雷鳴の夜に生まれた男——Nikola Teslaが人類に灯した光
テスラと聞いて、まず頭に浮かぶのは何だろうか。流線形のシルバーボディ、自動運転、そして絶えず物議を醸すイーロン・マスク——多くの人にとって、その名前はもう一つの車のブランド以上の意味を持たない。
けれど今日、私が語りたいのはマスクの話ではない。170年前からその名を受け継いできた、正真正銘の「テスラ」——Nikola Teslaその人の話だ。マスクは、ただこの名前を借りただけである。本物のテスラは、車になど一切興味がなかった。彼が生涯を懸けて追いかけたのは、目には見えない力——電気そのものだったのだから。
場所は当時のオーストリア帝国領、現在のクロアチアにある小さな村、スミリャン。空は雷鳴に切り裂かれ、稲妻が窓の外を白く染めていた。取り上げにあたった産婆は、あまりの荒れ模様に手を震わせながらこう言ったという。「この子は、闇の申し子になるでしょう」。だが、疲れ切ったベッドの上で、母ジューカはきっぱりと言い返した。「いいえ。この子は、光の申し子になります」。
Teslaの頭の中には、誰にも見えない工房があった。新しい発電機や仕組みを思いつくと、彼は紙に設計図を起こす前に、まず頭の中でその機械を丸ごと組み立てた。何週間も想像の中でそれを稼働させ続け、どの部品が先に摩耗するかまで確かめてから、ようやく現実の世界に手をつけたという。まるで脳のどこかに、もう一つの実験室を隠し持っているかのようだった。
その一方で、彼の日常は奇妙なまでに細かい決まりごとに縛られていた。食事の前には、皿の上の料理の体積を頭の中で正確に割り出さないと、フォークを手に取ることができない。宿泊するホテルの部屋番号は、必ず3で割り切れなければならず、毎朝18枚の真新しいタオルを届けさせた。他人の髪に触れることを極端に嫌い、丸いもの、とりわけ真珠のアクセサリーを目にすると、席を立ってしまうことさえあったという。今なら強迫性障害という名前がついたかもしれない。だが当時、そんな言葉はまだこの世に存在せず、人々はただ彼を「変人」と呼んだ。
Teslaの名を一躍世に知らしめたのは、エジソンとの確執——のちに「電流戦争」と呼ばれることになる争いだった。エジソンは直流を、Teslaと彼を支えた実業家ウェスティングハウスは交流を推し進めていた。交流の「危険性」を世に示すため、エジソンは1887年から88年にかけて、自らの研究所で幾多の犬や猫、牛、そして馬までも、交流電流によって公開処刑してみせている。
巷では、「エジソンは交流電流の恐ろしさを見せつけるため、公開の場で象を感電死させた」という話が、まことしやかに語り継がれている。だが史実を丹念にたどると、少し事情が違ってくる。1903年にコニーアイランドの遊園地で処刑された象トプシーは、自分を痛めつけた飼育係を踏み殺した「問題児」として、遊園地の経営陣によって処分が決まっていた個体だった。絞殺と毒殺、そして電流とを組み合わせたその処刑の様子を、エジソンの映画会社が撮影しただけで、エジソン本人はその場に姿すら見せていない。しかも当時、「電流戦争」そのものは、すでに10年も前に決着がついていたのだ。つまり——象を殺してACの危険性を証明するという、エジソン本人の直接の意図は、後世が作り上げた物語である可能性が高い。だが犬や馬を使った、より小規模で残酷な実験は、紛れもない史実として今も記録に残っている。噂と事実のあわいに、この時代特有の熱狂と残酷さが透けて見える。
だが、この激しい争いのさなかにこそ、Teslaという人間の本質が現れる。1897年前後、Teslaを長年支え続けたウェスティングハウス社が資金繰りに窮したとき、銀行団は、発電される馬力ごとにTeslaへ支払われる特許使用料契約の破棄を迫った。もしこの契約が続いていたら、Teslaは間違いなく、当時の世界でもっとも裕福な人間の一人になっていたはずだ。
伝えられるところによれば、Teslaはその契約書を、自らの手で破り捨てたという。恩人を救うために、彼は将来手にするはずだった莫大な富を、その場で手放したのだ。
その後のTeslaは、名声も財産も少しずつ失っていった。晩年の彼は、ニューヨークの目立たないホテルの一室に、ほとんど一人きりで暮らしていた。かつて彼の発明で世界中の街灯りが灯っていたというのに、当の本人の部屋には、静けさだけが残されていた。
彼のそばにいたのは、ブライアント公園に群れる鳩たちだけだった。中でも、羽先が灰色がかった一羽の白い鳩を、彼は誰よりも深く愛した。呼べば、どこからともなく彼女はやってくる。いや、心の中で思い浮かべるだけで、彼女は現れたという。Teslaは友人にこう打ち明けている。「私は、男が女を愛するように、あの鳩を愛していた。そして彼女もまた、私を愛してくれていた」。
ある夜、その白い鳩が弱った体を引きずるようにして、彼の部屋の窓辺に舞い込んできた。ただならぬ気配を感じたTeslaが近づくと、鳩の瞳から、まばゆい光が放たれるのが見えたという——彼が実験室でどれほど強力な放電を作り出しても、届かなかったほどの光だった。
その光を最後に、白い鳩は彼の腕の中で息を引き取った。
のちにTeslaはこう語っている。彼女が死んだあの瞬間、自分の人生の仕事も、そこで終わったのだ、と。
1943年1月7日の夜、Teslaはニューヨーカー・ホテルの一室で、静かに息を引き取った。発見したのは、部屋を訪れた清掃係だったという。銀行口座には、ほとんど何も残っていなかった。
けれど、彼が世界に残していったものは、何一つ消えてはいない。今あなたの部屋の照明も、手の中のスマートフォンも、街を走り抜ける電車も——そのすべてが、彼の思い描いた「交流」という仕組みの上に成り立っている。1960年、国際度量衡総会は、磁束密度を表す単位に、彼の名を刻んだ。「テスラ」という単位は、今も理科の教科書の中で静かに生き続けている。
電気自動車がその名を冠して世界中を走り回る今この時代にも、本物のTeslaを知る人は、決して多くはない。
1856年7月10日、雷鳴の轟く真夜中に、一人の「光の申し子」が生まれた。あれから、ちょうど170年。彼が灯した光は、まだ消えていない。
今夜、部屋の明かりをつけるとき——ほんの少しでいい。あの雷雨の夜と、一羽の白い鳩のことを、思い出してみてほしい。




