「海辺のカフカ」の"カフカ"は、本当は誰だったのか
「海辺のカフカ」というタイトルを、聞いたことがある人は多いはずだ。村上春樹が2002年に発表したあの長編小説で、家出をした15歳の少年は、行く先々で自分のことを「田村カフカ」と名乗る。田村は本名、カフカは少年が自分でつけた名前だ。
では、その「カフカ」とは、本当は誰だったのか。
物語の冒頭、少年の頭の中に住む「カラス」と呼ばれる存在が、こう囁きかける——きみはこれから、世界でいちばんタフな15歳になる、と。実は「カフカ」という言葉、チェコ語で「カラス」を意味する語でもある。そしてこれは、村上春樹がただの思いつきでつけた符丁ではない。
本物のフランツ・カフカの実家——プラハで洋品店を営んでいた父親の店の看板には、実際に一羽のカラスが描かれていた。「カフカ」という姓そのものが、チェコ語で「寒鴉」、つまり一種のカラスを意味していたからだ。
その本物のカフカが生まれたのは、1883年7月3日のことだった。
オーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあったプラハ、旧市街広場からほど近い一角。ドイツ語を話すユダヤ系商人の家に、長男として生まれた。父ヘルマン・カフカは一代で店を構えた苦労人で、十数人の使用人を雇うほど羽振りもよかったが、息子が文学にのめり込む理由だけは、最後まで理解できなかったらしい。当時のプラハは、言語によって引き裂かれた街でもあった。多くの市民はチェコ語を話し、支配層はドイツ語を話し、ユダヤ人はイディッシュ語の訛りが残るドイツ語を話す——少年カフカは、そのどこにも完全には属せない隙間で育っていく。のちにドイツ語で小説を書きながらも、彼は生涯、自分の本当の居場所を、どこにも見つけられなかった人でもあった。
大学では化学、哲学を経て、最終的に法律を専攻し、博士号を取得した。卒業後、最初に就いた保険会社の仕事はあまりに過酷で、わずか一年足らずで辞めている。次に見つけたのが、ボヘミア王国労働者傷害保険協会という、もう少し「自分に合った」職場だった。カフカは日記の中で、この仕事を「パンのための仕事」と呼んでいる——本当にやりたいことは、ほかにある、という意味だ。
ところが面白いことに、カフカはこの「パンのための仕事」を、かなりきちんとこなしていたらしい。労働災害の調査、補償額の査定、採石場や工場の危険度の格付け——彼は何度も意見書を書き、当時ろくに機能していなかった現場の安全管理を、繰り返し批判している。仕事ぶりが評価されて何度も昇進し、特に自分でまとめた年次報告書には誇りを持っていて、わざわざ友人や家族にまで送っていたという記録も残っている。のちには、労働者の頭部を守るための保護帽——いわゆるヘルメットの原型の開発に、彼が関わったという逸話まで語り継がれているが、雇用主側の記録では裏付けが取れておらず、これはどちらかと言えば、人々がそう信じたくなる、美しい伝説に近いのかもしれない。それでも、ひとつだけ確かなことがある。小説の中で「ある朝、目覚めたら一匹の巨大な虫になっていた」と書いた男は、現実の昼間、ほかでもない他人の身体を、機械や落下物から守るために走り回っていたということだ。
身体が異物に変わってしまう恐怖を、生涯にわたって書き続けた男が、もっとも醒めた誠実さを注いでいたのは、見知らぬ誰かの身体を守ることだった。これはおそらく、「不条理」という二文字だけでは到底片づけられない、カフカという人間の最初の一面である。
昼は労働災害と向き合い、夜だけが彼自身のものだった。不眠に悩まされながら、プラハ旧市街、ヴルタヴァ川と橋を見下ろせる部屋で、深夜まで原稿に向かい続けた。自分の作品にはとことん厳しく、生前に発表できたのは「変身」「判決」、それにごく薄い短編集が数冊だけ。ほとんど誰の目にも留まらなかった。1917年、結核と診断される。1923年、ベルリンに移り住んだカフカは、ドーラ・ディアマントという若い女性と暮らし始める。生涯の中で、おそらくいちばん穏やかだった恋だったのかもしれない。
死期を悟ったカフカは、親友マックス・ブロートに、ひとつの遺言を託す。——自分が残した日記、手紙、未完の原稿は、すべて焼き捨ててほしい。一枚たりとも残さずに。
ブロートは、その遺言を実行しなかった。
もし忠実に従っていたら、いま私たちが「カフカの代表作」として知っている「審判」も「城」も「アメリカ」も、1924年のある晩、炎とともに永遠に消えていたはずだ。私たちが知っている「カフカ」とは、本当はあと一歩で、存在しなかったかもしれない人なのである。
1924年6月3日、カフカはウィーン郊外の療養所で息を引き取った。享年40。誕生日まで、あとちょうど一ヶ月というところだった。亡くなる一ヶ月ほど前、彼は病床に伏しながらも、最後の小説「断食芸人」の校正刷りだけは、最後まで自分の目で確かめたいと言い張ったという。絶食という極限の表現で理解を求め続けながら、結局誰にも本当には理解されなかった芸人の物語——読み終えたとき、カフカは涙を流したと伝えられている。
カフカは、ひっそりと、ほとんど無名のまま死んだ。けれどその名前は、死後ますます遠くまで歩いていった。「カフカ的」という言葉は、いまや国境も言語も越えて、説明のつかない理不尽さ、出口の見えない手続き、誰も責任を取らないシステムを言い表すときの、共通言語になっている。
そして2002年、ひとりの15歳の少年が、東京の自宅から家出をするとき、自分につける新しい名前として選んだのも、この姓だった。プラハの保険会社員が120年近く前に背負っていた「居場所のなさ」が、平成の日本で、家出する少年の名前としてふたたび呼び出される——これは偶然というより、カフカという名前そのものが、いまもなお、誰かの孤独にぴったり寄り添ってしまうからなのだと思う。
カフカが生涯でいちばん望んでいたのは、この世界から跡形もなく消え去ることだった。
それなのに1983年1月、彼の生誕からちょうど100年目にあたる年、アメリカのパロマー天文台で、ひとつの新しい小惑星が発見された。天文学者たちはこの星に、彼の名前をつけた——小惑星3412番、カフカ。直径わずか6キロほどのその星は、いまもなお地球から何億キロも離れた暗闇の中を、誰に見られるでもなく、ただ静かに太陽のまわりを回り続けている。
父の店の看板に描かれていた、あの一羽のカラス。自分の生涯を「パンのための仕事」と呼び、本当の自分を夜にだけ閉じ込めていた男。死の間際、すべてを燃やしてほしいと願った男——その人の名前は結局、誰かが思わず漏らす「これ、ちょっとカフカっぽいよね」というつぶやきの中にも、誰にも気づかれることのない夜空の片隅にも、いまだに生き続けている。
消えたかった人が、こんなにも長く、こんなにも遠くまで、覚えられている。




