第7章:憤怒
学院では、生徒たちがいつも通りの日常を過ごしていた。
エデンたちが今まさに危険の渦中にいることなど、誰一人として知ることもなく。
「……ふむ」
学園長室の中で、ヴィー学園長は珍しく真剣な表情を浮かべていた。
彼の視線は机の上に置かれた水晶球へと釘付けになっている。
その水晶球の映像は二つに分かれていた。
片方には、骸骨騎兵たちと戦うレイたちの姿。
そしてもう片方は、本来ならエデンとヴァークホロウの戦いが映っているはずなのに、ただ暗闇だけが広がっていた。
「レイネ……あいつらが危険だ」
愛する教え子たちから目を離さぬまま、ヴィーは小さく呟いた。
「そうね。でも、命に関わるほどではないわ……まだ」
レイネの声は穏やかだった。
だがヴィーには、その最後の一言だけが妙に鋭く胸へ刺さった。
まだ。
たったそれだけの言葉なのに、彼の焦燥感はさらに強くなる。
「……」
虹色に輝く瞳をヴィーへ向けた後、レイネは再び水晶球へ視線を戻した。
部屋を満たす静かな緊張感を感じ取っていた。
それでも彼女は知っていた。
ヴィーが何としてでも真実を見抜こうとしていることを。
「危険が一定以上になれば、自動で学院へ転送されるって知ってるでしょ?」
重たい空気を少しでも和らげようと、レイネが口を開く。
「……ああ。分かっている」
ヴィーは答えた。
だが視線は依然として水晶球に向けられたままだ。
「……はぁ」
平静を装っていても、その奥にある不安を感じ取ったレイネは小さくため息を漏らした。
次の瞬間、彼女は後ろからヴィーに腕を回し、そのまま膝の上へ腰を下ろす。
「やれやれ〜、ヴィーくん。私すっごく疲れちゃった〜。何か楽しいことしない〜?」
いつもの誘惑するような口調で、少しでも彼の気を紛らわせようとする。
だがヴィーは微動だにしなかった。
視線は正面のまま。
「……冗談でしょ」
レイネは少しだけ傷ついたような顔をした。
けれど彼が何を抱えているのか、誰より理解していた。
だからこそ、これ以上ふざけるのをやめた。
コンコンッ──!!
「学園長」
扉の向こうから、柔らかな声が響く。
レイネはヴィーをちらりと見た後、少し不満そうな表情を浮かべながら煙へと姿を変えた。
数秒もしないうちに、その煙は空気の中へ消えていった。
「入ってもよろしいでしょうか?」
エリカの声だった。
「ダメだ」
水晶球に意識を奪われたまま、ヴィーは反射的に答える。
「……え?」
「あ、いや! 入っていいぞ!」
慌てて意識を引き戻し、言い直した。
ギィィ──!!
扉がゆっくり開き、数枚の書類を抱えたエリカが中へ入ってきた。
「ご依頼されていた学生資料をお持ちしました」
微笑みを浮かべながら、学生たちの情報が記された資料を差し出す。
「お、いいねぇ。見せてくれ」
ヴィーの雰囲気は一瞬で変わった。
教師たちの前では、不安を隠そうとしているのだろう。
左目の前に円形の魔法レンズが現れ、数秒で資料へ目を通した。
「今年はなかなか面白い逸材が揃ってるな」
資料をエリカへ返しながら言う。
「これをシルフィナへ回してくれ。各生徒に合わせたクラス編成をしてもらう」
「承知しました」
エリカは頷いた。
しかし、その視線は一瞬だけ水晶球へ向かう。
「……あの、学園長。あの子たちは……」
「あぁ、心配するな。大丈夫だ」
ヴィーは軽く笑った。
明らかに彼女を安心させようとしている笑みだった。
「君はちゃんと私の指示通りに動いてくれた。それだけで十分だ。感謝している」
「い、いえ……私は当然のことをしただけですので……」
少し慌てたように頭を下げ、エリカは静かに部屋を後にした。
扉が閉まると同時に、ヴィーの明るい笑みは消える。
代わりに現れたのは、冷静で計算高い表情だった。
「……大丈夫だ」
小さく呟きながら、彼は再び水晶球へ視線を向ける。
何も映らなくなったエデン側の映像へ。
*****
学園長室の外では、エリカが壁にもたれかかるように静かに立っていた。
前髪が瞳に影を落としている。
あの生徒たちをあの場所へ向かわせたことへの罪悪感が、胸の奥に重くのしかかっていた。
『命令だからって、何も考えずに従い続けたら……いつか大切なものを失うかもしれない』
その不安は、心の奥底に静かに沈んだまま消えない。
やがて彼女は遠くの空へ視線を向け、小さく祈るように呟いた。
「お願い……みんな、無事に帰ってきて……」
*****
ヒストリア・ワイルド邸では、ヴィーの水晶球に映し出されていた通り、レイたちが骸骨騎兵との激戦を繰り広げていた。
その一方で。
果てしなく続く漆黒の空間の中では、ただ一つの声だけが響き渡る。
「ミスティック・インヴォーク」
ガシャァァァン──!!!
闇が、形を変え始めた。
何もない空間から、無数のレンガが突如として出現する。
そして次の瞬間、それらは激しくぶつかり合いながら積み重なり、エデンとヴァークホロウを囲む巨大な壁を形成していった。
ほんの一瞬の出来事だった。
積み上がった無数の構造物は、やがて誰も予想できなかった姿へと完成する。
巨大な――ローマ闘技場。
圧倒的な存在感を放つ巨大なコロッセオが、二人の周囲にそびえ立っていた。
「ミスティック領域……か?」
ヴァークホロウがついに口を開いた。
燃え盛る炎の瞳が、周囲を囲む巨大な闘技場をゆっくりと見渡していく。
刻まれた笑みは、さらに深く歪んだ。
「まさか、これほど若いアノマリーが既にミスティック領域を展開できるとはな」
喉の奥から歪んだ笑い声が漏れる。
「実に興味深い」
「……興味深い、だって?」
エデンがゆっくりと顔を上げた。
深紅の瞳が不気味なほど強く輝き、その奥に刻まれた黒い三角紋様は時間と共にさらに深く染まっていく。
「へぇ……」
ゆっくりと口元が吊り上がった。
「面白いな。レッドフォールにまで俺の偉大さを認められるとは」
そして小さく付け加える。
「……でもさ」
次の瞬間だった。
空気が揺れる間もなく、その姿が消えた。
「俺はお前と違って暇じゃないんだよ」
「なっ……いつの間に──」
ズバァァァッ──!!!
「ガァァァァッ!?」
ヴァークホロウの喉から低く苦痛の叫びが絞り出された。
エデンの大鎌がその背中を深く切り裂き、貴族風の衣装ごと肉を裂いていく。
傷口からは、まるで溶岩のような血が激しく噴き出した。
「き、貴様ァ……クレストフォール……」
ヴァークホロウは低く呪詛を吐き出すことしかできなかった。
一方エデンは軽く後方へ跳び、再び距離を取る。
「なんだよ。マジで見えてなかったのか?」
口元を歪め、ニヤリと笑う。
「ダッサ」
その挑発は見事に急所へ刺さった。
「……フフ」
ヴァークホロウはゆっくりと頭を下げた。
「この……無礼な小僧が……」
刻まれた瞳の奥で燃える炎が、黒く染まっていく。
そして低く呟いた。
「――ドン・メリナ」
ズバァァァァッ────!!!!
ヴァークホロウが傘を振るった瞬間。
無数の黒き斬撃がコロッセオ全域で炸裂した。
四方八方から闘技場を飲み込んでいく。
壁は真っ二つに裂け、石柱は粉々に崩れ去る。
まるで空間そのものが切り刻まれているかのようだった。
漆黒の破壊が波となってエデンへ襲いかかる。
逃げ道など、一つとして存在しない。
だが──エデンは微動だにしなかった。
手にした大鎌が凄まじい速度で回転し始め、その周囲に防御の幕を形成する。
四方から押し寄せる無限の斬撃と激しくぶつかり合い、火花が散った。
しかし。
その防壁にも限界は訪れていた。
「……ん?」
エデンが亀裂に気づいた時には、もう遅かった。
パキィィン──!!
ドゴォォォォン────!!!!
終わりなき黒の斬撃がエデンを完全に飲み込み、そのままコロッセオ全域で大爆発を起こした。
周囲一帯は跡形もなく吹き飛び、瓦礫と塵だけが舞う。
「フン」
目の前の惨状を見たヴァークホロウは鼻を鳴らすだけだった。
そして崩壊したコロッセオの中をゆっくり歩き始める。
「これが──」
冷たい声が響く。
「己の傲慢さを信じすぎた者の末路だ、クレストフォール」
「いやいや」
その時だった。
崩壊した闘技場の奥から、声が響く。
「そりゃ傲慢じゃなくてさ……」
シュッ──!!
突如として、崩れ落ちた瓦礫が震え始めた。
「――?」
ヴァークホロウが異変に気づく間すらなかった。
周囲に散乱していた破片が、まるで時が巻き戻るかのように再構築され始めたのだ。
砕け散った壁は塵の中から再び姿を現し、崩壊した石柱は一つひとつ元の形を取り戻していく。
そして数秒後。
破壊されたはずの巨大なコロッセオは、まるで何事もなかったかのように完全な姿で再び立ち上がっていた。
「……それは違うぜ、パンプキンヘッドさん」
「何ッ!?」
ヴァークホロウの燃え盛る瞳が大きく見開かれる。
その視線の先には――
まるで王のように玉座へ腰掛けるエデンの姿があった。
そしてヴァークホロウ自身は、その下の闘技場に立たされている。
まるで王を楽しませるために放り込まれた剣闘士そのものだった。
「き、貴様……どうやった……?」
ヴァークホロウの声が揺らぐ。
「アノマリーごときに、こんな真似が――」
「アノマリーに不可能なんてない」
エデンは静かに言葉を遮った。
そのまま玉座から立ち上がり、一歩前へ出る。
「覚えとけよ」
彼の身体に刻まれていた傷は、まるで最初から存在しなかったかのように消え去っていた。
エデンは石の手すりへ足を乗せる。
そしてそのまま、闘技場へ身を躍らせた。
吹き荒れる風の中、口元から高揚した笑みが漏れる。
空中にいるまま、エデンは素手を強く握り締めた。
すると――
両手の中に、結晶のような紫色の双短剣が姿を現した。
ドガァァァン──!!!!
着地した瞬間――
ドゴォッ!!
エデンの足元から蜘蛛の巣のような亀裂が地面へと走った。
そしてゆっくりと腰を落とし、戦闘態勢を取る。
首をわずかに傾けながら、不敵な笑みを浮かべた。
「さて……」
燃え上がる深紅の瞳が、ヴァークホロウを真っ直ぐ捉える。
「……始めようか?」
「……」
なぜか、その瞬間ヴァークホロウは沈黙した。
ゆっくりと視線を上げ、エデンの瞳を見つめ返す。
そしてエデンは初めて、ほんの僅かに動揺した。
ヴァークホロウの瞳に燃える炎が、奇妙な形へ歪み始めていたのだ。
異様で――
なのに、どこか見覚えがある。
「なあ、クレストフォール……」
ヴァークホロウが口を開いた。
その声は、わずかに掠れていた。
「俺たち……レッドフォールと呼ばれる存在が、なぜ決して満たされないか……考えたことはあるか?」
「んー……知らねぇな」
エデンは頭の後ろを掻きながら答える。
今もなお、ヴァークホロウの瞳に起きている奇妙な変化が気になっていた。
「そもそも俺、レッドフォールじゃないし」
「フッ……相変わらず生意気な答えだな。予想通りだ」
ヴァークホロウは乾いた笑いを漏らしながら首を振った。
燃える瞳を左手で覆う。
「まあ、俺の知る限りだけどさ」
エデンは気楽な口調のまま言葉を続ける。
「レッドフォールの暴走って、大体なんか強い感情が原因なんだろ?」
そう言いながら、片方の結晶紫の短剣をヴァークホロウへ向けた。
「お前の場合は何だ?」
ニヤリと笑う。
「強欲か?」
「クレストフォール……そんなものだと思っているのか?」
ヴァークホロウが低く笑った。
喉の奥で軋むような、不気味な笑い声だった。
だが、その笑いは徐々に変質していく。
より深く。
より禍々しく。
より狂気じみたものへと。
瞳の奥で燃えていた炎が、突如として激しく荒れ狂い始めた。
「――それは憤怒だ、エデンッ!!」
ドゴォォォォッ──!!!
両腕を大きく広げた瞬間、漆黒のエネルギーがヴァークホロウの全身から爆発する。
まるで世界そのものへ憎悪を叩きつけるように。
「このクソみたいな世界そのものへの――」
燃え上がる瞳がエデンを射抜く。
「憤怒だァァァァァッ!!!!」
「チッ!!」
エデンは咄嗟に双短剣を交差させ、押し寄せる衝撃波を防ぐ。
ガァァァッ──!!
暴風のような黒き力が周囲を荒れ狂った。
だが、その時だった。
「――っ!?」
エデンの呼吸が止まる。
視界に映ったものが、あまりにも衝撃的だったからだ。
ヴァークホロウの燃え盛る瞳の奥。
そこに映っていたのは――
アノマリーの証。
エデンだけが持っていると信じていた、あの特異な瞳だった。
「ふぅむ……何だったかなぁ?」
ヴァークホロウがわざとらしく首を傾げる。
知らないふりをしながら、ゆっくりと身体を前へ傾けた。
「アノマリーに不可能なんてない……だったか?」
歪んだ笑い声が漏れる。
「さっき、お前が言っていた言葉じゃなかったか?」
そう言うと、ヴァークホロウは手にしていた傘を軽く空へ放り投げた。
次の瞬間――
グニャリ、と。
傘の形が捻じ曲がり始める。
一瞬のうちに、その姿は巨大で禍々しい戦槌へと変貌した。
ドゴンッ──!!
落下してきたそれを、ヴァークホロウは片手で掴み取る。
そして燃え盛る瞳をエデンへ向けた。
その顔には隠しきれない愉悦が浮かんでいた。
エデンの顔に刻まれた動揺を、心の底から楽しんでいるのだ。
「試してみようじゃないか」
不気味な笑みが深く歪む。
「その言葉がどこまで真実なのか――」
燃える瞳が鋭く細められる。
「エデン・クレストフォールッ!!」
〈FATE SIMULATOR — 観測ログ〉
[場所:ミスティック領域 ― ゼロ・デスの闘技場]
[対象ID:DENIGRØS継承者]
[主要アノマリー:エデン・クレストフォール]
[敵対存在:REDFALL ― ヴァークホロウ]
[局所現実歪曲:安定化済み]
[領域顕現:確認]
[侵食適応:検知]
[アノマリー・シグネチャ重複:検出]
→ 適合性:不明
→ REDFALL共鳴異常
[感情触媒を特定]
→ 憤怒(WRATH)
[ルーン活動:急上昇中]
[Denigrøs Echo反応:活動中]
[時間軸同期:さらなる非同期化を検知]
[観測者アクセス:部分的遮断]
[脅威レベル:測定不能]




