周期
朝六時四十分。
東都研究都市・第三居住区。
綾崎志乃は、浅い眠りの底から引き上げられるように目を開けた。
カーテンの隙間から差し込む光は薄く、まだ朝の冷たさを含んでいる。身体を起こすより先に、視線が窓へ吸い寄せられた。
スカイ・ピラーが見える。
この都市では、どの区画にいても塔が視界に入るよう、街が設計されている。安心のためのランドマーク。監視のための基準点。あるいは――ただの「中心」。
塔は今日も静かだった。規則正しく、淡い光を保ち、何ひとつ変わらない顔をしている。
志乃はしばらく、呼吸を忘れたようにそれを眺めていた。
胸の奥に、昨日から続くわずかな違和感がある。
痛みではない。恐怖とも違う。
霊気が、皮膚の内側で“薄く揺れている”感覚。水面のさざ波が、骨の中にだけ残っているみたいな。
(気にしすぎ)
そう結論づけて、志乃はベッドを降りた。
学院へ向かう途中、コンビニの前に西野がいた。手には缶コーヒー。いかにも時間を持て余した顔で、志乃を見つけると片手を上げる。
「おはよ、優等生」
「朝からうるさい」
「昨日さ、親父が珍しく早く帰ってきてさ」
西野の父は、研究都市の霊気設備管理局の職員だ。特区生まれの特区育ち。西野はその事実を隠さないし、たまにこうして“中の話”を落としてくる。
「なんか中央塔のログがうるさいらしい」
志乃は足を止めた。
「うるさい?」
西野は肩をすくめる。
「誤差が揃いすぎてるって。機械の気のせいにしちゃ、綺麗に並びすぎてるらしい」
そのとき、背後から古本の声がした。
「揃いすぎている誤差は、誤差ではない」
振り向くと、古本がいつも通りの無表情で立っている。制服の襟はきっちり、視線はどこか遠い。まるで最初からそこにいたみたいに自然だった。
西野が笑う。
「ほら来た、統計の亡霊」
古本は構わず続ける。
「市の公開ログに出てる波は、十四時十七分と十五時〇三分。けど学院の高精度ユニットの記録だと、発生点は午前十時四十二分だ。公開ログは波形の尾が拾われてるだけ」
志乃は眉を寄せる。
「発生点……」
「昨日と今日で、揺れた時刻がほぼ同じ」
古本は言い切った。
「約二十四時間周期」
その言葉が、志乃の胸の奥の“薄い揺れ”と噛み合う。偶然のはずなのに、身体が先に納得しかけるのが嫌だった。
教室。
午前中は通常授業だ。けれど空気は、昨日までの“いつも通り”とは微妙に違っていた。
誰も騒がない。誰も口にしない。
その代わり、視線が落ち着かない。窓の方へ、時計へ、教壇へ。何かを待っているような、待っていないふりをしているような。
神代教官が黒板に式を書きながら言う。
「霊気は環境に影響される。だが大規模循環装置下では、自然変動はほぼゼロに近い」
チョークの音が止まる。
教官は振り返り、生徒たちの顔を一度だけ見渡した。
「……“ほぼ”だ。ゼロではない」
その瞬間だった。
志乃の耳の奥で、きぃん、と細い音が鳴った。痛みではないのに、内側を擦られるような不快な音。視界が一瞬だけ白く滲み、輪郭が薄くなる。
そして――窓の外。
スカイ・ピラーの先端が、かすかに明滅した。
今度は、はっきり見えた。
一秒にも満たない。けれど確実に、光が“呼吸を乱した”。空が揺れるのではなく、塔の方が、意志を持って瞬いたように見えた。
教室のあちこちで椅子が鳴る。何人かが顔を上げ、息を呑む音が重なる。
西野も、窓を見たまま固まっている。
古本だけが、視線を窓ではなく時計へ落とした。
「……十時四十二分」
志乃の胸が強く脈打つ。
それに合わせて、自分の中の霊気が同時に波立った。
(共鳴……?)
そんなはずはない、と頭が否定する。霊気は万物に備わるエネルギーだ。塔も都市も人間も同じ基盤を共有している。揺れれば影響が出る――理屈の上では、それだけのことだ。
それでも、志乃には「同時だった」ことが怖かった。
神代教官が黒板を、乾いた音が出るほど強く叩いた。
「静かにしろ。制御塔は安定している」
声は落ち着いている。いつも通りの、講義の声だ。
だが、志乃は見てしまった。
教官の手元の端末が点灯している。通知の光が、指の間で薄く瞬いていた。
教官はそれを隠さない。見ないふりをしない。
ただ、説明もしない。
それがいちばん不気味だった。
昼休み。
三人は屋上へ上がった。フェンス越しに都市が広がり、その中心にスカイ・ピラーが立っている。遠いのに、目が勝手にそこへ行く。
西野がフェンスにもたれたまま言う。
「二回目だな」
古本は小さく頷く。
「周期は確定に近い」
志乃は塔から目を離せない。
「二十四時間なら、明日も同じ時間に……?」
「理論上は」
西野が空を見上げ、眉をひそめる。
「もしズレたら?」
古本は迷いなく答えた。
「それは“自然変動”ではない」
その言葉の硬さが、屋上の空気を一段冷やした気がした。
風が吹く。
霊気制御の効いた都市では珍しい、肌に触れてわかる“本物の風”。霊気灯の揺れ方や、髪のなびき方が、制御されたものとは違う。
三人とも、同時に黙った。
スカイ・ピラーは変わらない。
完璧な塔。完璧な制御。完璧な都市。
なのに。
完璧なものに、周期的な揺らぎがある。
偶然なのか。
仕様なのか。
それとも――誰かが、どこかで、揺らしているのか。
その夜。
西野の家では、父親が珍しく無口だった。食卓の上の会話が続かず、テレビの音だけが埋め合わせみたいに流れる。西野は普段なら軽口を叩くのに、今日はそれもしない。
古本は自室でデータを整理しているはずだった。端末のログ、学院ユニットの観測値、公開値の遅延、誤差帯の幅。数字だけが世界を語る、と彼は信じている。
志乃は窓際に立った。
時計を見る。十時四十二分は、とっくに回っている。
何も起きない。
昼だけ。
昼のその時刻だけ。
塔が揺れる。
志乃は胸に手を当てた。掌の下で、心臓が規則正しく打っている。だが昼の瞬間、確かに自分も揺れた。外から叩かれたのではなく、内側から波が立った。
偶然かもしれない。
気のせいかもしれない。
でも。
明日も同じなら。
それは、誤差ではない。
志乃は窓の外の塔を見上げたまま、息を整えた。
次の十時四十二分を、待つしかなかった。




