塔のない空
音がない。
志乃は目を開ける。
天井は低い。
コンクリートの打ち放し。型枠の跡がそのまま残り、湿り気のない冷たさだけが均一に広がっている。
照明は弱く、白い。
眩しさではなく、ただ“逃げ場のない明るさ”。
胸の波は――ある。
だが塔の応答がない。
空白。
初めての感覚。
(……静か)
それは安心ではない。
むしろ、怖いほどの孤立だった。
体を起こそうとすると、手首に軽い拘束具。
霊気抑制環。
完全封鎖ではない。
微弱な制限。出力を殺すのではなく、出力の“伸び”だけを鈍らせる類の抑え。
つまり、
「壊すつもりはない」
という意思表示。
扉の向こうで足音。
低く、一定の歩幅。焦りがない。こちらの目覚めを待っていた足取りだ。
扉が開く。
フードを外した男が入ってきた。護送車前に立っていた影。
年齢は読みづらい。
骨格はまだ若いのに、目元には時間の刻みがある。髪にはわずかに灰が混じり、肌の張りは保っているのに、疲労だけが落ちない。三十代とも四十代とも取れる――そんな“中間”の顔。
服装も同じだった。無駄のない黒。襟元の処理が丁寧で、道具を持つ手の指先に迷いがない。
視線は鋭いが、荒れてはいない。刃物というより、計測器のような鋭さ。
「目覚めたか」
声は低い。抑揚が少ない。相手を脅すためではなく、事実を置くための声。
志乃は言葉を探す。
「……ここは」
男は答える。
「東都研究都市の外縁。旧開発区画だ」
外。
その一言で理解する。
塔の循環圏外。だから応答がない。
男は壁に寄りかかる。距離の取り方が正確だ。近づけば怯える、離れれば暴れる――その境界を知っている距離。
「安心しろ。命は取らない」
信用はできない。
だが波を奪われる感覚はない。
むしろ――観測されている。
男の視線は志乃の胸元に向けられている。皮膚の下で起きる“立ち上がり”を、見ているというより読んでいる。
「塔と切り離された感覚はどうだ?」
志乃は答えない。
答えた瞬間に、何かが固定される気がした。
だが男は続ける。
「君はあれに縛られている」
“あれ”。
スカイ・ピラー。都市の中心。
「俺たちは解放しただけだ」
解放。
その言葉が引っかかる。言い方が軽いのに、やっていることは重すぎる。
志乃は窓のない部屋から連れ出される。
廊下は古い。
だが設備は新しい。仮設観測機器。簡易共鳴装置。後付けの配線が、古い躯体の上に新しい意図だけを走らせている。
男が言う。
「自己紹介がまだだったな」
一拍。
「俵屋だ」
名乗り方に、余計な自己演出がない。名字だけ。所属も肩書も出さない。
出さなくても通る、と知っている言い方だった。
志乃は警戒を解かない。
「目的は」
俵屋は笑わない。
「塔の真実を確かめる」
曖昧だ。
だが目は本気だ。言葉が曖昧でも、焦点だけはぶれていない。
廊下の先の部屋。中央に小型の共鳴装置。
塔ほど巨大ではない。
だが同質の構造。霊気を束ねるための骨組みが見える。
志乃は息を呑む。
「……それ」
「未完成の第二循環核」
第二。
その言葉で、すべてが揺らぐ。塔は唯一ではない――その可能性が現実味を帯びる。
俵屋が低く言う。
「スカイ・ピラーは実験機だ」
静寂。
志乃の胸の波が強くなる。塔と似ている。だが違う。荒い。未調整。整っていないのに、力だけはある。
俵屋の言葉は静かだ。
「君が必要だ」
「塔は君を制御因子にするつもりだった」
志乃の鼓動が乱れる。
中央局の会議。隔離。強制同調。思い出す。
「俺たちは違う。君の力が本来どうあるべきか、確かめたい」
信じられない。
だが完全な嘘にも聞こえない。言葉が“優しい方向”に寄りすぎていない。
志乃は塔のない空を思う。
初めて孤立している。
だが同時に――自由にも近い。
中央塔。
出力低下。逆位相が暴れ始める。
共鳴点を失った塔は、自律制御だけでは不安定。
都市に再び警報が走る。
志乃が消えたことで、均衡は崩れた。




