれない。
隣で西野が小さく息を呑む。
古本が低く呟いた。
「前倒し。二分」
神代教官が黒板を叩く。
「座っていろ。揺らぎは許容範囲内だ」
声は落ち着いている。平常のまま押し切る声だ。
だが――教官の手元の端末が点灯している。通知の表示が走り、次の表示に切り替わる。志乃は見逃さなかった。
揺らぎは三秒続いた。
その後は、何事もなかったかのように収束する。
窓の外の塔は、再び完璧な直線。完璧な光。完璧な沈黙。
教室のざわめきが遅れて戻り、呼吸の音が増える。
西野が志乃の顔を覗き込む。
「お前、大丈夫か」
「……うん」
口ではそう言った。
でも本当は違う。
昨日より確実に強かった。
塔が揺れた瞬間、自分の内側も同じタイミングで揺れた。
まるで――呼吸を合わせているみたいに。
昼休み。
屋上。風は弱く、フェンスの金属が陽に温まっている。
三人は塔を見上げた。見上げないという選択肢が、この都市では最初から用意されていない。
古本がメモ帳を広げる。数字がびっしり並んでいる。
「ログの基準点が混ざってる」
西野が眉を寄せる。
「何が?」
「一日目の“十四時十七分”は、都市ログの公開値だ。平滑化と遅延が入ってる」
古本は淡々と続ける。
「学院ユニットが拾った発生点は二日目が十時四十二分。三日目が十時四十分」
西野が肩をすくめる。
「昨日から計算し直してんのかよ」
古本は頷く。
「周期は正確に二十四時間じゃない。わずかに短い」
志乃が聞き返す。
「どれくらい……?」
「推定で二十三時間五十八分前後」
西野が、今度は笑わなかった。
「それ、毎日ちょっとずつ前倒しになるやつじゃね?」
「そうなる」
古本はメモ帳を閉じた。
「放置すれば、いずれ夜間に移行する。次は“授業中”とは限らない」
志乃はスカイ・ピラーを見る。
昼だけだった揺れが、時間をずらしている。
周期が縮んでいる。
偶然にしては整いすぎている。
整いすぎているものは、たいてい意図だ。
放課後。
学院内の空気が、また一段だけ変わっていた。
廊下に見慣れない職員が増えている。制服ではない。霊気観測局の腕章。視線の配り方が、生徒ではなく“設備”を見ている。
掲示板に新たな通知が追加されていた。
当面の間、演習出力は制限値を厳守すること
不必要な高出力は禁止
西野が小さく呟く。
「制限? なんで今さら……」
古本が静かに言う。
「外部要因の可能性を排除するためだ。『生徒の出力が引き金』って結論にできる余地を潰してる」
志乃は何も言わない。
自分が揺れていることを、まだ誰も知らない。
知られたくない。
ただの学生でいたい。
“原因候補”の棚に、自分の名前を置かれたくない。
夜。
西野の家では、父親が珍しくテレビを消した。画面が暗くなり、部屋の静けさが露骨になる。
「遼」
父の声は低い。
「最近、学院で何か変わったことはあるか」
西野は一瞬だけ目を細め、それからいつもの調子に寄せた。
「別に」
父はそれ以上聞かなかった。
けれど視線は重いままだった。言葉を飲み込んだ重さ――聞けば答えが返ってくると知っていて、聞かない重さ。
志乃の部屋。
時計は二十二時三十八分。
塔が揺れるのは昼のはずだ。次は明日の午前十時三十八分前後――そう古本は言っていた。今は関係ない。
なのに。
胸の奥が、かすかに波打つ。
昨日までの“ざわつき”とは違う。もっと細く、もっと規則的な脈。
志乃は窓の外を見る。
スカイ・ピラーは静かだ。揺れはない。光も一定。
(……昼だけじゃない?)
志乃は自分の胸に手を当てた。
塔とは無関係に。都市の制御とは無関係に。
自分の中でだけ、微細な周期が刻まれ始めている。
半周期の残響みたいに。
あるいは、先回りするように。
都市中央・観測室。
今日のログ。
揺らぎ、前倒し二分。持続三秒。振幅はまだ基準値内。
統計上は“誤差の範囲内”。
だがグラフは確実に傾いていた。波の山が、日付の線を少しずつ削って前へ進む。
担当者が、吐息のように呟く。
「……これは自然変動じゃない」
報告はまだ上に上げられない。
判断保留。様子見。責任の先送り。
都市はまだ平穏だ。
ただ、周期が縮んだだけ。
たった二分。
それだけ――のはずなのに。
二分は確実に未来を削る。




